第2節【記憶】
――美しい歌声が、エルナスの心を射止めている。
聖地アリアドスに初めて巡礼をした時のことを、阿鼻叫喚の地獄を這いながら思い出していた。
美しい歌声に誘われるようにして、桜の花弁が舞い踊っている。桜はまだ満開ではなかったが、その美しさはこの世の物とは思えないほどである。千年に一度しか花を咲かせないことから、千年桜と呼ばれていた。聖地アリアドスの特殊な気候が育んだ千年桜は、花を咲かせてから満開になるまでに、五年から十年の時を要する。千年桜が満開になる年には各国から数名、ある刻印が浮かびあがる。
千年桜に選定された者は《礎の巫女》と呼ばれ、その中から一人が生贄としてその命を差し出さなければならない。
そうしなければ、世界は滅びてしまうのだ。
今はまだ五分咲きほどだ。
《礎の巫女》が生まれるまでには、数年は掛かるだろう。それまでにエルナスは、覚悟を決めなければならない。生贄の選定を巡って、必ず争いが起きることになる。そんな覚悟を携えて、聖地に訪れたエルナスを迎えたのは、予想とは遥かに懸け離れた物であった。
凛とした歌声を上げながら、桜の花弁と戯れるように舞う異邦人の女がいた。
彼女はとても、美しい容姿をしている。吸い込まれるようにして、エルナスは彼女に魅入られていた。
桜色に彩る群青の空のような瞳がエルナスを捉えて、彼女は舞いながら微笑を投げ掛ける。
その刹那に甘やかな衝動が、エルナスの胸を静かだが激しく締めつけていく。初めて抱くその感情が、皇帝としてのエルナスを確かに変えた。
幼いころに父が戦死して、エルナスはわずか十歳で戴冠式を迎えた。それ以来、民を護ることを義務づけられてきた。
民心を裏切ることなく剣を磨き、魔導の業を習得し、政治に奔走している。誰もがエルナスを皇帝として認めて、忠信を蒐めていたはずだ。
だからこそ、エルナスはその想いに応えようと、日々の精進を怠らない。
その身を犠牲にしてでも、民を護ろうと考えている。自身のことは二の次だ。
その覚悟が消えた訳ではないが、エルナスは目の前の女に恋慕の想いを抱こうとしている。
否、正確にはすでに、魅了されていると言っても過言ではない。
「私の名は、フィオナ。貴方は?」
舞うのを止めて、彼女はエルナスに視線を注いでいる。
腕章には見憶えのない紋章が垣間見える。
鮮やかな色に染め上げられた風の中、エルナスが己の名を名乗ると彼女は瞳を潤ませながら笑った。
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