カフェ Have a nice trip
会社が終わるとまっすぐ誰もいないアパートへ帰宅してたのは、いつだったろうか?日付など覚えてもいないが、雨のあの日までだったのは覚えている。
その日、東京ではよくある夕立が帰路の彼に襲いかかった。傘は持ち合わせておらず、仕方なく雨宿りすることにした。バス停のフードの下にいたが、雨は激しさを増すばかりで、もはや身を守ることは出来なかった。そんなとき、一軒の喫茶店が彼の目にとまった。毎日通っているこの道に、はたしてあっただろかこんな店は?そうおもいつつも、なす術がなく、彼は店に入るのだった。 「カフェ Have a nice trip」
というのが、その店の名前だった。店内はランプ灯のあかりのみで、夕立特有の暗さもあいまって静まり返っていた。木製のテーブルにソファーが並ぶ。それが数組あるだけのシンプルなつくり。壁はアイボリーで所々にタバコのシミがついていた。決して小綺麗ではなかったが、雰囲気に清潔感はあって、どこか人を落ち着かせた。
「ご注文は?」六十過ぎぐらいの鼻メガネで優しいそうな老人が尋ねてきた。
「コーヒーを。」彼はそう答えた。
「ミルク、シロップは?」高い鼻で赤い頬をしたその店主は、西洋の老人が見せる顔全体からわきでる微笑みで尋ねてきた。「いいえ、結構」
そういうと、あらかじめそのことが分かったいたようにやさしく頷き、カウンターへと歩いて行った。
何分たったろうか?店主は熱々のコーヒーを持ってきた。本当はアイスがよかったが、なるほど店内は夏を忘れるほどの涼しさで、ホットもわるくないと何故か納得した。口にそれを運んだとき、一人の客の姿にふと気がついた。
肩までストレートな髪は黒くつややかで、綺麗にまとまっていた。目と眉は、そのほっそりした顔の輪郭にぴったりといった感じで、鼻は少々高い。細く結んだ口元に同じくコーヒーを運ぶ姿は、美しく、冷たかった。熱いコーヒーも、彼女の体内ではアイスコーヒーになるのではないか、と変なことを考えた。
「おかわり、お持ちしましょうか?」店主は彼女に尋ねた。
「いらない。」彼がかんじたままの冷たさで彼女は答えた。店主は笑顔のままカウンターへ戻っていった。
奇妙な空間、そして時間の流れだった。彼は書類を書き、彼女はパソコンに何かを打ち込む。店主はカウンターの中からくらい店内をのぞき、二人を見守るようにたたずんでいる。時計は針を休めたかのようで、でも外は確実に暗くなりつつあった。
次の日も、その次の日も、もう雨など降っていなくとも、彼はここへやってきた。彼女もそうだった。
その日も二人はコーヒーを飲み、それぞれのことをしていた。いつもの時の流れに身を任せていた。しかし、それは店主の叫び声により終わった。老人は床に倒れた。二人は急いで駆けつけ、といただした。店主は苦しがりながらも、息をととのえ、いつもの発作だから心配しなくてよいといった。
店主をソファーに寝かせると、二人は一つのテーブルで向かい合った。なかなか話を切り出せなかったが、しばらくの後同時に声をはっした。
「その指輪…」
彼女は昨年に離婚したという。恋こがれ、やっと手に入れた幸せ。でも一度手に入れてしまえば、その輝きは薄れていく。なぜこの人を好きになったのか、そもそも好きだったのかすら分からなくなっていった。無言のまま判を押して出てきたという。ただ、指輪ははずせないまま。
彼も同じだった。妻とは離婚寸前、息子の今後が定まればすぐにもという様だった。
二人がここであったのは偶然ではないのかもしれない。何かを目指し、必死で追い求める。たいていは失敗するし、仮にうまくいっても、手のひらの中に残るのは粉々の何か。自分でそうしたのか、あるいはもとからなのかは分からないが、そんなことを繰り返してゆくうちに二人は心を閉ざしていった。多分似たものどうしなのだ。
「お二人様、甘いものはいかがでしょうか?迷惑代として受け取っていただきたい。」店主は二人にチョコレートケーキを差し出した。
断らずに彼らはそれを食べた。甘く濃いその味は体の底に沈んでゆき、一方で背負っていた何かをおろさせてくれた。
帰り道、男は妻に電話した。「ミサ、会おう、いまから。もう君に全て任せる。タツロウもすきにしていい。いかなる結論も受け入れるから。」そういうと、切られるまえに切った。
「カフェ Have a nice trip」
それは荷物の多すぎる旅人を迎えいれ、要らないものを預かってくれる。そして旅人は身軽になって、送り出されるのだ。いつも、必要な人のもとにそれは現れ、役目を終えると消えているのだ。




