1話:「注意はしすぎるくらいが丁度いい」
「……っ……」
着崩した紺色の制服姿で現れた同級生は、吸い込まれるように大きい瞳でこちらを捉えると、普段は笑顔しか見られない端正な顔をはっきりとしかめた。
しかしそれは一瞬の出来事で、彼女はすぐにいつも通りの表情を取り戻す。スタスタとこちらに向かって歩みを進めてくる。象徴的なブルネットの長髪が夕景で輝く非日常的な雰囲気の教室を支配するかのように揺れ動き、手持ちの高そうな革鞄に付けられたキャラ物の人形がジャラジャラ鬱陶しい音を鳴らした。そしてただそこにあっただけの量産型の机に腰掛けると、右手で自らの髪の毛をつまむようにして触りながらこちらを眺めた。
――いや、どちらかと言えば見下すという表現の方が正しいかもしれない。
「何の用、私忙しいんだけれど」
こちらを人とすら認識していないような冷ややかな視線を向ける少女の名前は蒲須坂さくら。山前高校二年二組のクラス内カースト頂点に君臨する国定グループ所属のいわゆる陽の者で、それにしては珍しく誰にでも分け隔てなく接することでも有名だった。確かに美人なことは美人だ。ほぼシンメトリーな顔立ちは中世ヨーロッパの絵や彫刻のモデルになっていても不思議ではない。だが、ちょっと待ってくれ。何かおかしくないか?
ただの偶然でしかないが一年以上彼女と同じクラスで生活してきた俺は、その人となりをそれなりに知った気でいた。勿論、個別に話した記憶など一切ない。けれども目立つ奴の性格や噂に関しては必ずどこからか流れてくるものだ。そして漏れ出した情報に尾ひれの付くことはあれ、本質的な部分は大抵間違ってはいない。しかし俺のデータと現在のシチュエーションは明らかに合っていなかった。
自分から呼び出したはずなのに、彼女の放つ居丈高なオーラに気圧され、俺は思わず反射的に目を背ける。後ろめたいことは何もないのだから、堂々としていればいいのにそれができない。この年で決まっている埋まることのない人間関係構築能力の差に絶望していると、そんな様子にすっかり呆れ果てている彼女は再び助け船を出してくれた。
「何の用」
苛立ちは隠しきれていないように見えたが、その辺を気にしている状況ではない。
「国定をどうにかしてくれ」
二度はないチャンスをしっかり利用し、今度こそ自分の意見を冷静に伝える。
前を向けば自然に目が合った。整った眉毛にくっきりとした二重。何よりも目立つ巨大な黒目はこちらを値踏みしているように見えた。
――気持ち悪い。その剝き出しの感情が手に取るように分かってしまう不快感はあいつ以外誰と接しても変わることはなかった。目は口よりもモノを言うとの昔からの表現があるように、眼光には直視するだけで与えられる情報量が大変多い。例えば瞳孔の動き一つ取っても、感情やリスニング能力、ストレスといった些細な事まで正確に読み取ることができるのは有名な話だ。
一方、逃げたら不利になることもまた蓄積された経験から学んでいる。反らしたい気持ちを一喝して眉間に力を入れグッとこらえた俺は抗いがたい拒否感と競り合いながら彼女の回答を待った。
しかし蒲須坂はそんな葛藤を理解している訳ではない。一連の挙動不審な行動にまた嫌悪感を示しながら躊躇することなどなくこう言い放った。
「は? 意味分かんない」
切り捨てるような容赦ない返答。主述だけの抽象的な嘆願だけでは内容が伝わらないことは想定通りであるけれども、こんなに興味がないとは思わなかった。仮にも自分の所属するグループリーダーについてのことだろう、帰属意識とかないのか?
