第七章 空っぽの部屋
海のあまりにも短い人生の最後の日は、まるで彼女の人生そのものを象徴するかのように雲一つないどこまでも青い空が広がっていた。
小さな白い棺は季節外れのひまわりと、そして院内学級の子供たちが一生懸命に折ってくれた色とりどりの千羽鶴でいっぱいになった。
葬儀はホスピスの小さなチャペルでごく内輪だけで執り行われた。沙月は喪主として気丈に弔問客に頭を下げ続けたが、その心の中はまるで巨大な空洞ができてしまったかのようにがらんどうだった。
時久はそんな沙月の少し後ろにただ影のように寄り添い立っていた。彼が一体どういう立場でそこにいるのか。それを説明できる言葉を誰も持っていなかった。父親でもあり、父親でもない。家族でもあり、家族でもない。そんな複雑で曖昧な関係性が彼らの現実だった。
すべてが終わり人々が去った後、二人きりになったチャペルで沙月がぽつりと呟いた。
「……終わってしまいましたね」
「……ああ」
時久もそれ以上の言葉を見つけることができなかった。
二人の間にはあまりにも深く、そして冷たい川が流れている。海の死というそのあまりにも大きな事実が二人を固く結びつけながらも、同時に残酷なまでに引き離していた。彼らはもうお互いにどう接すればいいのか分からなくなっていたのだ。海という唯一の架け橋を失ってしまった今。
それから数週間。
沙月はまるで何かに取り憑かれたかのように仕事に没頭した。悲しみに暮れている暇などなかった。院内学級には他にも彼女の助けを必要としている子供たちがいる。彼女はこれまで以上に完璧な「長谷川先生」を演じ続けた。
しかし夜、一人がらんとした海のいなくなった病室を片付けていると、どうしようもない虚しさが彼女を襲った。
壁に貼られたままの海の拙い絵。
枕元に置かれたままの読みかけの絵本。
そして窓辺に置かれたあのメモリージャー。
その一つひとつがもはや決して戻ることのない幸せだった日々の記憶を呼び覚まし、彼女の胸を締め付けた。
病室の片付けは想像以上に辛い作業だった。海が使っていた小さなコップ、お気に入りのクレヨン、時久が撮ってくれた写真の数々。それらひとつひとつに海の体温が、海の笑い声が、海の存在が染み付いている。それを箱に詰めて閉まってしまうことは、海の人生を終わらせる最後の儀式のように感じられた。
時久はあの日以来一度もホスピスに姿を見せなかった。
彼は自分のアパートに引きこもり、ただ無為な時間を過ごしていた。
健太が遺したあのカメラは棚の奥深くにしまい込まれたまま、一度も手に取られることはなかった。
家族の写真を撮る。その行為そのものが今の彼にとってはあまりにも残酷なジョークのように感じられたからだ。
自分は父親だった。
そしてそのたった一人の娘が死んでしまった。
その事実を受け入れるには彼にはまだあまりにも多くの時間が必要だった。
アパートの窓から見える空は連日どこまでも青く晴れ渡っていた。まるで海の死を嘲笑うかのように美しく、残酷で、そして無関心だった。時久はその空を見上げながら自分の中に巨大な穴が空いていることを感じていた。娘を失った父親の穴。埋めることのできない、決して癒えることのない傷。
「……あいつ、大丈夫かしらね」
看護師長の翔子が心配そうに呟いた。
「……分かりません」
沙月は力なくそう答えた。
本当は自分から彼に連絡を取るべきなのかもしれない。しかしどんな言葉をかければいいのか全く分からなかった。
私たちは一体何だったのだろう。
恋人でもない。
夫婦でもない。
ただ一人の子供の死によって偶然結びつけられただけの赤の他人なのかもしれない。
そんなある日の夕方。
沙月が海の遺品を整理していると、一つの古い木箱が見つかった。それは海がまだ元気だった頃、院内学級のイベントで作ったタイムカプセルだった。
そんなある日の夕方。
沙月が海の遺品を整理していると、一枚の現像されていないフィルムが出てきた。
それは時久があの偽物の海で遊んだ日に使っていたフィルムだった。
彼はあの日の写真を一枚もプリントアウトすることなく姿を消してしまったのだ。
沙月はそのフィルムを握りしめしばらく考え込んだ後、意を決して立ち上がった。
そして彼女は時久のアパートへと向かった。
何かを変えなければならない。
このままでは二人とも海の死という過去に囚われたまま前に進むことができない。
そう強く思ったからだ。
ドアをノックするとしばらくして無精髭を生やしたやつれた時久が顔を出した。
彼は沙月の顔を見ると驚いたように目を見開いた。
「……これを現像していただけませんか」
沙月はフィルムを彼に差し出した。
「……これは」
「海の最後の笑顔が写っているはずです。私はそれを見る権利がある。そしてあなたにはそれを見せる義務があるはずです」
沙月のそのあまりにも力強い言葉に時久は何も言い返すことができなかった。
彼はただ黙ってそのフィルムを受け取ると、ゆっくりと頷いた。
それは空っぽになってしまった二人の心が再び交差した最初の瞬間だった。




