《マリエスマリフカラム》六章
兵舎の入り口で自分の荷物を奪うように受け取ると、手首を労りながら外へと出た。
五日ぶりの眩しすぎる太陽、その傾きから夕時である事がわかる。
ようやく世界に色が戻った。思わず目頭が熱くなる。そして鼻水が傷口へと達すると痒みにも似た痛みが輪郭を伴った。
そんな歪んだ景色の中にマスク無しのガロとルイが立っていて、その後ろにはシェイドとスゥ婦人、更にはストロガ家長女のニナの姿があった。
俺を見つけたガロは走り寄って来ると、悲痛な表情で手首と首に出来た傷を見つめた。
「それ……ねぇ……それ……」
目に涙を蓄えたガロの表情と、震えている華奢な指先を見た瞬間、さっきまでの恐怖は消え、強い悲しみが溢れてくる。
「ごめんな……」
様々な想いを含んでいる謝罪の言葉を口にすると、ガロは鼻水を拭いながら首を振った。
こんなにも狼狽しているガロを見るのは初めてで、居た堪れない気持ちになった俺が、
「血の腕輪と首輪だな」
そう精一杯の冗談を言うと、鼻をぷすぷすさせながらガロは抱きついてきた。
「心配したんだからっ! 本当に、心配したんだよっ!」
「おい、血が着くぞ。それお気に入りのローブなんだろ?」
その言葉にガロは胸の中で嗚咽を漏らした。
そんな彼女を見て、人は自ら測る事の出来ない他者の痛みにこそ強い不安を感じるのだという事を理解する。俺、そしてガロも、一つの悲しみを共有していた。
彼女の透き通るような銀髪に手を置くと、夕焼けのように赤く染まった。
「大丈夫だから、な?」
そう言ってもなおガロは俺の胸の中で肩を震わせていた。涙に鼻水も追加されて、もうタンクトップがズベズベである。
「ラヴィ!」
シェイドの声に振り返ると、そこには脇腹を抑えているラヴィが出てきたところだった。
「ちょ、シェイド、抱きつかないで、多分、肋骨が折れているから」
……またかよ、それもう折れるのがクセになってんだよ。
何故こうもラヴィの肋骨は災難にあうのだろうか。
もしかしたら何か甘い蜜でも出ているんじゃないかと、近づいてきたラヴィの横っ腹を軽く突いてみたが怪訝な表情が見られただけだった。
「ご無事で何よりです。ストロガ家に御二方がコトで拘束されたとの情報があったので、お節介ながらもこうして声を掛けさせてもらいました」
鼓膜をくすぐる声に頭を下げると、スゥ婦人がマスク越しに微笑んだ。
「あの、スゥさんが手を回してくれたのでしょうか?」
そんなラヴィの質問に彼女は首を振った。
「いいえ、もし力になれればと思って来たのですが、どうやら必要なかったみたいで」
この時、俺はスゥ婦人が謙遜しているだけだと思っていた。
だが、後にもう一つの大きな力が働いていた事を知る。
「本当に心配していたんですよ……」
未だに抱き着いているガロの頭の向こう側、ルイが落ち着きなくそう言った。
「ごめんな、ちょっとワケありでさ」
そう言うとルイは悲哀とも違う、なんというか少し嬉しさの混じった表情を浮かべた。
「いいんです、何も聞きませんから。それより――」
ルイは俺に近づくと、そっと俺の手を取り、自らの頬へと誘った。
「え? 急に、どうした?」
ルイのきめ細やかな肌を滑る手のひら、火照っている頬に真っ赤な筋が伸びると彼女は吐息を漏らした。
「……はぁ、これが、あぁ、ズィト様の痕なんですね? 」
そう濡れた瞳で俺の傷口を見つめている。
「あの、触っても良いですか?」
鼻から大きく息を吸い込んだルイは小さく震えた後、握っている手に力を込めた。
「は? 何を?」
「ん……傷口、です」
いや、流石に今触れると――
しかしルイは俺の返答を待たずして、華奢な指を傷に這わせた。
「ちょっ! い、そこ、痛いっ!」
「ああ、とても、綺麗……」
眼鏡の奥の瞳孔は開き、開いた口の端からは涎が一筋。
「おい、ルイ? 強く、触らないで……おふっ!」
「……動かないでクダサイ」
「ふぅっ、突くのもダメッ、というか舐めるなっ、吸うなっ、だめっ、齧るなっ!」
俺が慌てて腕を振りほどくと、ルイは恍惚とした表情で血の滴る口を拭った後、申し訳無さそうに、「あの、つい……」と、微笑んだ。
……つい、って。
その時、胸に重みを感じたので視線を下げるとガロは俺に寄りかかったまま寝息を立てていた。
「二日前から寝ていなかったんですよ」
……そうだったのか。
俺はガロを抱きかかえると、依然としてヨダレを垂らしながら俺の傷口を眺めているルイから距離を取った。
「そう言えばギィはどうしたんだ?」
その問いに、スゥ婦人が答えた。
「ギベットさんでしたらストロガ家で預かっています」
「なんか、色々とすみません……」
「お気になさらずに。トトアも喜んでいましたし、スネイル家とストロガ家には切っても切れない縁もございます」
そうスゥ婦人はニナちゃんと共に甘い香りを残して、ノバインへと帰って行った。
「じゃあ俺たちも帰ろうか。こんな街はもう懲り懲りだ」
俺の言葉にラヴィも脇腹を抑えながら頷いた。