「お前も知っての通りだろうが、ここ一週間国定がやたら話しかけて来るようになった。一年の時散々無視したにも関わらずだ。そのせいで無駄に注目を浴びるわ、うるさいわ、で高校生活が台無しだ。俺から言ってもあいつは聞く耳を持たないだろうからどうにか説得して欲しい」
「……」
予想外の質問だったのか、蒲須坂はすっかりと黙り込んでしまった。わざわざ自分に言うなと思っているのかもしれない。ごもっともだがこちらにもそれ相応の理由がある。単純なことだ。国定グループに所属するイケイケオーラ漂うメンバーの中で、彼女だけが最も話しの通じる人だと思えた。ただの主観、直観。しかしそれこそが何事においても大切なのである。
吹奏楽部の下手くそなクラシックが静かな室内に鳴り響く中、蒲須坂は少し間を置いてスマートフォンを取り出した。恐らく彼女と連絡を交わしたSNSについてだろう。話を逸らさないで貰いたいところだが、それについて回答することは呼び出したこちら側の義務でもあるため聞かれたのならば致し方ない。お答えしよう。
「確認したいんだけど、このアカウントってあんた?」
案の定映し出されたのは、殆ど動いていない初期アイコンのTwitterアカウント。俺はここから彼女に、
「急にすみません。話があるので放課後、二年二組の教室に来てください」
とDMを送信した。向こうからしたら気持ち悪いこと極まりないかもしれないが、クラスメイトのいる空間で話しかけることができるコミュニケーション能力があるのならば、俺はこんな回りくどい手を利用することなく国定本人に話しかけている。ちなみに、今日にした理由は彼女が日直だったからだ。相方の男は部活中毒として有名だったからきっと仕事を押し付けるだろうということも想定していた。ついでに国定グループの連中が釣れると面倒なので彼らの部活開始まで見届けている。
「そう、全く使っていないけど」
「何で私をフォローしているの?」
「入学前に多少は学校の情報が欲しいと思って、#春から前高生で検索して出てきたアカウントを片っ端からフォローしただけだ。高校を機に携帯買って様々なSNSアカウントを作る奴は一定数存在するから、初期アイコンが一人くらい紛れていても皆気にすることはない」
蒲須坂はまた顔をはっきりと歪めた。こんなに気持ちが表情に現れやすい性格をして、どうやってあの集団で過ごしているのだろうか。美人特権か?
戯言を考えている俺に対して彼女は諭すような口調に切り替えた。
「鍵垢の中身とか知られているの? 気持ち悪いから辞めておいた方が良いよ」
まるで路上に寝っ転がっている酔っ払いへ向けられるような憐みの込められた視線。彼女からの好感度が下がりようのない軽蔑よりも更にランクダウンした気がした。
「使っていないと言っただろう。今日お前を呼びだすために久しぶりに起動しただけだ」
情けない真実を話して否定する俺自身が何だかむなしくなってくる。
「この学校の人間関係なんか興味ないから、そんなことよりも国定をどうにか……」
向こうサイドの疑問は解消させたので、今度はこちら側から軌道修正を図ったが、蒲須坂がぶれることはなかった。一度手放した会話の主導権を決して譲ることのない様はさすがコミュニケーション力の怪物だ。きっと今後の人生もイージーモードなのだろう。
「こっちからしたら大問題なんだよね。今すぐアカウント消してくれる?」
とりあえず相手の要求を満たしてからでないと、自分の意見をまともに取り合ってすら貰えないみたいだ。俺は動きにくい制服のズボンにしまっていたスマホを何とか取り出して、アカウント削除までの一連の流れを行い、突き出すように彼女へ手渡した。
「確認しろ。これでいいか」
個人情報の塊をこれっぽっちも警戒することなく無造作に譲渡した俺に対して、蒲須坂は目を見張って驚いていたが、状況を理解した途端、手渡されたスマホを操作し出した。
「何でそこまでして一人になろうとしているの?」
ものの数十秒で一通り確認を終えたのか、蒲須坂はスマホを俺の方に戻すと、今度は鞄から手鏡を取り出して再び髪の毛をいじりだして雑談を始める。
「俗事が嫌いなんだよ。高校三年間ゆっくりと読書でもして適当な大学に進学したい」
「そう。まあ、今日のことは秘密にしておいてあげるから、お互い忘れようよ」
「了解」
あっさりとしたやり取り。これ以上の会話は不要ということなのだろう。スマホを閉じてその場から立ち去ろうとした瞬間、油断した俺のブレザーから黒いメモ帳がパサッと床に落ちた。白字で㊙と書かれた如何にも怪しそうなそれを拾い上げたのは俺ではなくて蒲須坂だった。
「これ……」
「返してくれ」
「嫌」
一瞬手渡そうとした蒲須坂だったが、こちらの反応を見て直ぐにそれが重要なものであることに気がついたようだ。そして慣れた手つきでメモ帳を自身の制服の内側に付けられたスカートへしまうと、鞄を手に持ってさっさと教室を飛び出して行ってしまった。
「はぁ」
追いかける気力など当然ない。俺は孤独な教室でため息をつく。あのメモ帳にはこの学校の生徒は誰も知らない重要事項に繋がる記載があるのだ。それを知ったところで、犠牲者は俺しか生まれないのだが、よりにもよってあの一軍女子に知られるとはやらかした。
脳裏にハインリッヒの法則がちらつく。ただの不注意で起こした一つの重大な事故の背後には二九にも及ぶ軽微な事故があり、更にその背景には三百もの異常がある状況というのはこういうことをいうのだろう。
読んで下さり誠にありがとうございます。
いつ書いたかも定かではないラブコメの1話とプロットが発掘されたのでこうしてみました。
次回がいつになるとかそんなこと一切決めていませんが、これを機に何とか書き上げられればいいなとか思っております。
もし続きが出たならばその時またよろしくお願いいたします。