行方
書いてみました。
よろしくお願いします。
「よし終わり」
隣で鬼のような速さで仕事をこなしていた美和ちゃんが小さく呟いて先に席を立った。さらさら流れるように通路脇にあるプリンターの方へと歩いて行くその姿を、私がつい仕事の手を止めて目で追ってしまうのはもういつものことだ。
「これは私がやりますから、吉野さんはこっちをお願いします」
「いいの?」
「これくらい余裕ですから」
「そっか。じゃあ私はこっちね」
「はい」
朝、そう提案した美和ちゃんは気付いていた。私の様子から今日は体調があまり良くないことをしっかりと見抜いて私の負担を減らしてくれた。
そのせいで作成する資料や纏める数字は私よりも美和ちゃんの方が必然的に多くなってしまう。でもそれを微塵も感じさせない速さと正確さで私よりも早く終わらせてしまうから、やっぱり美和ちゃんは優秀なんだよねと、私はそれを嬉しく思ったりそう自慢したくなる。
それに美和ちゃんは仕事以外でも、ペットボトルのキャップを開けてくれたり重い物を持ってくれたり歩調を合わせてくれたりと、普段から色々と私を気遣ってくれている。
それは全て私に悟られないようにしてくれている美和ちゃんのさり気ない優しさだから、私も気付かないフリをして、ありがとうと思いながら一々恐縮しないでしっかり甘えることにしている。私はそれが美和ちゃんの望みだと分かっているし、美和ちゃんも私が気付いていることを分かっているけどその態度を変えることはしない。
私がこの部署に異動して以来、こうして毎日触れている美和ちゃんの優しい気遣いがじんわりと私の中に染み込んで来て、私はいつの間にか、出社して直ぐに美和ちゃんの姿を探したり、見つけてほっとしていたり、今もそうしているように、席を立つ度にその姿を目で追ってしまったり隣で小さく呟いた独り言さえも耳聡く拾ってしまうようになった。
染み込んで来た優しさが私の中に目一杯拡がった今、その理由は分かっているけど口にするのは難しい。主に社会的な意味でねって、主にも何もそれしかないんだけど。
美和ちゃんの後ろ姿が通路を曲がるまで目で追ってそんなことを思った後、私もそろそろ終わらせてしまおうと再び仕事に意識を戻した。
私は朝から作成していた資料と営業部が上げて来た先月の確定した数字を纏め終えて印刷にかけた後、オフィスの通路にあるウチの課専用のプリンターの前でそれらがプリントアウトされるのを待ち構えていた。
今は午前11時45分、お腹減ったな、お昼は何を食べようかな、なんてぽーっと考えているうちに印刷は終わっていたようだ。
「美和ちゃん、印刷終わった?多分次私のが出てくるよ」
「へ?」
直ぐ側で聞こえた声に顔を向けると吉野さんの小顔が間近にあった。ぼーっとしちゃってどうしたのとにこにこ微笑んでいるその顔は近くで見ても凄く綺麗で可愛らしい。
一期上の吉野さんは、整った顔のパーツの所為で一見するとどこか無機質で冷めた印象を持たれることが多いようだけど、実はその大きな目の尻が少し下がっているから顔のシャープな輪郭にも関わらず何気にふんわりとした雰囲気を醸し出している、気がする。少なくとも私にはそう見える。
肩で切り揃えた真っ直ぐな髪を暗いブラウンで染めていて、ツンとして筋の通っている鼻の造り小さめだけど低いということではなく、顔の印象をよりすっきりとさせている。今両角が上がっている唇はツボに嵌ると大きく広がってとても楽しそうに笑う。
それに何と言っても吉野さんの横顔は本当に綺麗。その凜とした横顔を初めて見た時は息を呑んで唯々見惚れてしまった。私はいつもその綺麗な横顔を隣の席からちらちらと拝見させて貰っている。
背は私と同じ163センチ。ミリ単位の差で私の方が高いだけなのに、この前の健康診断の結果をこっそり見せてくれた吉野さんの体重が私より3キロも少ないのはどうしてなんだろう?
「ぐぬぬ」
「美和ちゃんどうしたの?」
「背は変わらないのに私の方が重いですね」
「いやあのね、両手にチョコを持ちながらそんなこと言われても」
「ぐぬぬ。なら…」
「美和ちゃん、口に入れたらもっとダメだと思うよ?」
「むぐぐっ」
その時こんな会話をしたんだけど、確かに吉野さんががっつり食べるとか間食をしているところを見たことはない。吉野さんは見るからに食も身体の線も細い。
比べて私の体型は見た目ぎりぎり細い部類に入っている筈だし体重は標準の範囲内。あくまで標準だから別に気にすることもないんだけど、お前は本当にそれでいいのかと私のプライドがしつこく私に語りかけてくる。
それがあまりにもしつこいから、私はこの不可解な体重差について少し考察してみることにした。
もしこの3キロ差という摩訶不思議な現象に何か理由があるとすれば、それは私の大好きなオレンジピールのチョコレートくらいしか思いつかない。
そう。オレンジピールのチョコレート。アレはいい。アレは本当に素晴らしい食べ物だと私は思う。
私が好んで食べているやつはひと箱に入っている量が少ない割にそこそこいい値段がするんだけど、色々と食べ比べた結果、それが一番美味しかったから私はなるべくそれを切らさないようにこまめに買って家と会社に常備している。
私は毎日三度の食事とちょっとだけお菓子を間食する以外はアレを3時のおやつとして食べるか夜のデザートということにして毎日欠かさず食べているだけだし、多くても一日に箱の半分までと決めているから食べ過ぎているとは思わないけど、アレが若干の要因になっていると言えないこともないのかも知れない。けどそこは私にとって絶対に譲れない一線だから、美味しいオレンジピールのチョコのことは突き詰めて考えないことにしたいと思う。
そうなると、他に思い当たる理由を挙げるとするのなら、やはりあの控えめで奥ゆかしくて可愛らしい造り故の、吉野さんの胸の薄……軽さ……と、とにかく私との差はそれくらいしか思いつかない。私は自分が食いしん坊だとは思いたくないから、寧ろこの私達の胸の差こそが体重差の理由であってくれたらいいなと思っていたりする。
そう思って控えめで奥ゆかしいくて可愛らしい胸をじっと見ていたら、吉野さんからとても不穏な空気が流れて来たのがちょっと怖かった。
声を掛けてきた吉野さんの顔がとても近い。
突然私の視界満タンになった吉野さんに驚いて、つい綺麗だなぁと口にしそうになったけど、私はそれを呑み込んで上半身を少し後ろに反らしながらプリンターに目を向けた。
