《草を食べるな》一章
――最初は本屋のアルバイトだと思っていた。
区画整備によって日増しに景観が変わっていく駅前、俺はその大通りから一本、細い路地を入ったところにある本屋の前で思案していた。
色あせた『野毛書店』と書かれた看板と、塗料が剥がれて錆びついている雑誌ラック、今では珍しい手動の引き戸、最近めっきり見なくなった個人経営の本屋で、店頭のガラスには褪せた張り紙が貼られていた。
《急募、日給一五〇〇〇円、連絡お待ちしています》
そんな詳細も電話番号すら書かれていない簡素な掲示物に違和感と好奇心を刺激された俺は足を止めた。
こんな閑古鳥の群れが鳴いていそうな小さな本屋にそんな金額を出せるのだろうかという疑問が湧いたのを端緒に、もしかしたら長時間拘束されるような黒い勤務体系なのではと疑い、更にはきっと裏で非合法のアレを売っていて、その雇われ店長を募集しているのではないだろうかと想像が跳躍したところで、不安が勝った。帰ろう。
しかし早急に次の仕事を見つけなければという焦燥感と、いつまでも朝食が気の抜けた炭酸飲料と賞味期限切れのパンでは流石に人間としてどうなのだろうか、という自問自答が、その一歩を踏み出させた。
カラカラと小気味良い音が鳴る引き戸を開けると入店を知らせるチャイムが店内に鳴り響いた。緊張感が張り詰める静寂とコンクリートむき出しの床、ホコリの被っている一昔前のコミック、日焼けした専門書、小さな本屋に飽和している独特の空気に背中を押されながら奥へと進むと、レジには一人の若い女性店員が――
スマホ片手に座っていた。
ウェーブ掛かったメッシュブラウンの髪、ショッキングピンクとラインストーンに飾られた爪は長く、そのまま武器にもなりそうだった。
「あの……」
「ちょっと待って」
ボーダーワンピースにデニムジャケット、レジ横に投げ出された赤のロングブーツという寂れた本屋に似つかわしくないギャルギャルしい格好の店員は、しばしの後、
「なに?」
と、長い睫毛の隙間から俺を見つめた。
「外の張り紙を見たんですけど……」
「へっ? どこの?」
俺が先の張り紙を指さすと、彼女は訝しげな表情を浮かべた。
「読めたの?」
「まぁ色褪せていましたけれど、一応は……」
彼女は長い爪を携えた指で器用にスマホの操作を終えると、レジの後ろに向かって声を上げた。
「おばちゃーん、張り紙を見たって人が来てるんだけど」
レジの奥、おそらく居住スペースになっているのであろう空間から女性の声が聞こえ、しばらくすると一人の初老の婦人が姿を現した。
白髪に灰色のカーディガンが良く似合うスラっとした女性で、銀縁の眼鏡を掛けている。
「どうしたの?」
「だから張り紙を見たって人が来てるの、ホラ、探してたでしょ? 例の」
上品な婦人は俺の方を見て、少しの間を置いて目を丸くした。
「この方がそうなのかしら?」
「いや、私に聞かないで彼に聞いたら?」
ギャル店員はその鋭い爪を俺に向けた。
「あら、そうよね」
典麗な笑い方をする婦人は俺を見て、
《貴方が表の張り紙を見たのかしら?》
落ち着きのある優しい声で尋ねてきたので頷くと、二人は顔を見合わせた。
「ね?」
「本当だわ。でも良かったわ、思ったよりも早く見つかって。それも男性なんて素晴らしいじゃない」
「……あの、どんなバイトなんでしょうか?」
「そうね。興味があるのでしたら、どうぞこちらへ」
婦人は本屋の奥にあるリビングと言うより居間といった方が正しい場所へと俺を連れて行くと、高級そうな紅茶と菓子を出してくれた。
そして軽い自己紹介と世間話の後、婦人は本題を切り出した。
「今ね、子供の世話をしてくれる人探しているのよ、シッターって言うのかしら?」
「ベビーシッターって事ですか?」
「赤ちゃんでは無いんだけれどね、九歳から一六歳までの三姉妹なの」
……三姉妹。
俺の怪訝そうな表情に婦人は、ティーカップに立つ湯気の向こう側で微笑んだ。
「そんな不安げな表情をしなくても大丈夫よ、もし無理そうなら辞めてもらっても構わないから。あと慎吾くんはご兄弟とかいらっしゃるかしら?」
「あ、はい、妹と弟が居ます」
「それなら問題ないと思うわ。お兄さんなら年下との接し方をわかっているでしょう?」
まぁ……はい。
未知なる仕事ではあるが、日給一五〇〇〇円という魅力的な報酬。俺は婦人の話を聞きながら月給を計算していた。
……試してみる価値は、十分にある。
「そういうことでしたら」
「あら嬉しいわ。それじゃ決まりね」
婦人は微笑みながら両手を合わせた。
「この後、お時間あるかしら? よかったら今日からでもやって欲しいのだけれど」
「え? いきなりですか? まだ仕事の内容とかまったくわからないし、履歴書とかそういう書類が必要なん――」
婦人は俺の言葉を制すると、居間の引き出しから封筒を取りだした。そして整った綺麗な文字で『川津慎吾様』と書くと、その封筒を手渡してきた。
「あの、これは?」
厚みのある封筒の感触を確かめながら尋ねた。その内容物は感覚的に推測出来ていたが、どうしてこのタイミングで……。
「一ヶ月分のお給料ね、先に渡しておくわね」
「いや、でもまだやるか決めた訳じゃ――」
「それでもいいのよ、貰っておいて」
「いや、でも……」
彼女は笑顔のまま首を振ると封筒を持つ俺の手を優しく、そして力強く握った。
この人、柔らかい物腰ながらしっかりしている。この時点で俺は最低でも一ヶ月間はこの仕事をやらなくなってしまったのだが、指に伝わる紙幣の生々しい感触は悪くない。
「ちょっと待っていてね。サキちゃんっ、ちょっと来てくれないかしら?」
婦人が呼ぶと先ほどのギャルが顔を出した。
「この子はサキちゃん、歳は二三歳だから、慎吾くんの三つ下かしら。これから貴方を彼女たちの家まで案内してくれるわ」
そんな彼女の言葉にサキは面倒くさそうにバッグを振った。
「ええー、これから遊びに行こうと思ってたんだけど」
「そう言わないで。慎吾くんにはまだ何も伝えていないから、ゆっくり、しっかり、理解してくれるまで説明してあげるのよ? いい? ゆっくりと、しっかり、ちゃんと説明してあげるてね?」
婦人の念押しに俺はそっと息を吐いた。
そんな理解できないような程のワケ有りで複雑な環境なのだろうか……まぁ、そうじゃなかったら見ず知らずの男に三人の娘を預けたりしないもんな。不安が増す。
「はいはい、わかりました。じゃあすぐにでも行こうよ」
サキの後に続いて本屋を出た時、婦人がビニール袋を持って追いかけてきた。
手渡されたその袋の中には油と人参やジャガイモ等の野菜、甘口のカレールーと共にプラスチック容器に入れられたご飯が入っている。
「慎吾君はカレーライスって作れるかしら?」
「得意ってわけではないですけれど……一応は」
「それなら良かったわ。この中に具材が入っているから、彼女たちに作ってあげてね。ご飯は湯せんすれば良いし、まずは胃袋を掴むことが肝心だから」
ずっしりと重いビニール袋を手渡した婦人はそう俺の肩を叩いた。




