《マリエスマリフカラム》五章
薄暗い一室。窓は無く、湿った空気がもたらす重たい閉塞感が飽和している。
ここでは時間という概念は希薄だった。石壁に伝う水滴と自らの鼓動音だけが刻んでいる。ただ、ここに入れられてから少なくとも丸五日は経過しているだろうか。
泥の様な食事、簡素なベッド、一つのテーブルと二つの椅子、石の壁には《薔薇の瞳は全てを見る》と小さく彫られている。
弛緩した時間の中でやる事のない俺はラヴィと共に手に入れた情報の断片を再確認していた。大陸最大の企業である鉄蝸牛の所有する倉庫群『大棚』では大型飛行船が建造されていたが、その事実は秘匿されていて、警備も厳重だった。その飛行船は現在シンテイ各地とヘンリクスを往復している飛行船よりもはるかに大きい。
『マリエスマリフカラム』という謎の言葉……。
――情報は少ない。
部屋の中央には簡素な木製のテーブルがあり、俺は椅子に座りながらその木目を見つめていた。何もかも意味がわからない……それに、どうして俺達が拘束されなければいけないのだろうか。タンクトップにトランクス一枚という格好のまま椅子に座り、頭を抱えていると、突然、ドアが開いた。軋む音からしてかなり重厚なドアだ。
顔を上げると、そこには【二輪薔薇髑髏】のマスクを被った魔女が立っていた。
ストロガ家、という事は拷問官……ここで尋問が行われるのだという事実を理解すると奥歯がギリと鳴る。
彼女は両目に咲く真っ赤な薔薇を俺に向け、テーブルを挟んで腰を下ろすと全身の真っ黒な革のコルセットがギチと鳴く。扇情的な様相に戦慄を覚える。
「それではどうぞ」
彼女は触媒である二つの眼球を手の中でコロコロと転がしながらそう言った。
何があったのか、何をしていたのか? ただありのままを話せ、と。
……だが、言えるわけがなかった。
「黙秘は互いに得策ではないわね。貴方達がどうしてヘンリクスの自警兵に追われていたのかを話してくれれば、すぐに釈放になるわ、ね?」
そして十秒ほどの沈黙の後、俺が座っている椅子が微かに蠢いた。
――震える吸気、吐く息が揺らぎを伴う。
俺が顎を上げたまま固まっていたのは、椅子の背もたれから伸びた刺鉄線が喉元に絡みついていたからだった。
……い、いきなりかよ。
「痛みは誰にでも平等、人間でもね」
その濡れた言葉の直後、右手首にも刺鉄線が這いずり、鋭い痛みが全身へと流れていく。
思わず声が漏れると、連鎖して首にも痛みが襲った。
「一つの呼吸の積み重ねで生きている。ならば一つの呼吸の積み重ねが命を奪ってもおかしくないでしょう?」
静かな空間に彼女のより一層濡れた声が響くと右手首にも鉄線が巻き付き、そして一呼吸毎に首と腕の刺鉄線がゆっくりと、だが確実に締まっていく。
生ぬるい液体が喉を撫でると恐怖によって全身が震え始めた。
「んー? まだ喋りたくならないかしら? なら私の至福の時が長引くだけよ?」
帰りたい。今すぐに帰りたい。帰りたい。帰りたい。
「もう一度聞くわよ? 何故ヘンリクスの自警兵に追われていたの?」
椅子の肘掛に血が滲むと、そこにはスネイル家を示す『鼠と釘』の紋章が浮き出ていて、その下には《ズィト・スネイル》と名前が記されていた。それは以前、ルイが話してくれたスネイル家三代目頭首の名前だった。
「別に貴方が素直に話してくれると言うならば、これ以上罰しはしないわ。ただこの国はちょっとした大義が欲しいだけ。わかるでしょう?」
長い沈黙にそっと息を吐くと、激痛が悲しみを連れてやってきた。部屋の湿った壁には三匹の泥キノコが張り付いていて、俺の肺から搾り出される啼泣など気にもとめずキュムキュムと湿気の多い片隅へと向かっている。俺は曖昧な認識の中で、ただ三人の事を思っていた。俺が帰らない事を心配しているだろうか、ちゃんと朝食は食べただろうか。血生臭い現実からの逃避が、よりリアルな光景を薄汚れた石壁に創り出していたが、どうして自身の現状より三人の悲しむ顔を想像する方が辛くなるのだろう。今すぐに白状したかった。だけど俺が話せばシンテイはヘンリクスとの戦争になるかもしれない。それだけは避けたかった。それは単なる正義感ではなく、ただガロットやルイゼットやギィベットを危険な目にあわせたくないという人間的で身勝手な理由だった。俺たちの居ないところで戦争でも何でも勝手にやればいい。好きなだけ殺し合えばいい。俺たちを巻き込むな。
そんなエゴが俺を包んでいた。
カエリタイ。
「早くここから出たいのでしょう?」
彼女がマスクを半分ほど捲り上げると深紅の肉々しい唇が露わになり、その鮮明な色に現実へと引き戻された。プライドは薄皮のようなモノで、その直下には平穏な生活への哀願が眠っている。
カエリタイ。
彼女は椅子から立ち上がり、近づいてくると冷えきった手を俺の顎に当てた。
艶やかな唇と冷たい薔薇の瞳が向けられる。全身に鳥肌が立つ。
「この瞬間が、私の至福の時……痛みと平穏の間で、天秤が揺れて、揺れて、揺れて……ぱたん」
彼女の濡れた軟体が真紅の唇を割って現れた直後、顔を近づけると俺の下唇に噛みついた。
「んんんんんんんんんんっ!」
粘膜を通じて全身へを貫く激痛は腕、そして喉の痛みを加速させた。刻一刻と締まる鉄線。椅子の脚が床に放射状の根を張ると、あそびが無くなり鉄線が食い込んでくる。
タックトップには生ぬるい液体が広がり、肌に貼り付いた。
上唇を撫でる彼女の吐息は甘く、痛みは恐怖へと変わり、恐怖は悲しみに変わる。苦しかった。鼓膜に伝わる自身の鼓動が五月蠅かった。指先が冷たい。
そして、糸を引く真っ赤な唇が離れた直後、彼女は同色の舌で俺の唇を弾いた。
――ッ!
痛みが全てを凌駕する。顎を伝う液体が汗なのか涙なのか鼻水なのか唾液なのか、それすらわからない。極限まで引き伸ばされた一秒が、終わりのない世界を俺に見せ始めると、言葉が漏れ始めた。
「俺は――」
その時、部屋の入り口が開いて一人の兵士が入ってくると、拷問官に耳打ちをした。
しばらくの静寂の後、俺の両腕と首に巻き付いていた鉄線が消えた。
「釈放よ? よかったわね」
彼女は純白のハンカチで唇を拭いながら静かにそう言うと部屋を出ていった。
……何が、起きたのか、わからない。
……茫然自失の虚脱状態。
ただ、ただ自分の荒い呼吸だけが湿った部屋に響いている。
……にげよう。