「あ、終わってる。ごめんなさい。なんかお腹減っちゃって。ぽーっとしてました」
「きっと血糖値が下がって頭が働かないのね。それで一段落ついたよね?私もこれで終わりだから、そうしたらお昼に行こう」
吉野さんが、私がとんとんとプリンターの置いてあるキャビネットの上を使って印刷された紙を適当にひと纏めにしているのを指差しながらそう言った。
その吉野さんが何故かふふんと得意げな顔をしているんだけど、まあそれは置いておいて、一緒にお昼に行けることを素直に喜ぼうと思う。
そうは言っても私達は殆ど毎日お昼を一緒に食べている。ここ半年は特にそうだから、態々予定を聞いてから誘ったり誘われたりすることもせずに自然とふたりで食べに行くようになっていて、私はそれをとても嬉しく思いつつもバレないように気を引き締めるのも忘れない。
「はい。そうしましょう」
「何食べようか?」
「寒いから鍋焼きうどん食べたいなぁ。エビ天二本のヤツ」
「ふふっ。いいね、うどんにしよう。私もすぐに終わるからちょっと待っててね」
「はい。じゃあ私は席に戻ります」
私はプリンターの前を吉野さんに譲り、今日もお昼は一緒だなと少しうきうきしながら席に戻ってプリントアウトした資料をチェックしていることにした。
けど席に着いていざ資料をと思ったらそれがどこにも見当たらない。
「あ」
忘れた。私は直ぐに思い当たってちょっと恥ずかしいなと思いながら小走りに吉野さんの、違う違う、プリンターの所まで戻るのだった。
「明後日雪が降るかもっだってね」
「あー。そんなこと言ってましたね」
「おーさむさむ」
オフィスを出て鍋焼きうどんを目指してふたり並んで歩いていると吉野さんが寒い寒いと私の腕を抱え込んでくる。
吉野さんは寒い季節になってからよくこういうことをしてくる。本当はそれを嬉しいと思っていても流石に周りの目が気になるし、受け入れてしまうと後で余計悲しい気持ちになるから、私は何やってるんですかと強引に腕を解いて身体をずらし吉野さんとの距離を少しだけ開ける。
それでも私は三秒くらいは吉野さんが私の腕を抱える感触にちゃっかり幸せな気分を味わっていたりする愚か者だ。
「ちょっと美和ちゃん。寒いんだからくっ付こうよ」
「ダメです。ほら、もう着きました」
ぷくっと頬を膨らませている吉野さんにうどん屋を指差してみせる。目指す鍋焼きうどんはもう目の前にあった。
「ちぇっ、残念」
私も残念ですよと同意しつつもそんなことはおくびにも出さないように頑張って、私は苦笑いをしながら吉野さんを促した。
「さあ、入りましょう」
私達は今、オフィスの近くにあるうどん屋で向かい合って席に着いている。私の前には鍋焼きうどんがあって、吉野さんの前には私はこれが好きだと言って頼んだごま味噌うどんがある。
吉野さんはどうしても調理に時間のかかる私の鍋焼きうどんが来るまで箸を付けずに待っていてくれた。
猫舌だから丁度いいんだよと言ったけど、気を遣っているのは知っている。おまけに器を貰って私に少し分けようとまでしたんだけど、私は待てるしそこまで食いしん坊ではない、と思いたい。もちろん食べたいことは食べたいけど。
そうして頼んだ品が揃ったところで私達はお互いに、では頂きますと挨拶をしてそれぞれのうどんに手をつけ始めた。
「おいふぃい」
「ふふふ」
この季節、やはり鍋焼きうどんは欠かせない。そう思いながら器に取ったうどんに七味をかけてずずずと口に入れたら凄く熱かったけどとても美味しい。
素直な感想を漏らしたら吉野さんが私を見て微笑んでいた。私は照れ隠しのために敢えてそれを無視してこのまま食べ進めることにした。
ふーふーはふはふとふた口み口お互いに無言で食べ進めた後、私は吉野さんに気になる事を聞いてみる。
「体調はどうですか?」
病気のことは吉野さんから教えてくれたことだけど、今でも誰かしらに聞かれているだろうからいい加減うんざりしているかなと思って私は殆ど尋ねたりしないけど、今日はあまり調子が良くなさそうだから時にはこうして尋ねてしまうこともある。
「んっ。平気。まあまあ落ち着いてるよ。偶に強張る日もあるけど、痛みは殆ど出なくなったから」
「そっか。良かったですね」
「うん。ありがとう。薬を飲んでいれば大丈夫だから」
もぐもぐ噛んでいたうどんを飲み込んで、両手を握ったり開いたりしながらそう言って微笑んだ吉野さんは普段から自分の弱い所を見せようとはしない。だから表面上は至って元気そうに見える。
けどいつも隣にいて吉野さんを見ている私には今日は少し辛いのだと分かる。吉野さんは痛いなんて言葉を殆ど口にはしないけど、痛みのある時は無意識にその場所を摩っていたり少し眉を顰めたりしているから。
「辛かったら言ってください。私に甘えて良いですから」
「ありがとう。そうするよ」
つい踏み込んでそう言ってしまった私に、吉野さんは微笑んでそう返事をしてくれたけど、仕事に支障をきたさない限り吉野さんが辛いなどと言うことはない。私はそれを少し寂しく感じてしまうけど、吉野さんはそういう人だ。
その吉野さんがウチの課に来てもう一年と三ヶ月が過ぎた。通常の異動時期とはズレていたから、私がその異動の話を聞いた当初は少し変だなと思っていた。
吉野さんはそれまでウチの会社の花形部署で稼ぎ頭の第一営業部でバリバリ仕事をしていたけど、病気を患ってしまったのでそれを機に其処よりも時間も身体にも負担の少ない内勤の部署への異動を希望した。
優秀な吉野さんの希望に手を挙げたのはウチの部署だけでは無かったみたいだけど、ウチの部長が見事に吉野さんを勝ち取って、引き継ぎ等に二ヶ月ほどかけてから管理部門へとやって来た。
その後吉野さんがウチの課に配属されたのは、ウチの課が元々人を欲しがっていて代わりの人を出す必要が無かったからだ。
こうして私の隣の席にやって来た吉野さんを、暫くは私が面倒をみることになった。吉野さんはその時に、マニュアル片手に私から仕事の説明を受けながら何故異動になったのか、その経緯を私に教えてくれた。
「ウチの会社は優しいね」
ふいに箸を止めて吉野さんがそう言った。私はうどんを冷ますために尖らせていた口で答えた。
「吉野さんが特別じゃないんですかね?」
「そんなことないよ。確かに私にはコネがあるけどね。でも、鬱になった人とか長期入院の人とか使えない人とかを出来るだけ庇おうとしてるのよ、ウチは」
