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月の聲  作者: 遠呼
第一夜
2/7

序章

「響子ってさ、いつも下向いて歩いてない?」


差し出されたホットコーヒーと共に掛けられる言葉に、響子ははっと顔をあげた。

またやってしまった…と気まずい思いで、目の前にいる同僚の沙耶へ曖昧に微笑む。


「ごめん。また背筋曲がってた?癖って言うか、疲れてくるとこうなっちゃうのよね」


人もまばらになった閑散としたフロアーーーー自分の職場を視界にいれ、思い出したようにピンと背筋を伸ばす。


「ま~、年末の山場ももう少しだし、今週中には終わるといいね。というか響子は頑張りすぎなんだよ。もうちょっと肩の力抜いたら?少しサボるくらいが丁度いいって」


「そう?真面目に見えるだけだよ。成果はさんざん」


確かに疲れてはいた。ここの所、仕事に追われまくっていて、帰りが午前様なんてのもザラ。

万年肩こりも、気温が低くなると出てくる関節痛も、年齢のせいだけではなくひどくなってきている。

しかし、だとしても27歳のいい年をした社会人が、サボるというのは頂けない。たとえ、それが誰でもやれるような単純作業。やりがいのカケラもない替えの利く歯車の仕事だったとしても…だ。

楽と言うのは怖いもので、ちょっとちょっととつまみ食いしているうちに、いつしか歯止めが利かなくなる。気が付いたら業務に差し支えるくらい肥大して、総務から解雇を言い渡された若い子達を何人か見てきた。

