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トラ猫の水槽食堂シリーズ

沈む履歴書と、青いクラゲ

作者: さこ丸
掲載日:2026/05/08

深夜、ひっそり現れる小さな食堂――水槽食堂。

壁一面の水槽には、あなたの心の色を映す魚たちが泳いでいます。

トラ猫のマスターがそっと差し出す一杯と、静かな光が、今日のあなたに寄り添います。

どうぞ、肩の力を抜いて、一皿だけ、心を休めてください。

 スマホの画面が、無機質な明かりで私の顔を照らしていました。

 件名は「選考結果のご連絡」。

 本文の最後は、もう見飽きた定型文。「今後のご健闘をお祈り申し上げます」。


 100社目でした。

 そして、唯一最終面接まで進んだ、最後の希望でした。


 深夜一時。研究室からの帰り道。

 リュックの中には、書きかけの修士論文が入っています。でも、その中身はスカスカで、私の心と同じくらい空っぽでした。


 吸い込まれるように、路地裏へ足を向けました。


 「水槽」。今の私には、この青い光だけが救いでした。

 カランコロン。

 氷の音と共に店に入ると、壁一面の水槽—そこは静寂に満ちた水底でした。

 トラ猫のマスターが、琥珀色の瞳で私を見つめ、無言でおしぼりを差し出してくれます。


 私はカウンターに突っ伏しました。

 もう、指一本動かしたくない。考えることすらやめてしまいたい。


 ふと顔を上げると、目の前の水槽を、無数の「何か」が漂っていました。

 それは魚ではありません。

 半透明で、頼りなげに触手を揺らす、白いクラゲたちでした。


『ミズクラゲだね。脳も心臓もなく、ただ海流に身を任せて漂っている』


 マスターの声が、頭の中に響きます。

「……私だ」

 私は乾いた笑い声を漏らしました。

 

 大学院に進んだのも、大きな目標があったわけじゃありません。

 周りの友人がみんな進学するから。まだ働きたくなかったから。ただの「モラトリアムの延長」でした。

 うちは裕福じゃありません。奨学金を借りて、親にも無理をさせて。

 それなのに、研究に情熱があるわけでもない。


 かといって、外の世界で戦う武器もない。

 営業のような厳しいノルマに耐えられるメンタルはないし、専門職に就けるほど優秀でもない。

 器用貧乏。何でもそこそこできるけど、何一つ突出したものがない。


「ねえ、マスター」


 私はスマホの画面を伏せました。


「友達はみんな、内定が出たんです。私だけ、どこからも必要とされてない」

 

 水槽の中のクラゲは、ポンプの水流に流されて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしています。

 自力で泳ぐことすら諦めているように見えました。


「100回もお祈りされるとね、思うんです。お前は社会の異物だ、生産性のないゴミだって、世界中から言われてる気がして」


 親への申し訳なさが、胃の奥で鉛のように固まっています。

 将来への不安が、黒い霧のように視界を覆っています。


 私は、すがるような目でマスターを見ました。

 大きなトラ猫の、温かそうな毛並み。


「……ここで、雇ってくれませんか」


 情けない声が出ました。


「私、皿洗いならできます。掃除も得意です。言われたことなら、なんだってやります。だから……」


 社会の荒波に出たくない。

 この静かな水底で、誰の目も気にせず、ただの海藻のように生きていきたい。


「お願いです。私を、ここで飼ってください」


 酔ってもいないのに、涙が滲んできました。

 それは、私の心の底からの、敗北宣言でした。


 マスターは、琥珀色の瞳でじっと私を見つめました。

 そして、ふいっと厨房へ向かい、フライパンを火にかけました。


 ジュワァァァ……。

 バターが溶ける、甘くて芳ばしい香りが漂ってきました。


 コト、と置かれたのは、分厚い食パンを使った『厚切りフレンチトースト』でした。

 たっぷりの卵液を吸い込んで黄金色に焼けたパンの上に、ハチミツがとろりと輝いています。


『甘いものを食べなさい。脳がガス欠を起こしているよ』


 一口食べると、ジュワッと甘い卵の味が口いっぱいに広がりました。

 熱い。甘い。優しい。

 張り詰めていた糸が切れて、ボロボロと涙がこぼれ落ちました。


『……うちはね、「泳ぐのをやめた魚」は雇わないことにしているんだ』


 マスターは静かに、でもきっぱりと言いました。

 そして、水槽のクラゲを指差しました。


『彼らは、ただ流されているように見えるだろう? でも違う。彼らは「流れを利用している」んだ』


 私は涙を拭いながら、クラゲを見ました。


『彼らは魚のように速くは泳げない。だから、海流に乗って、省エネで旅をする。彼らには彼らの、生き残るための生存戦略があるんだよ』


 マスターは、私の空っぽの手を見ました。


『器用貧乏? それは「どんな水にも馴染める」という才能だ』

『目標がない? それは「これから何色にでもなれる」という自由だ』


 100社に落ちた。それは事実です。

 でも、それは私が「サメ」や「マグロ」のふりをして、無理やり速く泳ごうとしていたからかもしれません。


『君は君の潮目しおめを見つければいい。……焦らなくていいんだよ。クラゲは、嵐が過ぎるのを待つことだって仕事のうちだからね』


 フレンチトーストの最後の一切れを口に運びました。

 バターの塩気とハチミツの甘さが、ぐちゃぐちゃだった心にエネルギーを充填してくれます。


 雇ってはもらえませんでした。

 でも、それは「お前はまだ、外の海で生きていける」という、マスターなりのエールだったのかもしれません。


「……ごちそうさまでした。美味しかったです」


 私が席を立つと、マスターはニッと笑って、肉球を見せて手を振りました。


「ニャア(いってらっしゃい)」


 店を出ると、東の空が白み始めていました。

 夜明けの風は冷たいけれど、昨夜ほどの絶望感はありません。

 家に帰って、少し眠ろう。

 そして起きたら、もう一度だけ、パソコンを開いてみよう。

 今度は、大手や有名企業という「激流」ではなく、私らしく漂えそうな、静かな海流を探して。


 私はクラゲ。弱くて、透明で、でもしぶとく海を旅する生き物。

 そう思えば、この広い社会の海も、少しだけ怖くなくなりました。

就活で頑張っている方に、心からの応援を込めて(私も就活、ものすごく苦労しました)

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