「あー、そうかも」
「よっぽどじゃないと切ったりしないのよね」
吉野さんはそう言って、何処ぞのプロレスラーがするように首を搔き切るポーズをした。何故か白目になってへの字口をして少しだけ舌まで出して苦しそうにしている。
私はその様子を目にして、その顔真似は要らないんじゃないのと思って少し笑ってしまった。
「ぷっ、ふふふ」
「どうしたの?」
「だって吉野さんの顔が…」
「ん?ああこれね」
なんか臨場感あるでしょ、うえぇ〜とか言ってまた同じ仕草と同じ様な顔をする。と言うかさっきよりも酷い。
やっぱりその顔要りませんよねと、私がそれを声にして笑うと、吉野さんも釣られて笑った。
「ふふふふふ」
「あはははは」
少しの間ふたりで笑った後、吉野さんが何の話をしてたっけと首を捻る。それが合図になって私達は再びうどんを食べ始めて話しを戻す。
「ウチの会社のことです」
「あ。そうそう。とにかくね、ウチは優しい会社なのよ」
「このご時世にありがたいことですね」
「その代わり同じ業界の中だと給料は高い方とは言えないよね」
「言えませんね」
不満たらたら被せ気味に同意した私の返事を聞いた吉野さんがふふふと笑っている。私はうどんを持ち上げていた手を止めてそのあまりにも綺麗で可愛らしい笑顔を見つめてしまう。
「美和ちゃん、そんなにまじまじ見つめないで。照れちゃうよ」
「み、見つめていませんよ」
「そう?」
「そうですよ」
「そっか。なーんだ」
なーんだと言いつつ笑みを一層深くした吉野さんに、私はどうにか平静を装って誤魔化すようにうどんを啜る。
危ない危ない。油断してまた見惚れてしまった。こんなことばかりだと気付かれてしまうかも知れないから、しっかりと気を付けないといけないのに。私はそう思って気を引き締め直す。
「ところで美和ちゃん」
「んっ。何ですか?」
「海老天ひとつくれる?」
「なっ」
「な?」
「な、なるとなら…くっ」
「うそうそ。ふふふ」
危ない危ない。気付かれるのは当然困るけどエビ天も困る。もちろんなるともだ。
けど私は決して食いしん坊なんかじゃないから椎茸ならと思って、要りますかと椎茸を箸で摘んで見せたけど吉野さんは首を横に振った。
残念、失敗。何を隠そう私は椎茸が大の苦手なのだ。
「好き嫌いはダメ。私みたいに病気になるよ」
「…はい」
そう言われては仕方ないので吉野さんに食べて貰う作戦は諦めて、その代わりに私は箸でちょんちょんと椎茸を視界から隠すように端に寄せた。
それから再びうどんを啜ることにして、目の前で微笑んでいる吉野さんに気付かれないようにしなくてはいけない理由に想いを馳せる。
私は女性が好きだと自覚し始めたのは中学生の頃で、確信したのは高校生の頃だった。
けど、それを確信したからと言って自分がレズビアンだということをハイそうですかと素直に受け入れられるかどうかはまた別の問題だったりする。
私は変なのかなとか異常なんだとひとり悩んで、ソレを認めるのが嫌で頑張って男の子を好きになろうとしたり、好きでもない男の子と付き合ってみたりして無駄な時間を費やして、躍起になってソレを否定しようとしていた時期もあったけど、それでもやっぱり好きになるのは女の子だけだったりと、結果、余計にソレを思い知らさることになって打ち拉がれたり落ち込んだりすることを何度か繰り返して、私が私のことを受け入れるにはそれなりの時間が必要だった訳だけど、それが出来たのは結局受け入れるしかないんだと分かったからだった。どうしたって変わらないなら、変わるしかないんだと気付いたからだ。
世界には情報が溢れていて色々な事柄をネットでさくさく検索出来るから、私のこと、レズビアンについて検索すること自体はとても簡単だった。
初めの頃は検索していくに連れてとても怖くなってしまった。私のような人間にこの世界はあまり優しくない。それを確信してしまったから。
気持ち悪い。欠陥品。生物としてどうなんだ。存在してもいいけど表に出るな。そういう書き込みが幾つもあった。なんとなく分かってはいたんだけどとてもショックだった。
私が一番ショックだったのは、それはそうだろうなとその言われようを認めている自分が居ることだった。それがとても悔しくて、私はその日泣いてしまった。
そんなことがあって暫くは、私はネットで検索することを避けていた。色々と思い知らされたことが本当に辛かったから。
それでも私のことを知るためのツールはそれしかないし、私は私のことを知らなくてはならないと考えて再び検索してみることにした。目にしたら傷つくことも多いと分かっていても、当時の私はどうしても何にかしらの救いが欲しかったのだ。
ネットで調べた感じでは自ら同性愛者だとオープンにしている人達もそれなりにいるみたいだった。
けど私には私の周りに私と同じ存在を見つけることは出来なかったし、私のことを誰かに打ち明けるなんて当時高校生の私にはとても考えられなかった。親、友人、学校。バレたらきっと嫌われてしまうんだと、そんな考えしか頭に浮かんで来なかったから。
だから大人になるまではレズビアンであることを誰にも言わずひた隠しにして生きて行くことにした。
ブログとかで自らの状況とか心情を発信してくれていた人達が、大人になれば何とかなるかも知れないと私にそう思わせてくれたからというのも大きな理由だった。
そうしてお酒が飲める歳になった大学生の時、私は私と同じ女性達が集う社交場にデビューした。そこは前々からネットで見つけていたレズビアンバーだった。
初めて扉を開ける時はとても緊張した。目で見ただけの世界と実際にそれに触れることは全くの別物だから。
けどその場所は私を快く迎え入れてくれて、そこで働く女性達や客の女性達と話をするうちに、私のような人間でもどうやら何とかなるみたいだと思えるようになった。
それで不安が消えた訳ではないけど、私の心はひと先ず落ち着いた。
同胞がいることはとても心強いことだ。実際に会って話すことが出来て本当に嬉しかったし、繋がりが出来たことに安心感を覚えることも出来た。
私を迎え入れてくれたBARやそこに集う女性達、それに所属すると言うのも変な言い方だけど、その所属意識のようなものが私の心に余裕をくれたのだ。
居場所を見つけた私は、そこで出逢った年上の女性に恋をして、生まれて初めての恋人にもなった。
