沈む履歴書と、青いクラゲ
深夜、ひっそり現れる小さな食堂――水槽食堂。
壁一面の水槽には、あなたの心の色を映す魚たちが泳いでいます。
トラ猫のマスターがそっと差し出す一杯と、静かな光が、今日のあなたに寄り添います。
どうぞ、肩の力を抜いて、一皿だけ、心を休めてください。
スマホの画面が、無機質な明かりで私の顔を照らしていました。
件名は「選考結果のご連絡」。
本文の最後は、もう見飽きた定型文。「今後のご健闘をお祈り申し上げます」。
100社目でした。
そして、唯一最終面接まで進んだ、最後の希望でした。
深夜一時。研究室からの帰り道。
リュックの中には、書きかけの修士論文が入っています。でも、その中身はスカスカで、私の心と同じくらい空っぽでした。
吸い込まれるように、路地裏へ足を向けました。
「水槽」。今の私には、この青い光だけが救いでした。
カランコロン。
氷の音と共に店に入ると、壁一面の水槽—そこは静寂に満ちた水底でした。
トラ猫のマスターが、琥珀色の瞳で私を見つめ、無言でおしぼりを差し出してくれます。
私はカウンターに突っ伏しました。
もう、指一本動かしたくない。考えることすらやめてしまいたい。
ふと顔を上げると、目の前の水槽を、無数の「何か」が漂っていました。
それは魚ではありません。
半透明で、頼りなげに触手を揺らす、白いクラゲたちでした。
『ミズクラゲだね。脳も心臓もなく、ただ海流に身を任せて漂っている』
マスターの声が、頭の中に響きます。
「……私だ」
私は乾いた笑い声を漏らしました。
大学院に進んだのも、大きな目標があったわけじゃありません。
周りの友人がみんな進学するから。まだ働きたくなかったから。ただの「モラトリアムの延長」でした。
うちは裕福じゃありません。奨学金を借りて、親にも無理をさせて。
それなのに、研究に情熱があるわけでもない。
かといって、外の世界で戦う武器もない。
営業のような厳しいノルマに耐えられるメンタルはないし、専門職に就けるほど優秀でもない。
器用貧乏。何でもそこそこできるけど、何一つ突出したものがない。
「ねえ、マスター」
私はスマホの画面を伏せました。
「友達はみんな、内定が出たんです。私だけ、どこからも必要とされてない」
水槽の中のクラゲは、ポンプの水流に流されて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしています。
自力で泳ぐことすら諦めているように見えました。
「100回もお祈りされるとね、思うんです。お前は社会の異物だ、生産性のないゴミだって、世界中から言われてる気がして」
親への申し訳なさが、胃の奥で鉛のように固まっています。
将来への不安が、黒い霧のように視界を覆っています。
私は、すがるような目でマスターを見ました。
大きなトラ猫の、温かそうな毛並み。
「……ここで、雇ってくれませんか」
情けない声が出ました。
「私、皿洗いならできます。掃除も得意です。言われたことなら、なんだってやります。だから……」
社会の荒波に出たくない。
この静かな水底で、誰の目も気にせず、ただの海藻のように生きていきたい。
「お願いです。私を、ここで飼ってください」
酔ってもいないのに、涙が滲んできました。
それは、私の心の底からの、敗北宣言でした。
マスターは、琥珀色の瞳でじっと私を見つめました。
そして、ふいっと厨房へ向かい、フライパンを火にかけました。
ジュワァァァ……。
バターが溶ける、甘くて芳ばしい香りが漂ってきました。
コト、と置かれたのは、分厚い食パンを使った『厚切りフレンチトースト』でした。
たっぷりの卵液を吸い込んで黄金色に焼けたパンの上に、ハチミツがとろりと輝いています。
『甘いものを食べなさい。脳がガス欠を起こしているよ』
一口食べると、ジュワッと甘い卵の味が口いっぱいに広がりました。
熱い。甘い。優しい。
張り詰めていた糸が切れて、ボロボロと涙がこぼれ落ちました。
『……うちはね、「泳ぐのをやめた魚」は雇わないことにしているんだ』
マスターは静かに、でもきっぱりと言いました。
そして、水槽のクラゲを指差しました。
『彼らは、ただ流されているように見えるだろう? でも違う。彼らは「流れを利用している」んだ』
私は涙を拭いながら、クラゲを見ました。
『彼らは魚のように速くは泳げない。だから、海流に乗って、省エネで旅をする。彼らには彼らの、生き残るための生存戦略があるんだよ』
マスターは、私の空っぽの手を見ました。
『器用貧乏? それは「どんな水にも馴染める」という才能だ』
『目標がない? それは「これから何色にでもなれる」という自由だ』
100社に落ちた。それは事実です。
でも、それは私が「サメ」や「マグロ」のふりをして、無理やり速く泳ごうとしていたからかもしれません。
『君は君の潮目を見つければいい。……焦らなくていいんだよ。クラゲは、嵐が過ぎるのを待つことだって仕事のうちだからね』
フレンチトーストの最後の一切れを口に運びました。
バターの塩気とハチミツの甘さが、ぐちゃぐちゃだった心にエネルギーを充填してくれます。
雇ってはもらえませんでした。
でも、それは「お前はまだ、外の海で生きていける」という、マスターなりのエールだったのかもしれません。
「……ごちそうさまでした。美味しかったです」
私が席を立つと、マスターはニッと笑って、肉球を見せて手を振りました。
「ニャア(いってらっしゃい)」
店を出ると、東の空が白み始めていました。
夜明けの風は冷たいけれど、昨夜ほどの絶望感はありません。
家に帰って、少し眠ろう。
そして起きたら、もう一度だけ、パソコンを開いてみよう。
今度は、大手や有名企業という「激流」ではなく、私らしく漂えそうな、静かな海流を探して。
私はクラゲ。弱くて、透明で、でもしぶとく海を旅する生き物。
そう思えば、この広い社会の海も、少しだけ怖くなくなりました。
就活で頑張っている方に、心からの応援を込めて(私も就活、ものすごく苦労しました)




