余命通知—未開封推奨
余命通知—未開封推奨
昼休み、受付に白い箱が三つ積まれていた。どれも同じ角度で面取りされ、同じ重さの紙で封がされている。総務の伊藤がカッターを入れると、封書が机のうえに均等に散らばった。
朱のスタンプが目に入る。未開封推奨。差出人は市民生活局 人口予測課だった。
周囲は少しざわついたが、笑う人はいなかった。封筒は、思っていたより重く、冷たかった。
ぼくは自分の名前の入った一通を受け取り、引き出しにしまった。開けない理由は、特にない。開ける理由も、特にない。
市民生活局 人口予測課
件名:余命推定通知(試行版)
本通知は統計的推定であり、医療行為ではありません。
開封後の行動変容に起因するモデル誤差について、市は責を負いません。
本通知は未開封を推奨します(条例第18条の2)。
誤差が一定範囲を超えた場合、「人口安定化特別負担金」が発生します。
再発行は有料(手数料:300円)。
翌日から、唐揚げが売れ残るようになった。伊藤は魚を食べはじめ、加湿器を買った。喫煙所は空き、エレベーターの前でみんな階段の位置を思い出した。行動は静かにそろい、歩数は一様に増えた。
健康診断の数値が整うと、“余命”は延び、市の推定モデルは外れた。外れは外れで規定があった。人口安定化特別負担金、通称“誤差税”。当初は冗談みたいな金額だったが、当たらない年が重なると、冗談ではなくなった。
広報は丁寧な言葉を選び、市議会は荒れ、通知は弁護士の手に渡った。夕方のニュースでは、役所の会見映像が繰り返された。発言は正確で、誠実そうで、どこにも落ち度がないように見えた。
「観測が行動を変えるとは、想定外でした」
担当課長はそう言った。
想定外は、よくある。想定外に罰金がつくのは、あまりない。
数ヶ月後、封書の様式が変わった。表面の朱のスタンプが大きくなり、赤い枠の中に一行増えた。未開封推奨。ぼくの引き出しにも、新様式が一通増えた。相変わらず開けない。開けない人が増え、市の予測は再び当たりに戻った。
会社では、未開封を証明するための封緘シールが配られた。破るとQRが壊れ、開封が記録される仕組みだ。あまり手の込んだ御守りは、御利益がないときがある。
人口予測課・周知
・未開封推奨は義務ではありません。開封は市民の自由です。
・ただし、開封後の行動変容が予測に影響した場合、誤差税の対象になりうることをご理解ください。
・未開封証明シールの貼付は任意です(無料)。
未開封は礼儀のようになり、貼られたシールは小さな勲章になった。郵便受けには、封書が重ねて届く。ぼくはまとめて引き出しに入れ、日付の古いものから重なっていく様子を、ときどき眺めた。
手前に置いた封筒の端が少し黄ばんで、紙はゆっくりと時を吸った。吸われた分だけ、何かが延びたような気がした。気のせいでも、困らない。
ある日、別の色の封筒が届いた。薄い灰色。差出人は同じだが、件名が違っていた。
「未開封証明に関する協力依頼」。
ぼくは開けた。灰色の封筒は、未開封推奨の対象ではなかった。中には、協力のお願いと日時、庁舎の部屋番号が書かれていた。内容は、未開封者の行動傾向調査、らしい。行動傾向は、アンケートにおとなしく答えていれば、だいたいおとなしい結果が出る。
指定された会議室は狭く、空調はやや強かった。机の上に白い箱が置かれていた。あの日と同じ面取り、同じ紙質。朱のスタンプはさらに大きくなっていた。未開封推奨の文字は、もはや封筒の中心装飾だった。
担当者は二人いた。若い職員と、年上の統計官。どちらも礼儀正しかった。
「本日は、未開封者の実態把握の一環でお越しいただきました」
若いほうが言った。
「あなたのような方が一定数いないと、当市のモデルは安定しません。たいへん助かっています」
年上のほうが続けた。
礼を言われる理由があまり浮かばず、ぼくは曖昧にうなずいた。
「ひとつ確認です。これまで、通知を一度も開封されていませんね」
「はい」
「記録の通りです。ありがとうございます」
統計官は、封緘シールのQRを読み込み、画面に緑のチェックを出した。
