第4節【異変】
エアリゼは、半ば焦っていた。
その理由は、自身の胸に浮かび上がる刻印による物ではない。
死神のように舞い降りた運命は、無邪気な赤子の声のように鎌首を衝き立てる。死が訪れる時は、そう遠くはなかった。けれどすでに覚悟は出来ていたし、残された命を大切な者達のために使いたかった。
だからこそ、エアリゼは焦っていたのかも知れない。
不吉な予感が、胸内に去来していた。些末な事であったが、心のどこかで引っ掛かっている。
昔から自分には、不思議な能力が備わっていた。竜の声が聴こえるのだ。
対面した時は勿論なのだが、時として何もない場所から聴こえる時がある。後者の方は、自分の名を呼ぶのだ。何か言葉を放つのではなく只、名を呼び掛けられるだけである。そう言った時は必ずと言って、何かが訪れる。
その声の頻度はこれまでは、数年に一度だった。ところが今年に入って、二度目の事である。
一度目の呼び掛けの時は、自身の胸に《破滅の刻印》が浮かび上がった。それを知った兄は、血相を変えて問い詰めてきた。大慌てで皇帝に謁見して、進言を呈していた。
兄の対応も、皇帝の行動も、極めて迅速であったし適切であった。兄は責務を熟す傍らで、帝国中を駆け廻り凡ゆる文献を読み漁っては希望を希求した。
皇帝は直ちに三国会議を開いて、各国の王と取り決めを交わした。
その結果、兄と皇帝の間に差異が訪れた。表面上では兄は納得していたが、心の奥底に慥かな炎の揺らめきを感じた。
その感情は、憎しみだ。
そう確信した時、エアリゼは慥かに竜の声を聴いた。おのれの名を呼ぶ声に、不安をかき立てられたのを憶えている。
「良くぞ、参られた」
白髪が混じる初老のグラナス王が、僭越の笑みを投げ掛ける。
ダイナー帝国より北東に位置する場所。距離にして凡そ三百マイルの場所にある国。そこに千年桜と《礎の巫女》に関する書物がある。
聖地アリアドスには、千年に一度だけしか咲かないと言われる桜が存在する。
桜の開花の時期が迫る時、世界各国の中から数名にある刻印が浮かび上がると言う。刻印が浮かび上がった者から一名が選定されて、千年桜に生贄として捧げられる。そうしなければ、世界が滅亡すると言われていた。
五千年ほど前に一度、生贄が捧げられなかった事がある。その時に多くの命が、竜族や死霊の軍勢に奪われたと記されている。
今期の生贄に、エアリゼが選ばれた。
すでに覚悟は出来ている。だからこそ、残された時間で多くの希望を残したかった。兄や皇帝のために、残りわずかな命を捧げるつもりでいる。
今回の任務を通して、千年桜と《礎の巫女》の情報を持ち帰りたかった。この先も幾千幾万もの年月を、誰かが犠牲を払わなければならない。エアリゼはその命を、少しでも多く救いたかった。そのために、自分は動いている。
――異国の巫女よ。我が願いを聞き入れよ。
エアリゼの頭の中を、厳粛な老婆のような声が響いている。
アクアグランデに入国して、すでに五度目の声であった。恐らく声の主は、この地を護る水竜皇である。
水竜皇の加護を受けたアクアグランデは、小国でありながら、この戦乱の世を耐え忍んでいた。エアリゼは過去に数度、この国を訪れた事がある。その時には水竜皇の声は、聴こえなかった。何か異変がこの国で起きている。そう悟ったからこそ、厭な想像が脳裏を過ぎっているのかも知れない。
皇帝の命において、グラナス王との謁見を求めている最中であった。エアリゼ自身が所属する飛竜隊も、別室で待機している。少数部隊ではあるが、ダイナー帝国が要する魔導騎士にも引けを取らない。中でも隊長である竜騎将カイラートは、一騎当千に値する力を有している。
アクアグランデのような小国であらば、充分に脅威となり得る戦力であった。
エアリゼの隣りでカイラートもまた、佇立している。武力行使に対する抑制力としては、申し分がない。
故にグラナス王との謁見は、容易に果たせた。
もっともそれは、予定していた物とは大きく逸脱した形でだ。
グラナス王を囲む兵の数が、余りにも多い。兵の顔には生気が感じられず、まるで死人の群れを連想させる。一団は皆、武装している。グラナス王は笑みを浮かべているが、空洞のような双眸には、絶望的な闇を感じる。
悪い予感は的中しているのだろう。
王が危ない――その考えが頭を過ぎった時、六度目の声が聴こえた。
――祠を訪れよ。
竜の声に耳を背けながら、エアリゼはグラナス王を見据えた。空洞のような瞳には、底知れない闇が潜んでいるように思えた。その傍らで赤髪の青年が只々、こちらを座視している。精悍で整った顔立ちをしていた。
アクアグランデに入国して、生気が窺える人間を見るのは初めてである。
この国は今、何かに蝕まれたかのように皆、一様に生気が感じられないでいた。
青年の佇まいからは、微塵の隙も窺えない。カイラートやゾメストイにも、引けを取らない実力者だと言うことだけは理解る。
以前に一度、見えた事がある。アクアグランデの第一王子グラン。それが青年の名だ。好戦的な性格で、獰猛な戦をすることで識られている。
近日中に戴冠されるという情報が、皇帝から直々に伝えられている。
正当な王位継承者だ。
「それでそなたは、どう言った用向きで参られたのじゃ?」
さも興味がないと言った様子で、グラナス王が問う。
グランは微動だにせずに、視線だけをこちらに寄越している。周囲の兵は死人のように只、虚の眼を向けるだけだ。はっきりと言って、異常な光景である。
「王立図書館の観覧を、許可して頂きたく推参しました。勿論、無償でとは申しません。ドラグナー鉱石、二十キログラムを献上させて頂きます」
破格の取引だった。
ドラグナー鉱石は非常に貴重な鉱石で、王族や勇猛な将しか身に纏えない。そのドラグナー鉱石で重装備を一式、揃えてもお釣りがくる量だ。
軽装備ならば、五式は作れる。
純粋に戦力の底上げに繋がるだけの量であった。
「残念じゃが、期待には添えれぬな」
蓄えられた顎髭に手を当てながら、グランに目配せを送る。
言下の内に、グランの表情が嬉々(きき)と輝いた。腰に提げた双剣が引き抜かれたのを見て、エアリゼの心搏が跳ね上がる。
どうやら悪い予感は、エアリゼを裏切らなかったようだ。
「戦だッ……。全軍、突撃しろッ!!」
グランの上げた鯨波の声と、カイラートの竜笛の音が重なった。
一瞬の内に、間合いを詰められていた。気が付けば、グランの左剣が振り降ろされようとしている。油断をしたつもりはなかった。純粋にグランとの力量に、天地の開きがあるのだろう。全く反応できない。回避が不可能なことだけは、理解った。
エアリゼが覚悟を決めるよりも、カイラートは素早く反応している。
槍の切先で間髪、入れずに受け止めていた。
「いつまで、惚けている。直ちに、本隊と合流しろッ!!」
左剣を払い、間合いを広げるために槍を大きく薙ぎながら、カイラートは号令を掛ける。
今は余計なことを、考えている暇はない。
――エアリゼよ。祠へ訪れよ。
又、竜の呼び掛けが、聴こえる。
不安とは裏腹に、苛立ちながらエアリゼは駆け出した。
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