このご時世。職は宝。見ていないようで不正は見られているもの。

結婚に縁もなければ老後は万全と言える資産もない以上、危ない橋は渡りたくはない。

そんな彼女の考えを読んだかのように、沙耶は苦笑した。「そう出来るなら、こんな時間までここにいないか」

沙耶は同期で入社した、数少ない友人と呼べる存在。「女の子」というくくりの存在が苦手な響子の唯一と言っていい理解者だ。


「まーまー。もう今夜は片付けだけだし、響子は先に帰んな。出来た発注書類は明日の朝まとめて私がカネゴンに渡しておくから」


カネゴンとは共通の上司の名前だ。

金川剛。略してカネゴン。やたら強そうな…奇しくもジャイアンと同じ名前だが、本人は気の弱そうなひょろっとしたお爺ちゃんだ。

NOと言えない日本人の典型。

その要領の悪さが、部下である自分らに残業と言う名のしわ寄せとなって来ている。


「あと少しなら手伝うよ。一緒に帰らない?」


さすがに自分だけ早上がりは決まり悪い。

響子の申し出に、沙耶は申し訳なさそうに首を振った。


「ごめん。この後、彼氏と結婚式の打ち合わせの約束をしてるの。ホントごめん。また週末ごはん一緒しよ」


あ…。


「そっか…ううん。そろそろ大詰めだものね。張り切りすぎて体壊さないようにね。じゃ、お先」


少しだけガラス質を帯びてしまった笑顔を貼り付け響子はコートとバッグを手にフロアを後にした。





正面ホールの自動ドアを抜けると、ぶわっとビル風が髪をなぶる。


…寒い…。


もう12月も半ば。

来週には世界共通となりつつある1大イベントが控えている。

気が早く10月から瞬いているネオンも、一層気温の下がった澄んだ空気の中では輝きを増して来ていた。


その華やかさを避けるように、一本入った裏道へ足を向ける。

ひっそりと静まった路地。

防犯などを考えるなら避けた方が利口だとわかっていたが、あの強烈な光の乱舞は仕事開けの目にも精神にもきつかった。


何をやってるんだろう…わたし。


沙耶の言葉に過剰に反応してしまった自分に落ち込む。


『結婚式』


沙耶は響子と同じ年齢だ。

27歳。晩婚化が進む現代では、つとめて「遅い」という年代ではない。

40歳を過ぎて初婚という例も、芸能界では良く聞く話でもある。


ではこの焦りはなんなのか。


結婚に特化して焦っているわけではない。

そうではなく、自分の行き先が定まらない。方向がわからない。そんな焦燥だ。

今まで「普通に」生きてきた。

会社と家の往復。趣味は掃除と読書。

欲はある。素敵な恋愛がしたい。旅行をしたい。転職をしてスキルを高め、もっともっと広い世界にはばたきたい。

でも、そのたびに、何か言い訳をつけて飛ぶのをやめてしまった。


実家にいる病気の父の為に組んだ、車椅子用のカーローンがあるから。

別の会社に移れば、一時的にせよお給料が下がって苦しくなるから。

こんな年齢になって特定の誰かを好きになるのも、裏切りが怖い。

女友達を作るのは、過剰に縛られるから嫌だ。


流れていく回転寿司さながら、迷って手をこまねいている内に、何もかも通り過ぎてしまった結果今だ。

このままではいけない、と思う。こうやってぬるま湯の中で流されて貴重な20代がジ・エンドでは虚し過ぎる。

でも、勇気が出ない。彼女にとって好きなことやりたい事をすることはすなわち、したくない事をすることとイコールなのだ。


「こんなんじゃなかったはずなんだけどな…」


誰にともなく呟いた言葉が、白く凝った吐息と共に闇に溶ける。

いや、記憶の限り、自分は昔から万事なあなあで「こんなん」だったと思う。

逃げるように争いを避け、外に出るのを拒み、気に入ったもの、自分を肯定してくれるものだけ受け入れながら、ひたすら安寧を享受する。

覇気がない。何かに対する情熱がない。これだけは喪えないというものが何にも。

母親にすら、あんたはどうも芯がない。とため息をつかれたもの。


でも、ふとした時にそんな自分に疑問を感じるのだ。

胸の奥が熱を持ち、悔しいようなもどかしいような苛立ちが沸き立つ。


こんなんじゃない。


こんなのは、「あたし」じゃない。



冷たい空気を頬に受け、まっすぐ駅の方向に向かう。


両脇からアーチのようにそびえたつビルとビルの合間からは、まあるい大きな月が見えた。


「綺麗…今夜は満月かぁ…」


クレーターの銀の模様すら、はっきりと見える。



(響子ってさ、いつも下を向いて歩いてない?)


沙耶から問われた一言がほろ苦さを持って心に滲む。


月は綺麗だが、見続けているのは少し息苦しかった。

月に限らず、手の届かない美しいものは何でも。

その清冽な穢れを知らない輝きを浴びていると、自分の悩みなど矮小で下らないものだと思い知らされる気がするから。

悠遠の銀河の海の営みの中で、人の一生なんて瞬き。その存在など塵に等しい。

今日は上空を覆うガスが少ないのか、孤高の貴婦人は異常なほどはっきりとそのかんばせを顕にしていた。



鼓動が高鳴る。


息苦しさが増し、響子は思わず胸を押さえた。



変なの…。



さっきからやたらと鼓動が激しい。

興奮しているのだろうか。

心臓に溶岩の固まりを流しいれたような、切なくて、どこか懐かしく濃厚な熱を持った昂ぶり。


「確かに感動するくらい、綺麗だけど…」


そういうのとはちょっと違う気がする。

そういえば統計的に満月の夜は感情が高揚し、犯罪が増加するとTVで見た気がする。

月を表すルナという単語から、狂気ルナシーという言葉も派生したくらいだ。


情緒不安定になっているのかもしれない、と何気なく視線を上げた先―――。



「はい?」



そこに信じられないものを目にして、響子は反射的に足を止めた。

いや、この場合竦んで動けなくなったと言うべきか。


「…な、なんで…?」


唇が酸素を求めてぱくぱくと喘ぐ。




ピアノの鍵盤のように林立するビルの木陰。


都会の情景にはあまりにも異質なその姿―――。


一頭の巨大な銀の獣が、背に月を従えてひっそりと佇んでいた。



固まったのは刹那。たちまち響子の頭の中は、疑問と混乱で一杯になた。


気配はまったくしなかった。



動物園から逃げてきた…?ううん、違う。これは…。



響子がすぐに自分の考えを否定したのも、「これ」という形容しか思い浮かばなかったのも無理はない。


獣は地上にいる生物とは明らかに違っていた。

猟犬の血を思わせる細長いマズルと、そこからちらりと覗くシザーバイト。

印象としては狼に似ているが、その大きさは狼とは比べ物にならない。響子自身、実物など動物園で数えるほどしか見たことはなかったが、身の丈はライオンよりも更にあるだろう。