「本日のお願いは、簡単です。この場で一通、開封してください。開封時の心理的負荷を、当課の機器で測定します。試行にご協力いただければ、謝礼をお渡しします」
箱から取り出された封筒は、ぼく宛だった。表の隅に、小さな銀色の粒があった。開封検知のためのものだと、説明された。
ぼくは封の縁を指でならした。紙は硬く、角はきれいに落とされていた。
「開けたくない場合は、もちろんそのままで結構です」
「開けましょう」
ぼくは言った。やりたいことは、特にない。やりたくないことも、特にない。ここは、市役所で、冬の匂いがした。
市民生活局 人口予測課・試行説明書
・本試行は、開封行為が行動変容および推定誤差に与える影響を評価するものです。
・参加は任意であり、健康被害は想定されません。
・取得したデータは匿名化され、政策立案に活用されます。
・本試行の開封は、通知本体の未開封推奨の対象外です(倫理審査通過済)。
封を切る音は、静かだった。
ぼくは二つ折りの紙を取り出し、広げた。文字は少なかった。
上部の余白に、薄い透かしが見えた。赤いハンコと同じ書体で、別の言葉が入っていた。
開封確認
たったそれだけ。本文は、もっと短かった。
あなたの余命は、この通知を開封した日です。
ぼくは紙面を見直した。
誤植ではなかった。
統計官は、静かに息を吸い、淡々と口を開いた。
「驚かせてしまったなら、申し訳ない。正確にはこうです。“この通知の開封を検知した時刻をもって、あなたの推定死期は本日中に更新されました”。モデルの都合です。資源配分の集中を避けるため、当日中の救命体制の偏りを抑制します」
ぼくは紙を折り、封筒に戻した。
若い職員が、説明を補った。
「本件は、未開封者の割合が一定以上になることを前提とした、運用上の調整です。開封者ばかりになると、モデルは壊れます。未開封が多すぎると、検証ができません。ですから、未開封推奨です」
会議室の窓の外で、救急車の音が小さく通り過ぎた。
ぼくは自分の腕時計を見た。電池は十分で、秒針は滑らかに動いていた。
「つまり、これは——」
「政策です」
統計官は言った。
若い職員は、申し訳なさそうに笑った。誠実な笑い方だった。庁舎の空調は、相変わらず強かった。
帰りに、庁舎の一階で未開封証明シールの新色が配られていた。群青色。貼ると、未開封であることを周囲に示せるという。ぼくは一枚、もらった。
地下鉄までの道を歩き、階段を降りる。足取りは、いつもと同じだった。足元の段差は、いつもよりは数えた。
家に着くと、郵便受けに白い封筒が二通、灰色が一通入っていた。
白い封筒には、大きな朱のスタンプ。未開封推奨。
灰色のほうは、アンケートの予告だった。ぼくは白を引き出しにしまい、灰だけ開けた。
冷蔵庫の灯りは、いつもより明るかった。気のせいでも、困らなかった。風呂場の換気扇は、久しぶりに掃除した。湯船の湯は、少しぬるかった。
夜、テーブルの上に、今日開けた一通を置いた。赤いスタンプが、天井の灯りに薄く反射した。紙面をもう一度広げると、透かしの開封確認が、角度によって濃く見えた。
ぼくは、群青色の未開封証明シールを、封筒の口にそっと貼った。貼る意味は、特にない。意味がないことは、ときどき安心に似ている。
翌朝、会社の受付には、また白い箱があった。誰も騒がず、誰かが魚を食べ、誰かが階段を上った。
ぼくは引き出しを開け、重なった封筒の一番上に、昨日の一通を置いた。
赤いハンコの下に、細い文字があった。昨日は見落としていた。
注:本通知は未開封を推奨します。開封者の当日中の行動変容および予測逸脱に対する救急資源の優先配分は行いません。
ぼくは封をそっと閉じた。指先に紙の角が当たり、少しだけ痛かった。
昼、空はからっと晴れていて、風は弱かった。
信号は青に変わり、横断歩道の白線は均等に塗られていた。
歩き出す前に、ぼくは立ち止まった。理由は、特にない。立ち止まる理由も、特にない。
——封の内側には、今日の日付が、最初から印刷されていた。