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妄想論

天然と養殖

作者: とびうお君

 水源さんのエッセイへの直接的批判が動機となってる。水源さんのエッセイでコーヒー云々ってエッセイがある。以前も懐石料理とその他の料理でなろうの問題を指摘してたがそれは微妙に違和感がある。全く違うって否定的な話じゃない。そもそもこれは水源さんへの批判エッセイじゃない。水源さんの発想を多分多くの人は持ってるからそれに対して根本から違う話をしたいから導入としてそれについて言及しただけである。


 懐石料理、高級豆のプロのコーヒーなどとなろう読者が求めるものは多分違う。このすば、オバロやリゼロのようななろうアニメ化でなろうって面白いって知らしめたような作品をまたランキングは選び出してほしいと願ってるだろう。これが何故違和感があるか?と言うと、水源さんが言うのはミシュランなどのA級グルメと料理全般についてで、オバロリゼロなどはB級グルメと最初から枠を作った中でのNO1を決める戦いになる。


 ここがかなりずれてる。ただ全くおかしいわけじゃないのは、なろうの批判エッセイ側もこれを大半が勘違いしてるから。だから勘違いの中に一部本気で文章力が評価されないなろう作品に不満を持ってる人がいるのじゃないか?と見てて、否定ではなくて違和感としている。そしてそれらは私の少数精鋭ランキングにつながっているため、きちんと分ければ無駄な言及だとは思ってない。


 結論から言うとB級グルメ王は多分決定されない。これは料理の例えはふさわしくないと書いたのと繋がるが、料理は繰り返しの刺激が物語程損なわれない。音楽がこの中間かと思う。その点の違いが大きな違いになってるのじゃないか?と見ている。


 おそらくだが上手いB級グルメよりも不味いB級グルメを選ぶのは簡単なんじゃないか?と思う。大半の人間にとって下手くそと大体の人が思う酷いのがあると思う。それの排除には理性があっても優れたB級グルメってのは微妙じゃないか?と見てる。そして、たとえそれが選ばれて納得できても、料理が持つ繰り返しに耐えうる刺激と言うのが物語ではかなりデメリットになるのじゃないか?と見ている。


 多くの人が望む過去あった面白いなろう作品ってのは、そのまま過去あったからが答えだと見ている。これについては私は別エッセイで書いてる。どんな創作も特に大衆娯楽と言うものは、黎明期成長期には傑作が誕生して、その後はその模倣的作品が生み出されるだけになると。そういった個性的作品は歴史的にあるジャンルの初期に出来るって法則があり、それはその後で切ることはない。


 そのため死人をよみがえらせるようなものなので考えても無駄と言うのが私の結論になってる。私はそれを天然と養殖物と今回テーマにした。天然=あるジャンルの創作で自然に勝手に出来上がる傑作、よって天然もの。これに対して、多くの人間はこれを何かしらの方法で選出しようと言う手段を構築しようと考える。よってこれを作家を含めて人口育成とみて天然に対する養殖と見た。


 この養殖は多分成功しない。そのためエッセイの大半は、ただのごみや無駄でしかない。最初から存在しないものを議論するから話が終わらない。この手の批判エッセイに意味が無いのは神学論争だからになる。


 ここに関わるのが、A級グルメの話になる。何が違うのか?で、A級グルメは作り手だけじゃなくて評価する人間が評価者として成長するからになる。優れた評価者たちが優れた作り手と相互作用によって作品を創りだしていく共進化こそがこういった作品が発展していく土台になる。


 現在なろうで使われているランキングはすべての読者の総意を反映するため、私は全員参加のランキングと言っている。これは世の中に溢れるランキングの大半がこうだろう。これは評価者の成長を阻害する。評価者を選ばないからだ。敢えて成長しない評価者も同様に評価させる。


 私はこれが欠陥だとは思ってない。ただ違うものだと言うのは知ってほしい。これらの根幹にあるのは、特に娯楽作品などのランキングは、あえて受け手が頭を使わず気軽に楽しめるってものが多い。そこを逸脱して受け手が馬鹿だからと言うのは簡単だが、仕事以外で気楽に余暇を楽しむのに、何故頭を悩まして楽しませようと他人が文句を言うのか?


 ここが私は以前から不満なんだ。読者が悪いと言うのは簡単だが、所詮は余暇を楽しむ娯楽でしかないのだ。最初から、成長につながる共進化が大衆娯楽には起きない。大衆娯楽の条件を持ったまま良いものを選び出そうとしなければ意味が無い。そういった中の良いものは選べないわけじゃない。


 私の経験上、全員参加の人気ランキングでそれらの序列以上の説得力がある評価を下せる個人を見たことが無いって点。歴史の流れの中で、勝手に出来上がるもので、たいていのジャンルは皆同じ動きになる。ある時期生まれたものを特別に意識してしまって、それらに近いものじゃないと認められないって考えがなろうの批判エッセイの問題だと私は見てるんだ。


 これは後の作品も素晴らしいと言ってるわけじゃない。それが初期作品に劣っていても、すでに出来上がってしまったジャンルから新しい黎明期に似た作品を選出する方法が無い。私の中では、これらは金脈に近いとみてて、受け手が頭をあまり使わない物語においては、初期に出た傑作は金脈と同じで、もう掘りつくされて2度とよみがえることはない。後は金の無い場所を掘り続けるだけの枯れた鉱脈になる。


 ただし、私は絶対に不毛となるとは思ってない。頻度的にこういった現象が3,4年続けば1つぐらいは出来上がるかもしれない。頻度が全く違ってしまうとなる。何故か鉱脈は初期にだけ発見されやすい。これについては相関関係に対して無理やり因果を考えたことがあるが、頭をあまり使わない創作は、初期誰でも考え付く、美味しい展開はさっさと発見されて使われてしまうためと見ている。


 頭を使わないので、美味しいパターンがほとんどないが答えになる。


 今私はなろうは終わったんだあきらめと書いてる。ただし私はその中で、隔離政策は面白いと思っている。隔離政策は新しいものを想像する政策じゃない。これは生物の生態系とものすごく似ている。サプライチェーンと言うか、生態系丸ごとで生きている生物と言うのがあって、これらが破壊されると、既存の別の生物が伸びてくる。


 転生転移が絡み合って、一つの生態系のようになってしまってて、何故かはわからないが違うんパターンが伸びてくるのを阻害してた。追放系は確かに新しい。だが根幹部分はクラス転移のありふれなどの排除や、盾の勇者の不遇職に構造はとても似ている。元々あったものが大きなものを取り除くことによって大きくなっただけと見ている。


 全く新しいものじゃなくても、小さなものが大きくなることで、あらゆるパターンを試すことによって新しい派生を誕生させるのも創造的だと見ている。隔離政策を早くとることを望んでいる。だが根本的な問題として駄目だと思ってるのは、やがて将来隔離の方がメインになると私は見てるからだ。


 根本的には延命処置にしかならない。なろうはもう終わったんだあきらめろ、これが批判エッセイの人に一番言いたいこと。無駄な言及を無駄と知らずにまき散らすな。


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