彼女は恋愛の素晴らしさだけでなく、精神的にも肉体的にも色々なことをとても優しく教えてくれた。彼女と恋をしたことで、私は人としても女性としても成長することが出来たと思う。
「実家に戻ってお見合いをすることに決めたの。多分結婚すると思う。美和、ほんとにごめんなさい」
泣きながらそう言った彼女とは結局別れてしまったけど、私を愛していると言ってくれた彼女のことを私はいつまでも憶えていると思う。終わり方はどうであれ、初めてはいつだって特別なものだから。彼女には逃れられない彼女の事情があっただけ。私は幸せだったから。間違いなく。
「美和ちゃん。やっぱり椎茸ちょうだい」
「え。あ、はいどうぞ」
「ありがとう」
「いえ。こちらこそ」
私が三十一歳になった今、この社会では私達のような人間のカップルの為の制度として、パートナーシップ制度なるものを導入する自治体が少しづつ増えているし、私達のような人間をLGBTというアルファベットでひと括りにしてそれを理解してあげましょうという流れもあって、表向き、社会は少しずつ変化しているようにも思う。
それは凄くありがたいことのような気もするしそっとして置いて欲しい気もしている。私達について潜在的に否定的な人達のことを態々喚起することはないのではと思ってしまうから。
もしも今私に恋人が居て、仮にその制度を利用して公的にカミングアウトをしたとして、それでいきなりこの社会やストレートな人達が私達に優しくなるとは思えない。それで私達の問題は全て解決しましたねとなる筈もない。中途半端な権利を得るためにカミングアウトをしてしまったら、その先は今まで通りに生活出来るとも思えない。私の知らない誰かが私のことを知ってしまう。たとえそれが書類上、データ上の話であったとしても、それもどうかと私は思う。
結局のところ、私の生活の、一体何がどう変わっていくのか。生き易くなるのか何も変わらないのか。それが不特定の人達に知られることに見合うのか。そういったことが私にはまだよく見えてこない。
私にはストレートのカップルのように明確な、若くは漠然とした将来を描けない。描く先が無いから不安になるんだから、中途半端な制度で誤魔化したり勿体つけたりしていないでどうかその先を、同性婚という明確な形できっちり整えてくれないかなと切に思う。もしそうなれば、私はそこへ向かって進んでいけばいいだけの話だから。
普段は私達の存在を特に意識をしていないストレートな人達から見ると、私達について先ず考えることはどうしてもセクシャルな部分になってしまうように思う。
直ぐにそちらの話を想像するのはどうかと思うけど、私達について特に他意はなくただその事に興味を持っているだけで、デリカシーの欠片も無い質問をする人もいる。どうやるのかとか道具を使うのかとか。
そこは好きに想像して下さいと適当にあしらっておく。
それに、嫌なら想像しなければいいと思うけど、私達の営みにもの凄く嫌悪感を持つ人も多く、私達の存在それ自体に不快感を持つ人もまた残念ながら多くいる。
だからいくら条例や法が整備されたところで、あの人はLGBTのLだから理解してあげましょうと人の理性や善意や情に訴えたところで元々持っている嫌悪感が無くなることはない。そんなことはあり得ない。私は蛾が嫌い。好きになれる気がしない。あの触覚やら羽の模様やらりん粉やらが気持ち悪くて仕方ない。私のことと蛾を同列に語るのもどうかと思うけど、結局生理的嫌悪感とはそういうことなんだと思う。理屈なんかでは決して消えはしないのだから。
私の親もそんな嫌悪感を抱いている人達だった。血を分けた娘の切実な願いであっても気持ち悪いものは気持ち悪いし、許せないものは許せないらしい。
寧ろそれは、自分達の子共だからこその話なのかも知れないけど。
私は別に親の赦しが欲しかった訳じゃない。私は両親に私のことを受け入れて欲しかっただけ。
声を荒げて何でそんなことを言うんだとか何を馬鹿なことを言っているんだとかそんな風に育てた覚えはないとか、よく分からないことも色々と言われてしまった。それを外で吹聴してくれるなとも言われた。家の恥だとかなんだとか。
私がレズビアンだと告げた時の両親の嫌悪に染まったあの顔を、私は忘れることは出来ない。それにもちろん言われたことも。私は別に、人を殺しちゃったと告白をしたわけでもないんだけど。
その日までは、親に対してこんな私でごめんなさいと心のどこかで自分を責める気持ちもあったんだけど、それからはもうそんな気持は綺麗さっぱり失くなってしまった。私はもう、彼らのことなどどうでもよくなってしまった。
ふたりの遺伝子が合わさったら私がこうだったんだけどねと言うと、彼らは真っ赤な顔をしてぷるぷると震えて激昂していた。それを見ながら上の方の血管が切れてしまえばいいのになと、流石にそこまでは思えなかったけど。
受け入れてくれると勝手に親に期待して勝手に裏切られたと感じたんだから、親のことなどどうでもいいとはまさに勝手な言い分なのかもしれないけど、それは向こうも同じだろうと私は思う。
こうして親に突き放されてしまった以上、此方も同じようにするより他はない。そうやって彼らに怒りの矛先を向けることで、私はどうにかこの失望から自分を護ることが出来るという訳だ。
ただ、救いもあった。私の弟は別にいんじゃねと言って特に気にすることもなく私のことを受け入れることが出来たようだった。何がどうでも姉貴は姉貴っしょという言葉がとても嬉しかった。私がその言葉に涙を浮かべてお礼を言うと、弟は酷く不器用に私を慰めてくれた。
弟は私が連絡を取り合うたった一人の家族になった。そのお陰で私はかろうじて家族と繋がっている。
「ごちそうさまでした」
「美和ちゃん、ごちになります」
「へ?お、奢りませんよ?」
「冗談よ。冗談」
「もう。穂乃香さんたら」
「あ、名前呼んでくれたね」
「へ?気のせいじゃないですかね」
「ぶー」
吉野さんは、私は年度だと一期先輩だけど早生まれで美和ちゃんと同い年みたいなものだから丁寧に話すのを止めるようにと言っている。友達みたいに話してくれていいよと。それから名前で呼んでくれとも。
けど私は吉野さんと呼ぶことと、なるべく丁寧に話すことを止める気はない。私はそうすることで必要以上に吉野さんに踏み込ませたり踏み込まないようにしているつもりだから。
