《つかの間の平和》二章
牛頭の大塔を出た直後、花の香りが俺を包み込んだ。
それは、どこかで嗅いだことのある涼し気な香りで、周囲を見渡すと正門前の柱から薔薇のマスクが少しはみ出している。
「……ニナちゃんだよね?」
俺が後ろから声を掛けると、彼女は小さな悲鳴をあげて身体を硬直させた。
「ごめん、驚かせるつもりは無かったんだけど……」
「あ、いえ、あの、私は、あの――」
何故か彼女は困惑している様子で、マスクから覗く綺麗なヘーゼルの瞳が泳いでいる。
「牛頭の大塔に用事?」
「あ……いえ、その、べ、別に慎吾さまを付け回していたわけではなくて……いや、あの、先週からずっと渡したい物がありましたので、機会を伺っていたといいますか……」
……まさか、ずっと後を付けていたのだろうか。
そして俯いていた彼女が顔を上げると、「えっ!」と声を上げた。
「え? なに?」
「…………きず」
そう彼女はすっかり癒えた俺の首を見つめた。
「ああ、これ? ついさっき、治してもらったんだ」
「そうですか……」
何故かニナちゃんは肩を落とした。
「どうしたの?」
そう尋ねた直後、鼻を啜る音が聞こえたと思ったら彼女は急に声を上げて泣きだした。
「ええええええっ!?」
マッタク意味ガ、ワカラナインデスケド……。
夕時の空へと響く嗚咽、石畳に伸びる震える影、牛頭の大塔の警備兵達が訝しげな視線で俺を見ている。
「なっ、どうして?」
薔薇の隙間に涙の跡が広がると、彼女はヒグヒグと肩を震わせながらマスクを脱ぎ、レースのハンカチで涙と鼻水を拭い始めた。
「ナンデ?」
そう尋ねると彼女はローブの中から小さな小瓶を取り出した。
「あ、あの、慎吾、さまに、ズズッ……私が、いつも……うっ……ズビー、使っている、傷薬を……渡そうと思って……持って、うぅ……持ってきたんですが、必要ない――」
「ありますあります」
俺は食い気味に答えると、ニナの手に握られている薬瓶を取り上げた。
「……ほえ?」
「必要、あります。ホラ、俺って料理をする時に切り傷を作るから必要なのです。だから、これはありがたく貰います、どうも、ありがとう」
その言葉に彼女は涙の残る瞳を細めて頷いた。
「良かった……」
直後、ニナは膝から崩れ落ちそうになり、俺は慌てて手を伸ばした。
「ごめんなさい、安心したらつい……」
腕の中で薄い身体が微かに震えていたので彼女を近くのベンチに連れて行くと座らせた。
「はしたないところをお見せしてしまってごめんなさい……」
ニナは鼻の下にハンカチを当てながら、ペコリと頭を下げた。
「いや、気にしないで大丈夫だよ……ちょっとびっくりしたけど」
「あの、その薬はとても良く効きますので使って下さい……」
「そう言えばニナちゃんも使っているって言ってたけど」
「ええ、私は自分の体が傷つくのが……その、とても好きなので」
ニナは頬を染めながら下唇を噛んだ。
……そんな予感はしていた。
ルイと真逆のタイプの魔女だ。
「あと、もう一つ、お話したいことがあって」
ニナはそう言うと俺に向き直った。
「話って?」
「ええ、ザルガ叔母様のことです」
……ザルガおばさま?
「あ、えっと、コトの拷問官をやっている方で、私のお母様の妹に当たる女性です」
「ああ、あの【二輪薔薇髑髏】の?」
「そうです、慎吾さんを拷問した人です」
思い出すと喉や手首に痛みは走りそうで、思わず手首を擦った。
「その……ザルガ叔母様がどうしたの?」
俺の言葉を受けてニナが瞳を見開いた瞬間、彼女の影から無数の子蜘蛛が這い出した。それはニナの暗部から沸き上がる負の意思が具現化したものだった。
そして鈍い歯軋りの音が響いた直後、ニナは立ち上がった。
「慎吾さんが望むならザルガ叔母様を殺します」
一段とトーンが下がったニナの声。
……ん?