しなやかで頑強な肢体をたっぷりと包むのは、闇を祓うしろがねの毛並み。

後方に品良く垂れた耳の飾り毛と共に夜風にたなびけば、蛍のような幻想的な光の粒子が翔び、そこだけぼんやりと仄明るい。


響子に向かってひたりと据えられたアーモンド形の瞳は、澄み切った蒼。

いぶした銀の虹彩がちらちらと瞬き、そこには言葉を解さぬ獣以上の、遥かな高みから全てを検分しているかのような深い知性の光が宿っていた。


響子は子どもの頃家族旅行で行った、信州の真冬の白樺の森と湖を思い出した。

この何かを超越したような存在感と静けさは、血潮の巡る生物と言うよりか人の意志の及ばない自然の化身と思う方がしっくり来た。

そう、まるで無慈悲に天に君臨するあの月のように。


いつのまにか辺りは水を打ったように静まり返っていた。

遠くに響いていた繁華街特有の騒がしすら届かなくなっていて、それが逆に忘れていた恐怖を身近に感じさせた。


どうしよう…。


逃げるべきか。

けれど、背を向けて走り出した途端、背後から襲われたらひとたまりもないだろう。

何より、文明の利器に頼って普段ろくに歩きもしない自分の全力疾走など、たかがしれている。


予想に反して、獣はすぐに襲っては来なかった。

ただじっと、何かを確かめるように沈黙を守っている。



――――?


その時、遠くで何かの音が響子の耳を打った。




カ――――…ン 



カ――――…ン



「教…会?」



高らかになる、美しい音。


ヨーロッパの尖塔にある鐘の音のような、厳粛なひじりの響き。


どこから響いてくるのだろう。

辺りを見回し、こんなビル街にそんなものあっただろうかと頭を捻る。


獣の様子が変わったのはその時だった。


水鏡の瞳が困惑したように揺らぎ、内なる動揺を示すように優美な尾が幾度も地をはたく。

獣が宙を仰いだ。

つられるように響子も天を見上げ、彼女は驚きに目を見開いた。



月だ。

音は、あの月から聴こえてくるのだ。



度重なる信じがたい現実に、頭痛を覚える。

けれど、響子の理性を試す出来事はそれで終わらなかった。



「あれ…?」


視界が霞んだような気がして、彼女は目をこすり――すぐに違うと自覚する。

霞んでいるのは自分の体だ。

月から降る光が粒子となってふわふわと髪や腕、コートに包まれた身体にまといつき、白い吐息と混じりあう。


それがあの獣がまとっているものを同じだと気づくと、まずい、と響子の頭の中で本能が警鐘を鳴らした。


「やだやだやだっ!!」


どうしてこんな非現実な有様になっているのかはわからないが、このまま流れに任せていてもいいことはないという事だけは肌で感じる。


思いっきり腕を振り回し、埃を落とすようにコートを払う…が、彼女のなけなしの防衛手段は徒労に終わった。


抵抗など意味がないとばかりに光は更にまといつき、響子の存在を曖昧にしていく。


ぐるりと天が廻った。

倒れたのだと自覚するまで数秒。

薄れゆく意識の中でわかったものは、宙を舞う自分の髪。


神々しいほどの光に包まれた銀の月。


そして、



何でそんな風に見るの…?



獣が響子を見ていた。

哀惜と諦めと。

愛されていると誤解してしまいそうな程優しい、胸が苦しくなるような慈しみの眼差し。




カ――――…ン 



カ――――…ン



ああ…鐘の音が聴こえる…。



柔らかな獣の背が自分の身体をすくい上げたのを最後に、響子の意識は、目を灼く様な光と静寂の中に沈んでいった。







かなり長くなる予感です。

宜しくお願いします。

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