序章1[継がせぬ名前]
落語家だけでなく、日本の誰もが知っている噺家のニュースである。
「昨夜午後9時ごろ新宿高野亭にて落語家の十代目山麓亭圓宗さんに亡くなりました。死因は不明との事です。67歳でした」
まだ駆け出しと言った様子の20代前半の女性アナウンサーがツラツラと読み上げている。
「圓宗さんと言えばね、日本の落語界発展に大きく尽力した方ですからね誠に残念ですね」
50代程のベテラン芸人だ。
全然気持ちがこもっていない様に感じられるコメント、なぜならその場で1番圓宗の死を悲しんでいるはずの圓宗の弟弟子、山麓亭圓鬼がいるからそう簡単にコメントもできないのだ。
山麓亭圓鬼見た目は何処にでもいる様な優しい顔をした老人。
老人らしく痩せていて骨が見えてしまいそうな体をしている。
しかしその優しそうな老人は落語界の中でも最も大きな一門のトップでもありこの場で知った様な口を叩き圓鬼を怒らせてしまうと放送事故になりかねない。
周りの皆がそう思っている時アナウンサーがその放送事故になりかねない男に話を振る。
「今回急遽ゲストとして来てくださった山麓亭圓鬼さんにもコメントを頂きましょう」
昨夜に兄弟子を失った男へとかける最初の言葉がそれとは何を考えているのだ。
この原稿を上はよくよしとしたなと周りの誰もが思った。
しかし温厚な様で文句一つも言わずに失礼である振りに対して言葉を返して行く。
「そうですねぇ、私はあの時舞台袖で圓宗兄さんの落語を見ていまして、あの日の兄さんは今までで1番いやこの世で1番の芸をしていました。あの落語を超えることは出来ない、そう思う程のものでした。それだけに誠に残念で御座います。あの噺をも一度聞けないことが。しかし良かったのかも知れません」
昨夜の光景を思い出す様にゆっくりと聞いて聞かせる様に。
落語家の喋りとは思えないほどに悲しみを含み不器用に話し続けていた。
どうもベテラン芸人は圓鬼の最後の言葉が気になった様でなぜかと聞いてしまった。
「こう言うのも何ですが、兄さんは芸の完成を目指していました。ですが芸は完成する事がありませんので、噺の終わりに自身も死に芸を完成させたのです。兄さんの夢が叶ったと言っても良いのではないでしょうか」
出演者、視聴者共にこの老人は何を言っているのか分からない状態になってしまった。
そして番組にも沈黙が流れるはずだった。
「私はこの場を借りて申し上げます。今後山麓亭圓鬼が認める者が現れるまで山麓亭圓宗を襲名させる事は御座いません」
先程の発言と言いどれも看過できないものだがこの発言は前代未聞である。
圓宗が居なくなって圓鬼が実質的に一門の代表者なのだ。
その一門の代表者が襲名させないとそう言い切ったのだ。圓鬼が認めると言うのは死んで完成させた圓宗の芸に並び立つか超えねばならないと言う事である。
すなわち圓宗を継ぎたければ死ねと言っているのと同義であるのだ。
そこで我に返ったベテラン芸人がどう言うことかと聞くと圓鬼は…
「どうもこうも御座いません。圓宗にはそれだけの価値がついてしまったのです。分からない様なのでハッキリ言いましょう、山麓亭 圓宗は誰にも継げないのです」
先程までの悲しむ様子は消え失せ、力強くハッキリと圓宗を継がせないと言った。
圓宗の昨日の高座の様子以外の話はどう考えても放送事故である。
ーーー
あの放送事故から3日後、放送事故はSNSで大いに継げぬ芸名として話題になり、今日この日山麓亭圓宗の葬儀が行われようとしている。
参列者には落語家だけではなくテレビの大御所タレントを始め沢山の有名人達が参列しているその中には東京都の都知事までもがいる。しかしその中にはもちろん親族がいる。
親族と言っても妻には先立たれ、息子夫婦とその子どもだけ。息子も落語家であるが父親の弟子にはならず、他の一門の師匠に弟子入りしている。
その理由は父親本人から素行不良で破門にされてしまい、それに見かねた辰川壇慈が弟子として辰川一門に招き入れたのだ。
