一章7 [芸名]
今日は土曜日である。
土曜日という事は圓鬼が屋敷にいるのだ。
今日伊織は、【二階ぞめき】のネタを上げるつもりなのである。
そのために伊織は、今日も今日とて圓鬼の屋敷へと向かった。
屋敷に着くと、いつも通り掃除などの身の回りの世話から始まる。
それが終わったのは、午前10時。
昼にはまだ早く、朝とも言えない微妙なころ。
伊織の10個目のネタの上げの稽古が始まる。
「これより上げの稽古を始める」
伊織と圓鬼だけの空間に静かに響く声。
伊織は目の前の圓鬼に礼をした。
「落語の世界には若旦那と言う、今で言うところの良いとこのお坊ちゃんみたいのが出てくると、これとよくセットで出てくるの吉原でございまして、その吉原で散財するのが決まりの様になっております。しかし今からの噺はそうではないのですが」
「若旦那このままだと勘当されてしましますから、毎晩出かけるのは控えた方よろしいかと」
「番頭悪いがそれは出来ねぇ」
伊織は右手に持っていた扇子をパンッと叩いた。
「あぁそうだ!若旦那が毎晩通う程の女性がいるなら身請けして何処かの家にでも住んでもらって、昼間に通ってしまえば良いです」
「いやぁそれは、ちょっとなぁ…」
「どうしたんです?歯切れの悪い」
伊織は言葉を使わずに渋い顔だけをする。
「あぁ若旦那もしかして遊女プレイみたいな特殊性癖ですかい?」
「プレイとか特殊性癖なんかはよく分からないが、番頭お前の顔を見るといかがわしい事ってのは分かる。そんな理由じゃないんだ。なんなら女なんてのはどうだっていいんだ」
「若旦那もしかしてゲイですかい?まぁ今は多様性の時代でもありますしね。」
「そりゃ、いつの時代だい。俺ぁ別に男が好きな訳でもねぇんだよ」
「若旦那、今度こそ分かりましたよ」
「じゃ言ってみな、お前の事だまた意味の分からねぇ事言い出すんだろ」
伊織はニヤリと笑った。
「ひやかしがお好きなんでしょ?」
伊織はカッと目を見開き、
「なんで分かったんだ?!」
「そんな事初めから気付いていましたよ」
「そうかい…俺はひやかしが好きなんだよ」
「しかしね、そう毎晩で歩かれては、大旦那から本当に勘当されますよ」
「吉原身請けできたら出歩かねぇんだけどな」
「それです!」
「それですってなんだい?いきなりデカい声出して」
「うちの二階無駄に広いでしょ?だからそこに吉原を、出入りの大工に作ってもらいましょ」
「吉原作るって、うちのお袋と姉貴を…」
「若旦那冗談でもそんな恐ろしい事、言ってはいけません。若旦那がその出来た所をひやかすのです」
「それは良いな番頭!早速やってもらってくれ」
「と言う事で番頭はすぐに出入りの大工の棟梁に頼みまして、二階に吉原もどきを作ってもらいました」
「若旦那、吉原出来ましたよ。これで好きなだけ、ひやかしても大旦那に怒られません」
「そうか、それじゃ着替えてから行くから」
「若旦那何言ってんですか?着替えるって今の着物も十分良いものですよ」
「これじゃダメなんだよ、この軽くて薄い着物じゃないと」
「ですが若旦那その着物、袂の付いてない平袖じゃないですか。今の着物の方が…」
「番頭お前は、ひやかしなんてしないから分からなんだろうがな、ひやかしをするって事は女を見ながら歩くって事だ。そうしてるとな俺と同じ様な奴がいるとぶつかっちまうだろ?女の前だ誰も自分から謝ろうなんて奴はいねぇな。謝らねぇて事は喧嘩になるだろ、そうなった時に袂がある着物だと二、三発余計に殴られちまうんだよ」
「それは分かりまいしたが、手拭いを頭に巻く事はないでしょ」
「夜露に濡れたら風邪でも引いちまうかも知れないだろ」
「夜露って若旦那今から行くのは二階ですよ。二階で夜露なんて…」
「番頭俺は今から吉原に行くんだ」
「そうでございましたね、では存分にひやかしてらっしゃいませ」
「おう、行ってくるよ」
伊織はここからの事は噺の中に入り込みすぎて覚えていない。
しかしただ一つだけ俺覚えている事は今までで一番の出来であった事だけ。