聞き間違いだと良いんだけど、今、殺すって言った?
「あの――」
聞き間違いだよね?
「どうやって殺せばいいですか? ゆっくりですかか、じっくりですか?」
言ってたわ。
「いや、俺は……というか、なんで叔母さんを殺さなくちゃいけないんでしょうか?」
「慎吾さまを苦しませたからです」
「そうは言っても……」
俺がそう顔を上げるとニナは目尻を痙攣させながら、沈まんとしている太陽を見つめていた。整った顔が夕日に染められている。
「あのー、ニナちゃん? 聞いてる?」
「私には理解できませんが痛みは多くの人にとって苦痛だと聞きます慎吾さまもそうだったのでしょうその様な重苦を与えたザルガ叔母様にはそれ相応の苦しさを味あわせてやらなければ私の気も収まりませんしそれだけの因果もありますいいんです私は昔からあの女が嫌いでしたし居なくなればと思った事も一度や二度ではありませんからそもそも拷問官というのは人の苦しみを糧にしている職業ですから自分に返ってきもそれは摂理と言えるでしょうウフフそうですね手始めに四肢切断から塩の海へ漬け込んで時間の凝縮から発せられる憎悪の言葉と極限まで広がる激痛によって肺が収縮する際に溢れる鎮痛なる旋律を薄暗い部屋に響かせてフフ千本釘と火鼠を使ってからはらわたが焦げ臭い匂いを放つように踊らせてもちろん眼球は最後のお楽しみということで薄れゆく意識の中に鮮明な奈落を焼き付けて――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってっ! ニナッ、その口、止めて? ね?」
「……………………」
「よし、それでいい。いい子だ」
「更にザルガが大事にしている頭骨蟲を全て掻っ攫って投入してやりましょうまさか自分の霊獣に脳内を喰い――」
「ホントにとーめーれー?」
俺はニナの口を手で塞ぐと、大きな溜息を吐いた。
「俺は大丈夫だからっ! ザルガ叔母様も自分の職務を全うしただけで、悪気があったわけじゃないんだからさ」
「ですが――」
「ほんとに平気だから。確かに直後は怖かったし、理不尽な拷問に怒りが湧いていたけど、今はもう落ち着いたから、だから、ね?」
ニナが小さなため息をつくと指の隙間を湿った吐息が過ぎていった。
「わかりました……取り乱してすみません」
「いや、良いんだ」
「でも、もし殺したくなったら仰って下さい。私が呪術でヤりますからっ!」
今日の皿洗いは私がやりますから的な軽い口調だった。
「というか、ニナちゃんて呪術を使うんだ?」
話を転じる機会を探っていた俺は咄嗟に尋ねた。
「あ、そうなんですよ。お母様が薦めてくれたので……。どうやら私は感情の起伏が激しいようで、強力な呪術を使えるだろうって」
……ああ、わかる。すごくわかる。
「俺も知り合いから呪術を薦められたんだよね」
「うわー、本当ですか? 一緒ですね」
輝きを取り戻したニナの瞳に夕時の陽が揺らいでいる。
「もし良かったら私が呪術について教えましょうか?」
「いや、でもまだ呪術でいくとは決めていないっていうか……そもそもまだ魔力が開化していなから、どれを使うっていうレベルでも――」
「私の屋敷にちょうど使っていない大広間があるのですが、そちらで呪術の練習をしましょう。その大広間は本来お母様に仕えている下僕を入れておく部屋なんですけれども今は使用していないですし、あ、使用していないって言っても下僕自体は何十人も居るんですけど、下僕如きに部屋を使わせなくても良いだろうとの判断で空き部屋になっているんです。それに防音設備も完備していますので、何でも出来るんです。ウフフ、練習が長引いてしまったら泊まることもありますよね? その可能性をすっかり忘れていました。今すぐ使用人にベッドを用意させますね。後は何が必要ですか?」
「……いや、特には無いと、思うケド」
「じゃあ早速準備を始めますっ!」
「おい、ニナ――」
彼女は短い呪文を唱えた直後、黒い霧となって姿を消してしまった。




