《マリエスマリフカラム》三章
デクダ・マリー寺院の上空には魔術を感知する《瘴気の壁》が展開されていた。牛頭の大塔でも見たことがある超巨大な防御円で、極光の様に揺蕩っている。更に監視塔にも常時自警兵が張り付いていたし、制御魔術である《徘徊する者》によって召喚された半霊が常に空を見上げていた。
だが、地下からの侵入する分には正にザル警備だった。
飛ぶことが当たり前の世界に現れた盲点。常識が産んだ死角。人間界において空からの侵入に甘いのと同じ理由だろう。
地図に記された下水道を抜け、中庭でと出ると俺は茂みの陰で地図を開いた。
……盗聴器を仕掛けた後は、この下水管の中で待機。
盗聴器から発せられる範囲は寺院内の分厚い壁を考慮しても百メートルが限度だ。
ヴィオレットが手に入れた情報によると、ヘンリクスの重鎮達は毎週決まった日に会議をするらしく、盗聴器を仕掛けてその会議が行われるまで隠れていなければならない。
それが今日の朝八時というわけだ。あと四時間ほどの猶予がある。
辺りは灰海から流れ込む冷たい空気の影響で随分と冷え込んでいたが俺は汗を拭った。緊張が妙な尿意を誘い、呼吸が浅く、早くなる。無理やり大きく深呼吸をして、茂みから議室の窓に近づこうとした瞬間、十メートル程先にある渡し廊下から声が響いた。
「そこにいるのは誰です?」
心臓が止まりかけた。全身が硬直した。ちょっとだけおしっこを漏らした。
……言い訳をさせてもらえるなら、その前に尿意を催す前段階があったからだ。段階的にバロメーターが上がっただけで、普段から――
そんな事よりどうする? どうする? どうする? どうする? どうする?
「誰ですか?」
そして急上昇を続ける尿意と心臓の痛み、沈黙が肌に刺さる、時間が凝縮する。
もう無理だ、人間は緊張が高まると肛門が意思とは無関係に動くのだとどうでも良い事を理解する。肺が、胸が、お腹が苦しい。
そして追い込まれた頭が導き出したのは、あまりにも稚拙な解決策だった。
「ニャー」
バカじゃないの? 慌てて口を手で覆った。
最大級の後悔をした時、声が返ってくる。
「レズリーですか?」
……ん?
「そこに居るのはレズリーですか?」
……お?
まさか、成功したとか?
「ニャニャニャ、ミャオ」
「レズリー、何を遊んでいるんです? 先に行きますよ」
おい、おいおいおいおいおいっ!
やっぱり成功しているんじゃないか?
完全に猫だと思っているよ、ハッハーッ! 馬鹿、ばか、バカめがっ!
……マジでやばかったな。
その男の影が消えると俺は一旦、下水道に戻って呼吸を整えた。
そして五分後、目的の部屋の外まで走ると、高さ一二〇センチほどの窓から部屋の中を伺い、人が居ないことを確認して窓を開けると、すんなり開いた……。
驚いたのでもう一度閉めて、再び窓に手を掛ける。
……やっぱり、開く。
ちょっと防犯意識がガバガバ過ぎやしませんかね。最近ようやく文化的差異からくる衝撃に耐性が付いてきたというのにこういう部分で驚いたりしている。ともあれ、他の侵入方法を試さなくて済んだのは幸いだった。
音を立てないように注意しながら室内に入ると、部屋の中央にテーブルがあり、六つの椅子に囲まれている。そのテーブルの上には精巧な飛行船の模型が飾られていた。
元々、誰かの部屋だったのだろうか、高級そうな衣装棚とベッド等が置かれていた。
早く盗聴器をセットして逃げないと。そう思って一つの花瓶を手にとった瞬間、部屋の外から足音が響いた。
「もう既に決まった事なので、そこは了承していただかないと」
誰かが部屋に入ってくる直前、衣装棚の中を覗き込んだが、そこに入るスペースは無く、慌ててベッドの下に潜り込むと、ただ息を殺していた。
「わかっているが、ただ……時期尚早だと言っているんだ。影を蓄えてからでも遅くはないんじゃあないか?」
どうやら男の二人組みのようだった。
俺はゆっくりとポケットに忍ばせてあるボイスレコーダーをオンにした。
「私もそれは理解しているつもりです。ですがクラーメル様に言わせると、『巧遅は拙速に如かず』らしいですよ」
……クラーメル。その言葉に俺はゆっくりと息を吐いた。
俺達と同じ人間の男だ。
「まぁそうだな。ならマリエスマリフカラム次第というわけか」
……マリエスマリフカラム? この世界の言葉か?
「ええ、早急に作業を進めています」
「そう言えばレズリーは来ないのか?」
「さっき中庭に居たんですけどね、また遊んでいるみたいですよ」
……あれ、もしかしてレズリーって奴は本物の猫じゃないのか?
「何をやっているんだよ、今は大事な時期なんだぞ?」
「まぁいいじゃないですか。それよりももう一つ面白い話があるんですよ。貴方を起こしたのはその為です」
「早くしてくれないか、俺は眠いんだよ」
その直後、ベッドの近くに一人の男が近づいてきた。足先はこちらに向いたまま止まっている。
「どうやら泥キノコが一匹侵入しているみたいなんです」
その言葉を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。
……俺に、気付いて、いるのか?
もう尿意は無くなっていたが、ただ絶望だけが溢れてきている。
「四ヶ月ぶりか。随分と久しぶりじゃないか? どこの所属だ?」
「実際に聞いてみればわかりますよ。シンテイかワニグか、それともまた別の国か」
「で、ソイツはどこに居るんだ?」
その問にベットの近くの男は――
「この下に居るんですよ」
そう魔術でベッドを持ち上げると、猫の様に丸まっている俺が居た。
「……ニャー」
「おや、泥キノコではなく、コソ泥猫だった様ですね」
男は不敵な笑みを浮かべて触媒を取り出すと、俺に《熱の暴走》という呪術を放った。
赤い霧が俺を包んだ瞬間、全身が熱を帯び始め、みるみる水分が抜けていく。吐き出す息は炎の様に高温で、視界が白く濁って――
そんな最悪の事態を想像しながら、俺は死を覚悟していた。
「どうやら泥キノコは大棚に居るようなんです。今しがた連絡がありました。僅かながら魔力の揺らぎを感知したらしいので人間の観光客が迷い込んだ可能性は低そうです」
……ラヴィ! 見つかったのか? 潜入は失敗したのか?
「じゃあ、ちょっくら俺も行ってみるかな」
「そうですね、では私もお伴します」
……失敗だ。
二人が部屋から出て行っても俺は動けないでいた。もう盗聴器など仕掛けている場合ではない。明らかな失敗だ。
ようやくベッドの下から這い出したのはそれから五分ほど立った頃だった。