丁寧に接していればお互いそれ程仲良くなることはないだろうと思って今も敢えてそうしているんだけど、それが上手くいっているとはお世辞にも言えないところが悩ましい。
会計を済ませて私達は店を出る。このままオフィスに戻り、時間まで休憩室でコーヒーを飲むのが私達のいつもの昼休みだ。
「じゃあ戻ろっか」
「はい。行きましょう」
歩き出す私の隣に吉野さんがすすっと寄って来る。最近はもういつものことだけどとても距離が近い。一緒にお昼を食べるようになった初めの頃に比べると、私達の距離は明らかに近づいていて時折肩や腕が触れる。
一度吉野さんに近くないですかと言ったことがある。吉野さんはその時、私ににっこりと笑いかけただけで何も言わずにその距離を保った。だからそれからは、私も二度と何も言わずにこの距離を受け入れることにしている。これが私の甘えであり弱さなんだということを、私はちゃんと分かっている。
ああ。
好きな人に好きと伝えたい。好きな人に触れたい、抱き締めたい、キスをしたいとそう思うことは自然なことだし、ストレートの人達と同じように当然私もそうしたい。
だからと言って、今私が恋をしている女性においそれとこの想いを口にすることは出来ないし、ましてや私の方から触れ合うことなど出来はしない。
切っ掛けは本当に些細なことだったし、自分でも驚いている。
私の隣の席で仕事に集中している吉野さんの横顔に、私は目を奪われてしまった。その横顔が私の心を縛り付け、鷲掴みにして離してくれない。
初めて目にしてから今の今までそれは変わっていない。私は何度だって見惚れてしまう。それを私のものにしたいなと、そう思ってしまう。
だけど私はこの想いを言葉にはしない。今隣を歩いている吉野さんに私の想いを伝えることは出来ない。
吉野さんはストレート。描く先の無い私に、親にさえ嫌悪感を持たれてしまう私に、この気持ちを伝えようなどとそんな身勝手で怖いことを思える筈がない。
いつものようにオフィスへと戻る道で他愛も無い話をしながら隣を歩く吉野さんに目を向ける。そしてまた私は、その綺麗な横顔に胸をときめかせる。こっそりと。
好きです、穂乃香さん
私はそう想うだけにして今の吉野さんとの関係に満足する。無理矢理にでも満足する。
そして私は、自らの枷をとても悲しく思いながら、これ以上何ひとつ変えることなくいつもと同じ、今日も吉野さんの隣を歩く。
美和ちゃんに遅れること5分。作成した資料を印刷にかけて、私がそれを取りに行こうと通路にあるプリンターの方を見ると、先に印刷待ちをしている美和ちゃんが間抜けな顔をして何処かをじーっと見つめていた。
視線の先を辿る必要も無く私にはわかる。美和ちゃんは今空気を見ている。つまり美和ちゃんはただぼーっとしているだけ。
もうお昼が近いから、たぶんお腹が減ったなぁとか考えているんじゃないかな。なんか可愛い。
美和ちゃんは実は食いしん坊だから、私は絶対にそうだろうなと思いながら美和ちゃんの、じゃなくてプリンターの所へ行くために席を立った。
私が隣に立っても美和ちゃんは変わらず空気を見ている。どうやら私に気付いていないようだ。私は直ぐには声を掛けずに、抜け殻のように突っ立っている美和ちゃんの横顔を少しの間眺めていることにする。
美和ちゃんは顔の造りがはっきりしている。目っ、鼻っ、口っという感じだ。鮮やかな二重の少し彫りの深いつり気味目や高い鼻、それと扇情的な下唇の厚さのせいでエキゾチックなジャパニーズという感じがする。
私の中で南欧風にも見えるその顔は、笑顔になると柔らかく優しげで同性の私から見てもとても魅力的に思える。
どこかで外国の血が混じっているのかなと聞いてみたけどそんなことは無いらしい。美和ちゃんは少し考えた後、でも父方のひいひいお爺さんの代までは長崎に住んでいたらしいからもしかすると遠い先祖に混じっているかも知れませんね、ポルトガルの人とか、出島ならオランダの人ですかねと真顔で答えてくれた。
「真面目か」
私がそう言うと、みんなこんな感じで答えると思いますけどと、またも真面目に返しながら、何か可笑しかったですかと首を傾げた美和ちゃんのすっとぼけた感じがとても可愛かった。
美和ちゃんはウェーブのかかった長い髪をブラウンに染めている。仕事が忙しい時にはその綺麗な髪を後ろに纏めて気合をいれたりして、ちらっと見える頸にどきっとさせられることもあったりする。
それに美和ちゃんの体型は至って普通だけど胸が中々に大きい。たゆんと揺れるその胸が一体どういう構造になっているのか微乳………美乳の私にはまったく理解できない。
ただでさえ服の上からでも視線を引きつけてしまうのに、夏なんて胸元の開いた服なんかを着ていたりすると、美和ちゃんが前屈みになったりしたらソレの上乳が顔を出してしまうから周囲がざわざわすることもあるし、私の気持ちも何だかざわざわしてしまう。
私がそのたわわさを羨ましがると、大き過ぎると可愛いブラも可愛く見えないし重くて肩が凝るから私はもっと小さい方がいいですよとか、吉野さんくらい控えめな方が可愛いらしいし奥ゆかしさを感じますとか、そのちい……大きさならお婆ちゃんになって垂れちゃっても目立たないくていいですよね羨ましいなんて言いやがった。その時は私の中に少しだけ殺意が芽生えた気がした。
「はあ?表に出る?負けちゃうけど」
「何故ですか?」
「だって嫌味じゃん」
「違います」
「嘘だね」
「本当です」
私だって控えめより大胆がいいわよとかAカップの奥ゆかしさって何なのよと思ったけど、美和ちゃんは本気でそう言っているみたいだったから、それなら許してあげようと思った。
「美和ちゃん、印刷終わった?次多分私のが出て来るよ」
私が顔を寄せて声をかけると、へっと抜けた声を出した美和ちゃんは私を見て驚いた顔をしたままほんの少しだけ私を見つめた後、身体を後ろに反らしてしまった。
そして美和ちゃんは、お腹が減ってぽーっとしていましたと言った。
私の思った通り美和ちゃんはお昼御飯のことを考えていたらしい。
私はやはりそうだったんだなと、予想通りの答えを聞けたことに満足して少し得意げになりながら言葉を続ける。
「きっと血糖値が下がって頭が働かないのね。美和ちゃんはそれで一段落つくでしょ?私も印刷出たら終わりだから、そうしたらお昼に行こう」
美和ちゃんはにっこり笑ってはいと言ってくれた。
