二章6 [竹の水仙 1]
今古亭志ん柳師匠の繋ぎの上手さに驚いているが、今から噺が始まるのだ。
ここから先俺は落語を学ぶというより楽しんでしまっていた。
「しかし元々呑気な人ですからまっすぐ江戸には入らず、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして今一歩で江戸に入る神奈川の宿にかかる頃には、もう懐の中は一文なし。着ている着物も汚れ放題、擦り切れたわらじを履いて神奈川へ、昔の宿場でございますので暮れ方になりますと宿の客引き女中が赤い前垂れをかけて、顔に真っ白におしろいを塗って盛んにこのお客さんを呼び込んでおります。ここへ甚五郎が入って参ります。」
「もし、そこのお客様お入りではありませんか」
「俺のことか?」
「いいえ後ろの御出家様のことです」
「誰も俺のこたぁ呼びやしねぇな。懐の中は透けてんじゃねぇだろうな。早く誰か呼んでくれないかねぇ」
「もし!そこのお客様お泊まりではございませんか?」
「俺のことか?」
「左様でございます」
ここでパンっと手を叩き、
「しめた」
「ん、なんでございます?」
「いや、なんでもないよ。よく呼んでくれた、お前の家に厄介になろう」
「こらぁどうもありがとう存じますどうぞこちらへ…おい!お客様だよ」
「ようこそおいでをいただきまして。手前がとう宿の主人の大黒屋金兵衛と申します」
「大黒屋金兵衛、贅沢な名だねぇ」
「もしかしてどこかの湯屋の主人ですかい?」
「そりゃ婆さんだろ、ってなんの話してんだい」
「その代わりと言ってはなんですが…」
「この主人無視したよ」
「手前どもでは一切奉公人を置きませんので手前と家内が親切にやっておりますが」
「私はねぇ、そういう家が大好きだ。当分厄介になるよ」
「ありがとう存じます。ごゆっくりお過ごしなさいまし」
すると指をさし、
「酒が好きだ、飲ましておくれ」
「どうぞお召し上がりください」
「一日三升だ」
顔をギョッとさせた。
「三升!」
「朝一升、昼一升、夜一升、私は一日三升の酒を飲まなければ二日酔いになる」
そんな訳はなくお客さんも笑っている。
そしてまた顔をギョッとさせた。
「どうぞたんと召し上がってください」
「ここは神奈川だ上手い魚があるだろう。お前たちに任せるから上手い魚を食べさせておくれ」
床に手をつき、
「承知を致しました」
「それからねぇ、茶代だのいちいち出すのはめんどうだ、まとめてで良いだろう」
「どうぞ、どうぞお気遣いなく、手前どもでは一家何十日お泊まりになりましてもお発ちになります時にまとめて頂戴していただいております」
「そうかい、それを聞いて安心した。それからねぇ怒っちゃいけないよ、良いかい?お前さんたちを決して疑っている訳ではないが実はねぇ」
そう言ってポンっと腹を叩いた。
「懐の物だ」
「大層膨らんでますなぁ」
「重くてしょうがない」
「左様でございましょうな」
「預けるのが筋であろうが、私は自分の物は自分で持って、身につけてないと心が落ち着かない。これは一つ勘弁しておくれ」
「もちろんでございます。お客様の自由でございますので、ただ十分お気をつけになって」
「それからねぇ、いろんな事を言ってすまないが、静かなとこの好きな人間だ。部屋も静かな部屋に入れておくれ」
膝を小さく叩く。
「ちょうど良い部屋がござます。二階の一番端に上段の間というのがございますので、そこにお入りください」
「冗談の間?ふざけながら入るのかい?」
首を傾げながら
「ぅん?」
「冗談の間」
「これは恐れ入りましたな!どうぞごゆっくり」
「さぁこれから甚五郎先生、毎日毎日朝一升、昼一升、夜一升三升の酒を飲んで部屋でゴロゴロ、ゴロゴロしておりました。日数が経つにつれまして台所を預かるお上さんがこりゃ黙っちゃいません」
「ちょっと、ちょっとなんだい?あの二階の客は?毎日毎日酒飲んで部屋でゴロゴロして!」
「良いじゃねぇか。客が宿屋の二階で酒飲んでゴロゴロしてるのに不思議なことなんてないよ。これが醤油飲んでゴロゴロしてるんだったら気味が悪いよ。だがそうじゃないんだ何にもないじゃないか」
「ってんだよ、本当にもう。食べる魚だって贅沢な事ばっかり言って、鯛やヒラメやタコやイカって竜宮城みたいなこと言ってんじゃないか。お前さんの前だけどね、あの人はそんな贅沢な事を言える身分じゃないと思うよ」
すると胸の方を叩き、
「着ている着物をご覧、あらマサムネだよ」
「なんだい?着物がマサムネって」
「あれは触ったら切れるよ。あーいう着物をマサムネってんだよ。ご覧なさい、泊まってから一文の宿賃入れないから台所の物はみんな切れちまったよ。米は切れるし、麦は切れるし、砂糖は切れるし、塩は切れるし、味噌は切れるし、醤油は切れるし、薪は切れるし、炭は切れるし、切れないのは包丁と2人の腐れ縁だよ」
