刀剣マニア浪漫紀行・二王清綱 編
刀剣マニアの私、岐阜県立博物館に行った。
目的は、名刀・二王清綱を見るためだ。
二王清綱は、新撰組局長・近藤勇の首を切り落とした刀、刀と言っても脇差、脇差で新撰組局長・近藤勇の首を切り落とした、介錯人・横倉喜三次に浪漫を感じた私、刀にもドラマがある、剣客にもドラマがある。ドラマに浪漫を感じた事だけは嘘ではない・・・
岐阜県 岐阜市
岐阜県立博物館・・・
やっと来れた・・・
私の胸の鼓動が高鳴る・・・
会える・・・
二王清綱・・・様
様と呼んでしまうほど、刀剣マニアの私が・・・
夢中なっている・・・日本刀
日本刀と言っても・・・脇差
室町時代の刀工・二王清綱の刀・・・
そして、新撰組局長・近藤勇の首を切った刀・・・
目前の、二王清綱の脇差に興奮を覚える私は、あらためて刀剣マニアだと再認識する。
そして、新撰組局長・近藤勇の首を切った男・・・
介錯人・横倉喜三次に浪漫を感じる。
何故、浪漫を感じるのか?
と、問われれば、答えは簡単だ。
二王清綱が脇差だからだ、脇差で首を切り落とす、凡人の腕前では無理、よって、横倉喜三次は、凄腕の達人、だから、浪漫を感じる。
それに、赤報隊・隊長・相楽総三の介錯人もしている。
浪漫に浪漫を追加された感じの浪漫に満足する・・・
横倉喜三次・・・
現代でも強い人気、幕末の凄腕の剣客集団・・・
「新撰組」
しかし、後世では脚光を浴びることになった新撰組とは違い、歴史の影に埋もれた剣客も大勢いる。
その、1人が、横倉喜三次
横倉喜三次は、新撰組局長・近藤勇の介錯人、つまり、首を切った男である。
横倉喜三次は、1824年、現在の岐阜県にあたる、美濃国で武家の長男として誕生する。
世は徳川の天下が当然で、横倉家も地方の名もなき武将にしか過ぎなかった。
しかし、横倉喜三次は、わすが11歳にして、父親が死去、家督を受け継がざるを得なくなった。
結果、16歳を迎える頃には、江戸勤番として呼び出される。
この、呼び出しが、横倉喜三次にとって、大きな転機となる。
大きな転機とは、江戸の剣術道場の名門一派・・・
「小野派一刀流」に入門をする。
武家出身の横倉喜三次は、元から稽古は受けていたが、名門流派に師事したことで才能が開花する。
剣の腕前を上げた横倉喜三次が美濃国に帰ると、仕えていた旗本・岡田善長に認められて、武術指南役としての立場を与えられた。
戦国時代のように頻繁に戦の機会が無いため、実戦経験こそ少なかったものの、横倉喜三次の剣術には光るものかあった。
横倉喜三次も武術を習得することを生き甲斐とし、剣術以外にも、弓術、柔術、砲術など、あらゆる戦い方を学ぶ、まさに、戦術の達人という呼び名が相応しい人物と言える。
そんな、横倉喜三次が本格的に戦場で活躍をする機会が到来した。
1868年、戊辰戦争の勃発だ、
時代は、大政奉還により、徳川の世から明治時代に突入・・・
しかし、国内には、新政府軍に異を唱える旧幕府軍が残っており、大きな内乱となっていた。
横倉喜三次は、仕えていた旗本が新政府に組したため、必然的に旧幕府軍と戦うことになる。
旗本に仕えていた43人の家臣のなかから、横倉喜三次は腕を買われて副隊長に任命された。
結果、横倉喜三次は、度々、戦線へと駆り出されて、官軍として数々の旧幕府軍と戦った。
剣術の腕前と、戦いの知見の深さは周囲を圧倒する。
特に横倉喜三次が、赤報隊・隊長・相楽総三の処刑に立会った際の出来事は、周囲との実力の差を圧倒的に知らしめた。
赤報隊とは、新政府軍の指揮下にあった部隊のひとつだ。
本来は、横倉喜三次の味方である部隊だが、命令を無視する行動から、新政府軍より「偽官軍」として見なされていた。
そして、赤報隊の幹部たちは拘束されて、処刑をされてしまう。
赤報隊・隊長・相楽総三の処刑の場には、横倉喜三次も立ち会った。
そこで、あるトラブルが発生する。
介錯人が頭を垂れる、赤報隊・隊長・相楽総三に、刀を降り下ろすと、仕損じて首ではなく、右肩を斬ってしまう、傍らで、その様子を見ていた横倉喜三次は、無駄な苦しみを与えぬようにと、すかざず刀を抜いて代わりに介錯を果たした。
電光石火の早業に、周辺の者は驚きを隠せなかった。
電光石火の早業の噂は、瞬く間に新政府軍に広まり、横倉喜三次は、ある人物の介錯を頼まれることになった。
ある人物とは・・・
新撰組局長・近藤勇・・・
旧幕府軍の要人として活動していた近藤勇だが、新政府軍に捕縛されていたのだ。
捕まった近藤勇は、横倉喜三次が仕える旗本・岡田家の預かりとなり、横倉喜三次は近藤勇の介錯人を努めることになる。
損斐川歴史民俗資料館にある「横倉喜三次日記」に、横倉喜三次と近藤勇の対面の様子が書かれている。