私は殆ど毎日こうやってご飯に誘っている。美和ちゃんはそれをいつも喜んでくれる。それ程までにご飯が楽しみなのねと、嬉しそうにしている美和ちゃんを見ていて私もなんだか楽しくなってしまう。
もう直ぐお昼ご飯だとご機嫌になった美和ちゃんはふんふんと何かを口遊みながら席に戻って行った。
私はその後ろ姿を通路を曲がるまで見送ってからプリンターに視線を向けた。そしてその横に美和ちゃんがたった今プリントアウトしたばかりの、とんとんやって纏めていた資料が目に入る。
あらら、忘れちゃったのねと美和ちゃんの姿が消えた先に視線を戻すと、通路の角から美和ちゃんがたたたと小走りに現れた。私は忘れた物を手に取って美和ちゃんに渡す。
「はい。これでしょ?」
「すいません。忘れちゃって」
「ふふふ」
美和ちゃんはごく偶にポカをする。出来る子なのに自分の仕事を自分ひとりでポカをしてあわあわと慌てながら自分ひとりで解決していることがある。
美和ちゃんの仕事が手間になるだけで誰かに迷惑を掛ける訳ではない。ただただひとりで慌てているのだ。そういう時は、私はその姿を見てくすくすと笑っている。
そして美和ちゃんはそんなことがあった日は帰りがけにいつもこうのたまってくる。今日は何だか凄く忙しかったですね、と。
私はそれを聞いてまたくすくすと笑って、そっかぁ、それはお疲れ様だったねぇと言っておく。
再び美和ちゃんが去った後、私はプリントアウトされ始めた私の資料を印刷が終わるまでじっと見つめていた。今度は私がぽーっとする番だった。
私にはコネがある。コネはあるけど、私自身がそれを使ったつもりは全くない。これまでの私の成果や評価は、間違いなく私自身で勝ち取ったものだ。それは絶対だ。
入社当時、営業部の先輩達から陰でコネコネ言われているのは分かっていたから、私は朝早くから夜遅くまで人の倍は仕事をこなして、結構早い時期に結果を出してその声を黙らせてやった。
そうやってがむしゃらに働いていた営業部にいた間は、抱えた案件や時間に追われてとても忙しかったけど仕事には凄く満足していた。やり甲斐を感じていたし毎日充実していたし、頑張ればその分だけ周りも私のことを純粋に評価してくれるようになってもいったから。
その代わりと言ってはなんだけど、プライベートの方はあまり充実していたとは言えない。でもそれを犠牲にしたとも思っていない。
会社に入ってから付き合った人は二人いたけど、どちらも私から好きになった訳でも無くて告白されてなんとなく付き合い始めた感じだったから、上手くいかなくて長く続かずに終わったのは当然のことだ。
俺と仕事とどっちが大事なのかとドラマの台詞みたいなものを言われたこともあって、ドン引きしながらうーん、仕事かなぁと答えて余計に揉めたこともあったような気がしないでもない。
私は誰かの恋人として過ごすよりも、仕事をばりばりこなして常に忙しく働いている方が楽しかったのだと思う。その状況に満足していたし、そのせいで恋愛が上手くいかなくても私は別にそれで良かったのだ。
そもそもの話、私は学生の頃から大体こんな感じだった。私から誰かを好きになるなんてことはなかったし続いても三ヶ月くらいだった。私の恋愛に対する情熱なんて大体がこんなものだった。まぁ、今までは。
こうして仕事に生きる日々を過ごして八年目、私に転機が訪れてしまった。
三十歳を迎えて少し経ったある日、いきなり私の左手の人差し指が曲がらなくなった。強張った感じがして無理に曲げようとしても第二関節が凄く痛くて曲がらなかった。
その突然の症状は次の日には治まって、暫く日が経つと今度は右の人差し指に現れた。それから次は膝、次は肩といった感じでそれを繰り返していくうちに、関節の痛みと強張りが現れる場所は日替わりではあったけど、それはついに常態化してしまった。
それでもその症状は寝起きが特に酷く、午前中から午後が過ぎていく毎に改善されていったので、私は何だろうなと思いつつも痛いだけで仕事に支障を来すようなことは殆どなかったし、忙しさにかまけてそれをあまり気にしないようにしていた。
でも、その症状が次第に全身の関節に広がって、全ての指や手首、肩、そして肘、更には膝や足首も痛くなっていった。
症状が出始めてから四ヶ月ほど経つと、いよいよ何かをしっかりと握ることや歩くことにも支障を来たす痛さになってしまった。痛みで指に力を入れられず、膝が痛くて堪らなくなって階段を下りる時なんかは特に辛くなっていた。
流石に不安になったので医者に行って検査をした結果、膠原病の一種、関節リウマチだと判明した。
膠原病という音だけを聞くと、高原と被って何か爽やかな緑と風を想像しちゃって何だかよくわからないなぁ、なんてその時は思ったものだ。
余談なんだけど、その時私に検査結果を伝えた若いクソ医師が、もうゴルフは出来ないねぇ、残念だねぇとか言ってにやにや薄ら笑いを浮かべていた。
「何か可笑しいですか?」
「え?い、いや別に」
「そうですか。何か嬉しそうだったので。因みに私はゴルフはしません」
私の言葉にクソ医師は慌てて検査結果の出ている画面に顔を向けてぺらぺらと説明をし始めた。
そのクソ医師の背後に立っていた看護師の女性が笑顔で私に向けてそっと親指を立ているのが目に入ってきて、この人もクソ医師の扱いに苦労しているんだろうなと思ってにっこり笑顔を返しておいた。
その軽いドクハラみたいなものを受けた私は、検査結果を渡して貰って直ぐに病院を変えた。
私はこの病気を機にこれからを考えることにした。痛みが消えて体調が戻るにしろそうでないにしろ、この病気とは一生の付き合いになる。クソ医師からそう言われた時は流石の私もそれなりに落ち込んでしまった。
病気自体もさることながら、出来ていたことが出来なくなったり、やりたかったことをやれなくなってしまう。それが私を落ち込ませたのだ。
それもあって私はもう今までのようにばりばり働きたくはなくなった。出来るかわからないし、忙しさと病気だけでこれから先も過ごしていくのはとても無味な気がして休みたくなった。
それは会社を辞めるとかではなくて、もう少し緩く仕事をして、心身共に余裕を持ちたいなと思ったから。
だから異動願いを出したけど、私を営業部から出す出さないでひと月ほど揉めてしまった。前述の通り私は優秀だったから。それでも私の異動願いは受理されて、引き継等に二ヶ月程かけて管理部門にやって来たという訳。
