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落語家の目指すモノ  作者: 酢琉芽
第一章 前座見習い
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一章1 [上げの稽古 転失気]

今回の話で出てくる「まくら」とは落語家が噺を始める前に短い話や世間話をして落語の頭に繋げるものです。

十代目山麓亭圓宗の死から10年が経ち夏の暑さが残る10月の初め、伊織は人生のターニングポイントにいた。


中学校卒業後の進路である。多くの者が第一志望の高校を決めていく中で伊織には高校へと通う考えはなかった。


その旨を両親へと伝えると父親は自分の好きな様にしろと言い。

母親は反対するだろうと伊織は考えていたが意外な事に好きにしなさいとしか言われなかった。


だがしかしその伊織の考えに反対の意思を示したのは中学校の担任の先生であった。

先生としても可愛い教え子が路頭に迷うとショックで夜も眠れなくなると言う。


しかし伊織の意志も固く進路相談は夏休みの前から延々と続いている。

月日はどんどん流れていきいつしか12月24日クリスマスイブであるのに、今日も進路の話かと思っていたが先生から切り出された言葉は。


「椎名君、先生はもう諦めました。あなたの意思は固く私にはどうしようも無いようです。ですが私はあなたの幸せを願っています。良い落語家になってください!応援しています!」


「俺のために親身になってくれてありがとうございます。手のかかる教え子で、すみません」


見た目の若さに似合わず大人びた事を言う白髪の天パ少し小柄な大人しい男の子


「良いのです。椎名君は大人過ぎるのでもっと子どもらしくていても良いのですよ」


「そうはいきません、落語家になった時に子どものままでは前座も務まりません」


「そうですか、あなたの落語楽しみにしています。さっもう帰りなさい」


「楽しみにしていてください。さようなら」


そう言うと伊織は教室から出ていった。



ーーー



そして伊織の向かった先はこの10年ほとんど通って来た圓鬼の家だ。

家と言っても庭は広く建物は大きい屋敷だ。


まず始めに行うのは師匠である圓鬼への挨拶からだ。


「師匠お疲れ様です。本日で2学期が終了しました」


圓鬼はそうか、とだけ言いいつも通りにしろと言った。

まずは庭からその次は玄関またその次はトイレと言った具合に屋敷の掃除から始まる。


落語家の卵と言える前座の身である者は師匠の身の回りの世話も仕事の内なのだ。

仕事を終えた後は圓鬼に教えてもらった噺の反復練習。


これが伊織の日常である。しかし今日はそれだけではなく圓鬼本人にネタの上げの稽古をつけてもらう。


上げの稽古とは噺を師匠に教わった後に自身で噺を練習し高座で演目として行って良いものなのかを見てもらう、そして駄目ならそれは持ちネタとしては使えない。


今日の上げの稽古は【転失気(てんしき)】だ。

圓鬼の前に座り、深々と礼をしてからまくらから噺を始めた。


「落語にはいろんな人が登場します、中でも知ったかぶりをする人が登場するとその人が問題を起こすんです」


「これはあるお寺さんの出来事、和尚さんは朝から具合が悪いと言うのでかかりつけの先生に往診に来ていただきます。さぁ診察を終えましていざ帰ろうとしている時にこの先生がふと思い出した様に…」


「つかぬ事を伺いますが転失気はありますかな」…………


その後も転失気の稽古は続く。


転失気という噺は、和尚がかかりつけの医師に転失気はあるかと聞かれ何のことか分からず、転失気は無いと答えてしまうところから始まる。


その後に和尚は小僧と呼ぶ珍念に転失気を何処へやったと質問し、珍念もこれが何か分からず何かと、聞き返えす。

しかしこれを和尚がはぐらかし町で聞いてきなさいと言い、町へ行かせる。


珍念が町へ行き店の者達に転失気をくれと言い尋ねると、町の者達も何処へやったか分からないなどの理由をつけてはぐらかされてしまう。


そして和尚のかかりつけ医に薬を貰うついでに転失気とは何かを聞く。

何とビックリ転失気とは放屁(オナラ)であった。


和尚が転失気のことを知らないと珍念は悟り寺に帰り転失気とは(さかずき)であると伝える。

和尚はこれを鵜呑みにして「これからは大事にしている転失気を出そう」と、珍念に命じる。


時が経ち再び医師が問診に訪れた際に和尚は、転失気がありましたと伝える。


それに対し医師がそれは良かったと安心をしていると和尚が自慢の転失気を見せると言い出し医師が驚くのを無視して珍念に(てんしき)の入った桐の箱を持ってこいと命じる。


それを聞き珍念は笑いを堪えながら桐の箱を運び、蓋を取って見せると医師が「これは盃ではありませんか」と言うと、ここでやって和尚は珍念に騙された事を知り和尚は珍念に「こんな事で人を騙して恥ずかしくないのか」と叱りつけると珍念が…


「えぇ、屁でもありません」


伊織は深々と礼をし師匠である圓鬼の言葉を今か今かと待っている。

圓鬼は少しの間考える様な素ぶりをし…


「まぁ良かろう」


静かにしかし威厳のある重たい声で伊織の落語を評価した。


圓鬼のこの言葉は稽古の終わりお告げる言葉の一つでこの「良かろう」には今日の稽古と上げの稽古2つの稽古の終わりを告げるものである。上げの稽古の終わりとはすなわち、合格であると言う事だ。