「よく喋るねぇお前は、どう…」
「どうもこうもないよ、半分だけでも良いから宿賃貰っておいでよ」
「そりゃ出来ねぇんだよ」
「どうしてさぁ!」
「あの人が泊まる時にな、一家何十日お泊まりになりましてもお発ちになる時に…」
「言ったかもしれないけど探りを入れてみるんだよ」
「なんだいその探りを入れるってのは」
「毎日ゴロゴロしていたのでは、お退屈でございましょういかがでございます?金沢八景をでも御見物になっては如何ですか?なんでしたらこちらでご案内致しまが…行かないって言ったら…」
グーっと貯めて
「ダメなんだからね。実は近頃この神奈川一帯で決まった事ですが、どんーなお馴染みのお客様でも五日にいっぺんはお勘定頂くようになりましたから。って言って貰っておいでよ」
目を細めて嫌そうな顔をして、
「うるせぇな、行ってくるよ」
「あーもう本当によぉ、うるせぇかかぁだよ。人の顔見りゃぎゃぎゃ言いやがってよ」
「ごめんくださいまし、ぇごめんくださいまし」
「ご亭主か?こっちへお入りよ、汚い部屋だが」
「私の家だよここは。毎日そうやってゴロゴロなすっているのは退屈でございましょう」
「退屈しない。この窓から下を見てると面白いな。女は通るし、男は通るし、犬と猫は追っかけこするし、退屈しない」
「如何でございましょう、金沢八景でも御見物なすっては」
目を閉じて首を横に振る。
「絵で見てるからいい」
「絵で?!」
「絵の方が腹が減らない、くたびれないな」
……
「危ねぇなどうも。実はですな、近頃決まった事ですがここら一帯どんーなお馴染みのお客様でも五日にいっぺんはお勘定を…」
「くれるのか?」
「そうではございません。頂戴をすることになったんでございますが」
「勘定か、そろそろそれを言ってくる頃だろうと思った。だいぶさっきから下の方でキイキイ黄色い声が聞こえてた。いくらになった?」
「ありがとうございます」
懐のを漁り、
「ここに書き付けを持って参りました。只今までのお勘定が二両三分三朱でございますが」
「二両三分三朱?間違えないか?」
「えぇ、間違いではございません」
「安い!安すぎる!」
「ありがとう存じます」
「しかしな、二両三分三朱というのは半端だ。どうだそこへ私が一朱足して三両にしてお前に渡そう」
「こらどうもありがとう存じます」
「それでいいだろう」
「えぇ結構でございます」
「ご苦労様」
何が起きたのか分からない顔。
「いやあのお勘定が二両三分三朱でございますので」
「だからさ、そこへ私が一朱足して三両にしてお前に渡そう」
「ありがとう存じます」
「それでいいだろ」
「えぇ結構でございます」
「ご苦労様」
……
「お金が出ませんな」
「金か?金はっない!」
「ないぃ!一文なしかい?おい!空っけつかい?!」
「なんだいその空っけつってのは?無いんだよ」
「無いんだよってやけに落ち着いてるね。おい、あのねお前さん商売はなんだい商売は」
「商売か、番匠だ」
「なんだいその番匠ってのは」
「江戸で言う大工だな」
「大工、あぁそう。大工だったらなんだよ、宿賃の代わりにどっか傷んでるとことか直して貰おうじゃねぇか!そうだ試しにね、この辺に棚でも吊って貰おうじゃねぇか」
「やめた方がいい、俺の吊った棚は物を乗せると落ちるぞ」
「嫌な大工だな」
「ガタガタ言わなくても良い。裏の大分立派な竹藪があるな」
「あれはウチの竹藪だよ。自慢の竹藪なんだよ」
「済まないがな、よーく切れるノコギリを一丁持って来な」
「どうすんだい!」
「ノコギリを持って一緒に竹藪の中においで、竹藪の中で宿賃を払う算段をする」
ヒョイっと体をのけ反らせて、
「ノコギリ持ってぇ?竹藪ん中へぇ?俺をバラバラにするつもりだな」
「バカな事を言うな宿賃を払わない、そんなお前に怪我をさせるそんなに事はしない。良いから持って来な」
「分かったよう」
「おっ母お前は目が高い。あれ一文なし」
「だぁから言っただろう。どうも目付きの悪い嫌な奴だと思ってたよ。お前さんはろくな客を引っ張ってこないねぇ、もうどうすんのさ!」
「どうするつったってな、よく切れるノコギリ持って来いってんだ」
「ノコギリをどうすんの!」
「ノコギリ持って裏の竹藪に一緒に来い、竹藪ん中で宿賃を払う算段をする」
「ノコギリ持って?お前さんが一緒に竹藪へ?どうも二、三日前から影が薄いと思ってたよ。お前さんバラバラに」
「変なこと言うじゃねぇ」
ここで一旦区切りをつけます。
前回の落語よりも膨大な量がありあまりにも長くなってしまうのでご了承ください。