今は月に一度の通院と一日薬一粒で痛みも強張りも殆ど無くなって、仕事にも日常生活にも支障を来すことなく過ごすことが出来ている。体調によっては症状が出る日もあるはあるけど、それも減ってきていると感じている。
幸い早い時期から治療を始めたので、かなり軽い症状で病気を抑えることが出来た。完治することはなくても薬で上手くコントロール出来てさえいれば、病気を抑えて軽い症状のまま生きて行けるらしい。
だから発症してしまったことはともかくとして、そういう意味では私はラッキーだったと思っている。もっと酷い症状の人も大勢いるんだから。
ただ、私の症状だって今は良くてもこの先どうなっていくのか分からないから、そのことに不安がない訳じゃない。それにこの病気から派生してしまうかも知れないまた別の病気があって、お願いだからそれにはなりませんようにと毎日祈っていたりもする。
それと、病気になって考えたことがもうひとつふたつある。
それは結婚と出産について。
以前はこんな私でもきっとそれなりの恋をしていずれは結婚するんだろうなと漠然と思っていたけど、病気を抱えてしまったこの私に今更いい出逢いがあるとは思えない。
それにいくら恋愛と結婚は別だからと言って、いずれ歳を取って病気を抱えたまま孤独に生きて行く寂しさを想像するともの凄く怖いことを理由に結婚をしたがるのもどうかと思う。
そうかと言って、今から婚活を頑張って良い相手を探して好きになって、相思相愛、幸せいっぱいな結婚生活を目指すとなるとそれもちょっと違う気がする。
だって、恋は始めるものじゃなくて落ちるものだから……とか言ってみる。
……なんかごめんなさい。
こうして自身の結婚を茶化し、半ば諦めて半ばどうでもいいと思う理由は、私が子供をつくらないことに決めたからというのもある。
薬が胎児にもたらす影響を考慮する必要もあるけど、それとは関係なく、私は膠原病になってしまうような私の決して良いとは言えない遺伝子を私の子供や出来るであろう孫、そして更にその先に続く子供達に伝えたく無いなと思ったのだ。その内の誰かが発症するかも知れないと思ったら、何とも言えない嫌な気持ちになってしまった。
未来のことは分からないし、私の気にし過ぎかも知れない。でも未来のことは分からない。どう転ぶかなんて誰にも分かりはしない。
だからこその選択だから、どうか私のこの選択を生産性がどうだとか少子化がどうだなどと子供を産むことや育てることを数値で表すように責めないで欲しい。
私にはこの病気と遺伝の因果関係はよく分からない。でも、それがあり得ないという確証が無い以上、私の遺伝子は私で終わりにする。それが一番いい選択なんだと私は強く思っている。
だから私は子供を産まなくても何か言われにくい歳、四十歳を過ぎるまでは結婚はしないつもりでいる。
そうは言ってもあくまでそのつもりなだけの話だから、実際にその歳になって結婚出来るのかと言われるとそんなことは思っていない。
だってさ、四十過ぎの病気を抱えたこの私と結婚したいなんて思う人がいるとは、私にはとても思えないから。
でもそれも私の選択故だから、私はそれを受け入れるつもり。
「んっ。平気。まあまあ落ち着いてるよ。まだ強張る日もあるけど、痛みは殆ど出なくなったから」
少々濃厚なごまと味噌を、刻んだしその香りがさっぱりとさせている汁を堪能しながら美和ちゃんと向かい合ってうどんを食べていると、美和ちゃんが私の体調を尋ねてくれた。
私が少しの痛みと強張りをおくびにも出さず両手をにぎにぎしながら答えると、美和ちゃんはよかったです言って微笑んでくれた。
私は隠しているつもりだけど、美和ちゃんは今日は私の体調がいまいちなことを分かっている。だから今の言葉は私の意を汲んだものだ。私はそれがとても嬉しい。
「うん。ありがとう。薬を飲んでいれば大丈夫だから」
私の周りには今も顔を合わせる度に大丈夫かと声を掛けてくれる人達がいる。正直に言ってしまえば、今も偶に辛い時もあるけど、この病気になって二年近くになるし症状も落ち着いて来ているから、それをありがたく思う反面少し鬱陶しく思うこともある。
それを知ってか知らずか美和ちゃんはあまり尋ねてこない。でも美和ちゃんは知っている。私はその気遣いをありがたく思っている。
「辛かったら言ってください。私に甘えて良いですから」
「ありがとう。そうするよ」
普段よりも少し踏み込んで来た美和ちゃんの言葉に、私はまた嬉しくなって自然と笑みが溢れてきた。
「な、なるとなら…くっ」
「うそうそ。ふふふ」
ナルトをくれることすら悔しそうにした美和ちゃんは、その後凄い勢いで鍋焼きうどんを食べ出した。海老天を一気に頬張ってから、ナルトを口に詰め込んで、ついでにうどんを啜っている。
私からすると詰め込んだら味も何もよく分からないだろうなと思うけど、もりもり食べている美和ちゃんを見るのはやはり楽しい。
「美和ちゃん。取ったりしないからゆっくり食べて。今のは冗談なんだから」
「ふぁい?」
「ううん何でもない。此処のうどん美味しいよね」
海老天の尻尾を器用に口の横から出してうどんで頬を膨らませた美和ちゃんがうんうんと頷いている。
そんな美和ちゃんを見ていると、胸がちくちくして苦しくなってしまう。でもほんわかと暖かい気持ちにもなってくる。今こうして過ごしていることが、朝から帰るまで隣に美和ちゃんがいる日々が、私にとって何だかとても大切に思えるようになっている。
「もう。穂乃香さんたら」
うどん屋の席を立つ前に、美和ちゃんが私の名前を口にしてくれた。私がそれを指摘すると、美和ちゃんはそれをさらっと誤魔化した。
美和ちゃんは私がそうして欲しいと言っても丁寧な口調をも止めてくれないし名前で呼んでもくれない。その美和ちゃんの態度は性格的なものもあるのかも知れないけど、私には何となく美和ちゃんが自ら望んで壁を作っているようにも思える時がある。
でも、私がその壁の存在を気にすることなくどんどん乗り越えていくと、美和ちゃんのどこか頑なな態度が偶に崩れることがある。
私はその時、私達の距離がまた少し近づいたことにとても嬉しくなってしまう。そしてもっともっと美和ちゃんに近づきたいと、傍に居たいと欲が出て来てしまう。
きっと私の病は重症なんだなと、そう思う。
お気付きでしょうか?