「いつも言っているから分かるな?」


「もちろんです。上げの稽古は終わりにあらず始まりであるですね」


「わかっていれば良い」


圓鬼はいつも伊織に上げの稽古の終わりに同じ事を告げる。


上げの稽古が始まりであると言うのはネタを上げて初めて客に披露するのであってそこから客の反応などを見て試行錯誤を重ねて芸を磨きあげると言う事なのだ。


「それと伊織今幾つネタを持っている?」


「今日の転失気を入れると、8つです」


10年落語をしていてネタが8つとは普通の落語家と比べるとあまりに少な過ぎる。


そして今回の転失気もそうだが伊織の持ちネタはどれも前座噺(ぜんざばなし)(前座が寄席の開口一番で演じる事の多い噺)でありこれも他の落語家と比べると異例である。


しかし伊織の実力が決して低い訳ではなく圓鬼の上げの基準が高すぎるのである。


「あと2つだ、あと2つネタを上げたら楽屋入りを認めよう」


楽屋入りとは前座として寄席の楽屋に入り、楽屋で出演者達の世話をしたり、鳴物(太鼓などの楽器)を習ったり、寄席の開口一番で噺をしたりするのだ。


「本当ですか?ではその時には芸名も…」


「もちろんだ、前座にもなって本名では居れんだろう」


この時2人のピリついていた空気が少し緩んだ。

2人の関係を知らない者からするとまるで祖父と孫の様な関係に見えるであろう。


芸名を師匠から与えられる、これも普通は弟子入りしてすぐに貰うのだが伊織の場合は特別だ。

なにせ5歳から圓鬼の弟子をしていて、圓鬼の判断で5歳の子どもに芸名を与えるのは時期尚早であろうとの考えだ。


一瞬緩んだ空気を圓鬼が締め直し、それともう一つと切り出し


「冬休みの間私の弟子の中で最も若い二ツ目に、前座になってからのいろはを教わると良い、話はつけてある」


伊織は分かりましたと言い部屋を出ていった。


伊織は部屋を出ると喜びか笑みが溢れ出してしまう。何せネタが上がったのは半年ぶりの事であるからなのだ。

よほど嬉しい様で礼をして部屋出て襖を閉めるとすぐに大きくガッツポーズをとった。


ネタが上がった喜びから周りを確認せずに喜んでいると…


「ずいぶん元気だなぁ…師匠からは大人しい奴だって聞いてたのになぁ」


伊織は驚き声のした方を見るとそこには、燃え上がる様な真っ赤な長髪を後ろで結んだそれはそれは綺麗な女性が立っていた。


その女性はまだ成長し切っていない伊織よりも背が高くしかし何処か子どもらしさを感じられる。


真っ赤な髪の女性は「まいっか」と言い伊織に話しかける。


「師匠から話しは聞いてるよ、私が君に前座としてのいろはを教えてあげる」


「ありがとうございます」


伊織は目の前の女性を見て、喜びから我に返りいつもの様に静かに答える。

女性はそれを見て少し残念そうな顔をして話し続ける。


「テンション下がりすぎでしょ!年上のお姉さんが手取り足取り教えてあげるって言うのに」


「当然の態度だと思いますよ。年上の女性と言う前に姉弟子ですから敬意を払っているのですよ」


伊織は依然と変わらぬ態度で赤髪の女性へと接する。

彼女は納得していない様子で天を仰ぎ可愛げがないな、と呟き伊織に向き直り話す。


「私は鬼姫(きき)だよ。よろしくね」


そう名乗った女性に君はと聞かれて伊織もそれに答える。


「俺は椎名伊織です。よろしくお願いします。鬼姫さん」


伊織がそう答えると鬼姫が人差し指を立て左右に振りながら違うよと言っている。

これに対して伊織は何が違うのか皆目見当もつかないと言った様で鬼姫に聞き返す。


「伊織落語界ではね、姉弟子の事を姉さん(ねえさん)て言うだよ。そら呼んでみて!」


鬼姫は胸を張り自信満々に答える。

それを見て伊織は目の前やりどころを失った。


「鬼姫姉さん」


すると鬼姫は大喜び、初めて出来た弟弟子をまるで本物の弟かの様にその後も話し続けた。

鬼姫が満足する頃には伊織はヘトヘトで2時間も経っていた。


すると鬼姫が何を思い至ったのか圓鬼の部屋へと入って行った。



ーーー



鬼姫は部屋から出て来るとニコニコとした笑顔で伊織へと告げる。


「明日私、寄席に出るから見においでよ」


そう言うわれ伊織は大いに驚いた、何せ落語家は他の落語家の高座を客席では見てはいけないのですから。

伊織が彼女にどう言うことかと聞くと。


「私の付き人としてついて来て舞台袖で見るの」


そうだ舞台袖ならば高座を見ることができる。

しかし付き人としてそんな事して良いのかとまた伊織が聞くと彼女は、良いの良いの師匠にも許可を取ったからと言った。


伊織は感謝を伝え帰ろうとした。


しかしまたも鬼姫の話し相手として満足の行くまで付き合わされた。

鬼姫が満足した頃にはすでに日が沈み切っていた。

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