横倉喜三次が・・・
「何か遺言でもないか」
と尋ねると
近藤勇は、とても喜んでいたと書かれている。
その理由は、自分の介錯人が横倉喜三次と知ったからだ。
自分の最後は、凄腕に任せたい・・・
近藤勇の侍としてのプライドを感じる。
近藤勇との束の間の言葉のやり取りを交わした、横倉喜三次は、電光石火の早業で刀を抜き、近藤勇の首を切り落とした。
その光景を目撃した、近藤勇の婿養子・宮川勇五郎は、(丈の高い人は、ヤッと言うと、一太刀で切りましたが、まことに見事な腕前で、60何年経った今でも感心しております。)と、発言している。
丈の高い人とは、横倉喜三次のことだ。
義父・近藤勇が斬首された場面なのに、感心したと述べているのは、よほど横倉喜三次の電光石火の早業が凄まじかったことの証明だろう。
横倉喜三次は、処刑の場で近藤勇と初対面なのだが、かねてより同じ剣客として、近藤勇に尊敬の念を抱いていた。
その気持ちの表れか、介錯の報酬、金銭を使い、近藤勇の死後、1ヶ月も経たないうちに僧侶たちをかき集め、近藤勇の法要を行った。
こうして、凄腕の剣客同士の対面は、電光石火の早業の如く終わった。
横倉喜三次が、近藤勇の首を切り落としたエピソードには、まだ驚く事実が隠されている。
それは、横倉喜三次が使った刀についてである。
その刀は「ニ王清綱」と言う名であり、なんと、通常の日本刀ではなく脇差なのだ。
脇差とは、名前の通り、侍が脇に差しておく予備の小刀だ、勿論、予備の小刀の為、メインで使う刀の長さはなく、重さも軽いのが一般的だ。
横倉喜三次が凄いのは、この軽い脇差で簡単に近藤勇の首を切り落としたことにある。
通常、刀を振り下ろす場合、重さがあるほうが威力が増す、軽ければ勢いが弱まり、首を完全に切り落とすことが難しくなる。
刀が途中で止まり、首を切る相手に余分な苦しみを与えかねない、横倉喜三次は、そんな扱いの難しい脇差を使い、見ていた者の脳裏に焼き付く見事な介錯をやってのけたのだ。
時代劇のドラマ、時代劇の映画、小説に登場するような達人のイメージを体現していた剣客だと言える。
補足だが、横倉喜三次が使った「二王清綱」だが、製造されたのは室町時代と言われている。
横倉喜三次や近藤勇が生まれる遥か昔に生まれた名刀である。そんな、「二王清綱」が、何故、横倉喜三次の手に渡ったのか正確な情報はない。
一説には、処刑される近藤勇が横倉喜三次に「二王清綱」を贈ったとある。
本当ならば、本来は介錯に不向きな脇差をあえて横倉喜三次が使ったことも納得できる、
同時に、近藤勇は脇差をあつかえる技術が、横倉喜三次にあることを見抜いていた証拠にもなる。
実際はどうだったのか、今では知る由もないが・・・
剣客同士がお互いに敬意を払っている浪漫のあるお話しだと思う。
謎を残す「二王清綱」だが、横倉喜三次の死後は、子孫たちによって保管されてきた。
しかし、平成以後、「二王清綱」は寄贈されて、現在は岐阜県立博物館に所蔵されている。
時期によっては、横倉家の資料と一緒に展示をされていて、幕末ファンの心を踊らせている。
有名な新撰組局長・近藤勇の首を切り落とした刀、それを目前で見れば、かつての剣客たちの想いを感じ取ることができるだろう。
刀にも、ドラマがある。
剣客にも、ドラマがある。
刀剣マニアの私にとって、「二王清綱」が、どのような経緯で、横倉喜三次の手に渡ったのか知りたい事だけど、正確な情報がない、それもまた浪漫があり、切る横倉喜三次、首を切られる近藤勇、剣客同士のドラマも浪漫がある。
岐阜県立博物館で、「二王清綱」に浪漫を感じた時、きっとそれは、あなたも刀剣マニア、そして、幕末・維新志士マニア・・・
浪漫を感じたいと思った、そこのあなた・・・
是非とも・・・
岐阜県立博物館へ行くことをオススメします。
(終わり)
新撰組の撰と言う漢字、選と言う漢字を使っても
正解である。撰と選、あえて私にとって、馴染みの少ない撰と言う漢字を選択した。
理由は、ひねくれた性格だから・・・(笑)
歴史の影に埋もれた凄腕の剣客の1人、超有名人の新撰組局長・近藤勇の首を切り落とした介錯人・横倉喜三次の腕に浪漫を感じたのは私だけではないはずだ。
赤報隊・隊長・相楽総三の介錯もしてるし~
刀にもドラマがある、剣客にもドラマがある。
ドラマに浪漫を感じた事だけは嘘ではない・・・
また、新撰組局長・近藤勇が、処刑前に命乞いをしたお話しがあるのも浪漫、それに、京都・三条河原で、さらされた新撰組局長・近藤勇の首が行方不明になっているのも浪漫、さらに、新撰組局長・近藤勇の首の行方が諸説あるのも浪漫・・・
浪漫のオンパレードだから、浪漫を感じるのではないだろうか、・・・知らんけど。