私はここ半年くらいなんかおかしい。なんかおかしいなんて言っても、本当はもう分かっているんだけど。
私は美和ちゃんに好意を抱いている。こんな気持ちを同性に抱くなんて本当に驚いた。まさに青天の霹靂というヤツだ。
でも私は特にはそのことを悩まなかった。私がその当事者になるとは思わなかったけど、こういう恋もあることを知らない訳じゃない。それにこうしてこの気持ちを素直に受け入れてみると、私が美和ちゃんを好きなことが至極自然なことのよう思える。
だから私はこの気持ちを否定しない。
それは私の今の状況がそう思わせているのかも知れない。病気とか将来とか年齢とか、色々と不安が無い訳じゃないから誰かに甘えたいだけなのかも知れない。
でも、それ以上の気持ちでも、その相手がいつも隣いて私を色々気遣ってくれる美和ちゃんでもいいんじゃないかなと思う。
同性に恋をした。それに気付いた時、私はその気持ちを誤魔化そうとも思わなかった。ましてや否定的な感情すら湧いてこなかったから、それならいいと思って私はこの気持ちを素直に受け入れた。
だってほら、恋は始めるものじゃなくて落ちるものだから。
私の好きは私の心の赴くままだ。決して誰にも何にも縛られることはない。
だから私は私の中でだけ、この気持ちを大切にしておくことに決めた。
私はこの気持ちを美和ちゃんに伝えることはしない。
だって私達は女性同士だから、もし伝えたりなんかしちゃったら絶対に美和ちゃんを困らせてしまうし、嫌われてしまうから。私は美和ちゃんには嫌われたくない。それだけは絶対に嫌だから。
私はまだ聞いたことはないけど、その内に美和ちゃんから恋の話なんかを聞くこともあるだろう。彼氏がいるとか出来たとか結婚するとかそんなことを。
私はその時にこの片想いを終わらせるつもり。それまではこのままでいたい。美和ちゃんの隣に居られる今を、私は大切にしたい。私はそれで十分。私はきっとそれでいい。
私の中でだけの恋とは言え、私は最近とてもうきうきした気分を味わっている。
その気分を味わいながら、私は隣を歩く美和ちゃんにもう少し近づいてみる。美和ちゃんはいつものように少し戸惑っているみたいだけど離れようとはしない。そのことに甘えて距離を保ち、そのことに満足する。
私のこうした行動にキョドっている美和ちゃんは本当に可愛い。
私は半年かけてこの距離を手に入れた。気持ちを伝えられないのなら、せめてこの時間が出来るだけ長く続いて欲しいなと、そんな願いを抱きながら私は今日も美和ちゃんの隣を歩く。
「美和ちゃん大好きだよ」
私は小さく呟いてみる。
私のほんの小さな呟きは、すぐさま街の喧騒に掻き消されていった。
そして私は、美和ちゃんが私の呟きに応えてくれることは決して無いだろうなと、それを切なく悲しく思いながら、もう少しだけ近づいてもいいかなと、そっと身体を寄せていく。
「ん?」
もっと近くに寄ろうと思ったのに、すぐ隣に居た美和ちゃんの気配がなくなったのを感じて右側に視線を向けると隣を歩いている筈の美和ちゃんがいない。
なんでと思って美和ちゃんの姿を探して振り返ってみると、数歩後ろで呆然と立ち止まって私を見つめている美和ちゃんがいた。
私は不思議に思って美和ちゃんに近づきながら声を掛ける。
「どうかしたの?」
美和ちゃんは目を閉じて大きくひと息ついた後、少しはにかんだ顔をして私を見つめながら一粒の涙を零し柔らかく微笑んだ。
「聞こえちゃいました。私も好きですよ。穂乃香さん」
言われた言葉に今度は私が呆然としてしまった。
それからはっと我に返って、それはつまり、私の想いが伝わったと思っていいんだよねと、もう一度ちゃんと私の想いを口にしようと思った瞬間、美和ちゃんは急に顔を真っ赤にしてぷいと横を向いてしまった、と思ったまた次の瞬間、美和ちゃんは、あっ、わわ、わ、私先に戻りますとか言ってあっという間に走り去ってしまった。
「なっ、ちょっ。あ、あれ?」
私は美和ちゃんのその行動に呆気にとられ、少しの間その場から動けなかった。
……何でこの大事なところで急に居なくなるかな。
まったくさぁ、ここはふたりで喜びを分かち合うところじゃないの?
これはもう、こんな嬉しい出来事をふたりでわかち合う時間も与えずに私を置き去りにしたことを午後中ずっととっちめてやらなくちゃいけない。
私はにやにやしながら美和ちゃんを追って歩き出す。
焦らなくても大丈夫。美和ちゃんの居る場所がどこかなんて、私は当然分かっている。美和ちゃんの居る場所はいつも変わらぬ私の隣の席だから。
これから先、私達がどこに向かって行くのかまだ全然見えてこないけど、突き詰めてしまえば結局辿り着く場所は、幸せになるかそうじゃないかの二つだけだ。
私達はきっと上手くいく、筈。
大丈夫。私達はなれる。きっと幸せになる。
とは言え、先ずはもう一度気持ちを確かめ合いたい。私は少しだけ足を速めて歩いて行く。
浮かれている今の私には、膝の痛みなんてこれっぽっちも気にならない。
読了お疲れ様でした。短編としては長かったでしょうか?
懲りずに続きとして行方2を書くつもりでいます。
また見つけて読んでくれたら嬉しいです。
読んでくれてありがとうございました。
しは かた