まだ歳も30で真打まで後一歩と言って感じで素行不良を除けば背はスラっと高く顔もまあそこそこと言った具合の腕の良い噺家なのだ。
その奥さんはと言うとこちらはモデルの様な体型で顔も悪くないそして人が良い、加えて夫の稼ぎだけではどうしても子どもを養うのには足りないので看護師の仕事までもしているよく出来た人なのです。
子どもはまだ5歳ほどでお爺ちゃんっ子で祖父の落語が大好きであの祖父が死んだ高座でも最前列で食い入る様に噺を聞いていたほど落語と祖父が大好きな小さくて可愛げのある男の子。
そんな男の子がSNSで話題の渦中の人物に頼みごとしている。
「僕に落語を教えてください!」
5歳の子供が65歳の老人へと言ったのだ。辺りの人達はその光景に釘付けである。
圓鬼は皆の目が自分達に向いていることに気づいているが、5歳の子どもは気づいていない。
「坊主、今私に落語を教えろと、そう言ったのか?」
周りの者へと聴かせるためそして、自分自身にもう一度聴かせるために聞き返す。
その問いかけに対して、大きく頷き答える
「僕をあなたの弟子にしてください!」
それを聞き言われた本人は大きく笑い、辺りの者は雷に撃たれた様な風に驚いている。
なぜ辺りの者がそれ程までに驚いているのか、この圓鬼弟子を滅多に取らないで有名であり、取った弟子は全員優秀である。
しかし才能を見込んだ者しか弟子にしない。
そして自らスカウトした者しかいないのだ。
「そうか坊主…本当に私の弟子になりたいのか?」
表情からも声色からも感情が読み取れない。およそ5歳の子どもへ向ける態度ではない。
しかし男の子はお構いなしにまたも大きく頷く。
「なぜ私である必要がある?坊主の父親の慈昭では駄目なのか?」
最もな疑問を投げかけると、辺りの者達もそうだなと頷く者も多くいる。
その中には辰川壇慈や母親までもが含まれている。
「お父さんでは駄目なんです!」
キッパリと大衆の面前言い切ってしまった。
これでは、父親の面目も立たないが何故か慈昭はやはりなと言う顔をして我が子を見守っている。
「そうか…何故駄目なのだ」
どこまでも見通している様子である。しかし本人の口から聞きたい様だ。
「おじいちゃんの名前を継ぐになあなたから認めて貰わないといけないかです」
祖父思いの良い孫として周りの者は見ているが。
5歳の子どもの言うことではないだろう、少し大人びすぎている。
「その言葉の意味分かっていっているのか?」
辺りの者までもが感じるほどの威圧感。普通の子どもなら間違いなく泣きだすだろう。
しかし覚悟は強く、意志も固く、大人も気圧されてしまうものに臆することなく宣言する。
「椎名伊織をあなたの弟子にしてください」
決意表明そう感じる者も多いだろう、まさにその通りである。
「まぁ良かろう子どもにしては中々の心を持っている」
辺りの者達は唖然としている。
何せ今までスカウトでしか弟子を取らなかった男がまだ5歳の子どもを弟子にしたのだ。
ーーー
伊織が圓鬼に弟子入り志願した少し後。山麓亭圓宗の葬儀も終わった頃である。
「師匠だから言ったでしょう。公の場であんな事を発表するとあの子はああするって」
「全てあの人の想定通りだ」
十代目山麓亭圓宗の最後の高座を見ていた者の中には、殺されたのではないかと噂をする者が多数いた。
死神に命を取られたのではないかと言う者や、圓鬼に殺されたのでははないのかと言う者もいたりする。
圓鬼に殺されたのではと疑う者の言い分は、わざわざ高座を見に行くのかと言ったもので、始めから死ぬ事が分かっていた様だと言うのだ。
どれも噂に過ぎず圓鬼本人は気にもしていない。
噂は大きくなったものも、死人に口なし真相を知る者は既に死んでしまっている。
噂は大きくなりはしたものの次第に小さくなった。
しかし一度大きくなった噂は完全には消えず、今は知らずともいずれ伊織も知る事になるだろう。