第1節【崩落】
――何も考えずに貴女だけを愛していられれば、どれだけ楽だっただろうか。
火の手が、あがっていた。
建国から五千年もの時を栄えてきたダイナー帝国が、終わりを迎えようとしている。
逃げ惑う人々を、賊軍が虐殺している。無数の兇刃と、煉獄のような業火が、阿鼻叫喚の光景を彩っていく。
本来であったならば、帝国軍が敵を迎え討つべき事態であった。しかし、軍隊のほとんどが機能しなかった。
皇帝エルナスをふくめた直属のわずかな兵しか、戦場に赴いていない。賊軍を指揮している者の正体が、唯一無二の友であることを伝達兵から聞かされて、エルナスはことのすべてを悟った。
漆黒の神将ゾメストイ。帝国の最高戦力に数え上げられるほどの男がなぜ、謀反を企てたのかは解らない。ゾメストイとは幼いころから、共に剣を磨き互いに高め合った仲である。
いかなる戦場でも、背を預けられる腹心である。
それなのに、なぜだ。
賊軍を迎え討つ帝国軍を、背後から魔導騎士団が攻め立てる。
味方からの挟撃を受けて、意図もたやすく殲滅されていく。
「皇帝は、どこだ?」
「見つけ出して、殺すんだッ!」
押し寄せる大軍が、城下を燃やしていく。
秘めやかに押し寄せる恐怖が、焦燥感を呑み込んでいる。帝国軍が誇る魔導騎士団が、何の罪もない人々を斬り裂いていく。
無人の戦車が、火の手をあげている。次から次へと、兵が敵に寝返っていく。戦乱の世に生まれ墜ちて、死ぬ覚悟はできたつもりでいた。けれどそれは、敵国との戦のなかでのことだ。
決して、家臣によるクーデターではない。
このままでは、死んでも死に切れなかった。胸奥の底から沸き起こる感情が、エルナスを無様に生へと駆り立てる。
皇帝としての地位は、すでに失われていた。それでも民を救う責務が、エルナスにはある。だがそれでも、頭のなかを駆け廻る想いは、別のところへ向けられていた。生きのびようとしている動機は、たった一つの物であった。
――貴女に逢いたい。
只々、逢って抱き締めたかった。たったそれだけのことでしかなかった。
皇帝としては、最低の衝動である。民心を裏切る愚行を、倫理の奥底へと押し込めて、エルナスは無様に逃げ惑うことを選択している。
「皇帝がいたぞ!」
「エルナスを、殺すんだッ!」
兵士たちの叫び声が、響き渡る。
こんなところでは死ねない。自分にはまだ、果たすべき約束がある。
死の風が爆炎を運び込んでいた。錬術の詠唱を強制的にキャンセルして、魔防壁を錬成する。激しい衝撃が怒号を上げて、空気を震わせる。
周囲の温度が急激に上がったことに依って、皮膚がチリチリと焦されている。酸素濃度が急激に下がったことで軽い眩暈を憶えるが、朦朧とする猶予は与えられていない。今度は呪文の詠唱を怠らずに、舌を転がしながら皇剣を引き抜く。
帝国軍の魔導騎士団は、極めて優秀である。
全軍を単騎で相手取るには、あまりにも無謀な挑戦といえた。迫りくる兇刃を受け止める。皇剣を通して腕に伝わる衝撃が、相手の剛腕を教えてくれる。これほどの腕前を持つ優秀な人材であるにも関わらずに、エルナスは相手の名前を知らない。
皇帝でありながら、何れほどの愚行を重ねてきたのだろう。
真面に斬り合えば、分が悪い。
すでに後方で三人の魔導騎士が、呪文の詠唱を始めている。周囲に浮かぶ詠唱陣から見て、合術を放とうとしているのだろう。
一人でも討ち漏らせば、死は回避不可能となってしまう。すでに錬術の第一詠唱は終えている。
目前の剛腕の騎士だけならば討てたが、それでは後方の三人に討たれてしまう。術を放たずに第二詠唱を開始しながら、剣撃を放つ。上下に打ち分けながら、相手の体幹を揺さぶる。
わずかかに生まれた隙をついて、左手に持つ魔銃を放つ。
単発式の古いタイプだが、軽くて小回りが利く。雷の砲弾が、剛腕の騎士を優しく抱擁している。
短い悲鳴とともに、頽れるのを確認して、前へと歩を進める。
すでに後方の三人は、詠唱陣を完成させていた。こちらはまだ、二小節分の詠唱が残っている。
不完全な錬成ではあったが、撃たざるをえなかった。上手く決まれば、三人を討てるだけの火力は期待が持てた。だが外せば、後がない。考えている時間もない。一気に間合いを詰めながら、術を解放する。
紫電竜の行軍が、敵を呑み込んでいく。
その瞬間、一人が前に出て盾となっていた。衝撃に紛れて、二人の敵が視界から離脱してしまった。
左右の側面から、同時に短剣で斬りつけてきている。
何とか左翼の敵を斬り伏せるが、もう一方の騎士が放った袈裟斬りを受けてしまう。無意識のうちに後方に飛んでいたのか、致命傷には至らなかった。詠唱陣の浮かぶ左手が、目前で嘲笑っていた。回避は不可能だった。術が放たれる瞬間、脳裏を過ぎったのは死からは懸け離れた物だった。
――死にたくない。死ぬ訳にはいかない。
愛しい人の笑顔が、エルナスを懸命に生へと駆り立てる。
持てる魔力を籠めて、前に出ていた。喰らいつくようにして、皇剣を敵の胸部に突き立てる。宿主を喪った魔力が解放されて、その残滓が肌を焼いている。業火のような劣情が、見苦しくぶざまに死を拒んでいた。
死にたくない。死ぬ訳にはいかない。何としても生きのびて、約束の地に向かわなければならない。
こんな地獄で果てて堪るか。絶対に、死ねない。胸裏の奥で煌めく感情だけが、エルナスを動かす薪炭となっている。魔銃の装填をしながら、闇雲に走っていた。街の外に、逃げなければならない。
四面楚歌の状況下で、エルナスは逃げ惑うことしかできないでいる。
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