噺に入り込むなど今までにない感覚。
その感覚を楽しんでいると記憶に残らない程に一瞬で稽古が終わってしまった。
「伊織今の感覚を忘れるなよ」
伊織はその言葉を十分に噛み締めてから返事をした。
「私の真似ごとから変わり、自分の落語を見つけられたな」
圓鬼はこうなる事を見越していた様に伊織に告げた。
見透かされている事など分かっていたが、改めて師匠の凄さを感じた。
「伊織また明日来い。約束のものをやろう」
伊織は心の中ではガッツポーズしかしそれを表には出す事はない。
伊織と圓鬼の会話が終わり伊織は礼をして圓鬼の屋敷を後にした。
ーーー
次の日の朝伊織はいつもより早く目覚めた。
その理由はわざわざ言わなくても分かるだろう。
いつもより早く起きた所でその分早く朝食を食べる訳でもない。
いつもより早く起きた所でその分早く家を出る訳でもない。
伊織の今の感情の昂りは、まるで修学旅行前夜の様なワクワク感である。
そんな様子で朝食を食べていると、母親から若干引かれた様な気もするが今はそんな事どうでも良い。
母親には理解されない感情だが、父親は理解を示していた。
そんな2人の事は気にもせず準備をして家を後にした。
屋敷に着くとする事はいつもと変わらない。
だがしかし、楽しみなお陰かいつもよりスムーズに仕事が終わった。
師匠が待つ部屋はいつもの稽古をしている部屋とは違った。
いつもの少し狭い部屋ではなく、大きな庭と接している居間だ。
伊織が襖を開けて入ると、庭側に3人その対面にまた3人、そしてその一番奥には圓鬼が座っていた。
左右に座っている者達を見ると、見たことのある赤髪の美人な女性と金髪のイカつい男性。
そしてテレビで見たことのある、中年のメガネをかけた細身な男性。
「今日お前たちを呼んだのは他でもない、この椎名伊織に芸名を授けるからである」
普通はここまで仰々しくないが伊織は普通ではない。
弟子入りした経緯もそうだが………
「伊織これからは、山麓亭鬼宗と名乗れ」
圓鬼はそれだけ言って部屋を出て行った。
圓鬼が出て行ってすぐにその部屋の唯一の女性が駆け寄って来て、鬼宗の手を取り自身の手で包み込んだ。
「おめでとう」
名前をもらった本人よりも嬉しそうにしている。
そして鬼宗のもう1人の面識のある人物は、
「自分の落語が見つかってよかったな」
鬼宗は首を振り否定して、まだまだです、と言った。
鬼宗の周りに続々と人が寄ってくる。
まず1人目は、背丈が小さく中性的な見た目をした人。
2人目は、背丈は普通ぐらいで褐色な肌のカラッとした人。
3人目は、こちらの背丈は2人目と同じ程のしっかりしてそうな人。
褐色な肌をした人が、
「俺、鬼助ってんだ、よろしく」
大きな声でこちに敬礼をしながら言って来た。
その後は、中性的な人が、
「僕は、鬼燐よろしくね」
優しくて落ち着いた声で包み込む様に話している。
その次は、しっかりしてそうな人が、
「俺は、鬼蝶ね」
しっかりしているのはもちろんだがフレンドリーでもある気がした。
伊織の前には5人の人がいる。
その5人の後ろから少し避けてもらえるか、と言う男性の声。
皆が左右に捌けて見えたのは、圓鬼が居なくなった今この場での最年長だと思われる男。
「私は、鬼戟と言う、よろしくね鬼宗」
重く響くその声しかし優しさの様な物も感じられる心地よい声。
この鬼戟、圓鬼の一番弟子であり、次の圓鬼とも呼び声高い人物。
圓宗も自己紹介をしてその日はお開きになるかと思っていると、鬼姫が皆んなの前に出て、
「今日は珍しく鬼戟兄さんもいるのでご飯でもどうですか?」
「鬼姫それは、私の奢りだろ?」
鬼戟の問いかけに鬼姫が大きく、はいそうです、と言うと、
「よしそれなら良いだろう!行く場所はそうだな…鬼宗君が決めなさい」
突然の指名で鬼宗は驚きつつも、
「それなら、寿司がいいです」
これにて第一章は終了でございます。
次の章は長くなるかも?しれません。
どうぞお付き合いください!