《空を飛べたら》六章
前半の座学が終わると、教室を移して実技の授業となる。教室を出る時、ギィに手を振ると彼女は恥ずかしそうに、控えめに手を上げた。
プリントを確認しながら廊下に出た時、柔らかい官能的な香りに呼ばれ、顔を上げると一人の女性が立っていた。
真っ黒なドレスにレースの手袋、【九輪薔薇髑髏】という禍々しいマスクを着けた女性は、俺に会釈をした後、ゆっくりと近づいてきた。
「ギベットさんの新しいお父様で御座いますか?」
耳に馴染む上品で端麗な声、彼女が放つ香りが鼻先を掠めると胸が高なった。
「えっと……父親というか、保護者? みたいなものです」
その言葉に彼女はマスク越しでもわかる笑みを浮かべた。
「そうでしたか。一度ご挨拶をしなければと思っていたんです。紹介が遅れましたが、私はストロガ家三十八代目当主のスクラバ・ストロガで御座います。主人を亡くしてからは、私がストロガ家を取りまとめています」
そう彼女は緩やかな軌跡を残しながら俺の手をとった。
……ストロガ家、代々拷問官を務める名家だ。
レース越しの青白い肌から伝わる仄かな体温に胸の鈍痛は熱を帯び始めて、自己紹介の声が裏返ってしまった。ボク ハ カワズ シンゴ ト イイマス――
「うふふ、慎吾というお名前なのですね。珍しい、人間の男性……」
俺は狂うほど愛しき花の香りに包まれていた。
「普段からトトアと親しくなさってくれているみたいで、本当になんとお礼を言ったら良いのやら。この間もニナとトトアがスネイル家にお邪魔させて頂いたと喜んでいました。本来なら、すぐにでもご挨拶に伺わなくてはいけなかったのですが……」
「そんな、あの、ウチのルイとギィも、えっと、仲良くさせて、もらっていますよ」
胸の鼓動が痛いほどに高まる。手には汗に加え、脈の鼓動が伝わっている。
「また招待してあげてください。ニナが慎吾様に会いたがっていましたから」
苦しい。
「えっと……ニナちゃんが、ボクに、ですか?」
肺から搾り出された空気が言葉を紡ぐ度に心臓が跳ね上がる。
「ええ、そうなんです。あの子ったら、フフフッ、どうやら人間の男性が気になるようで、毎晩、会いたい衝動を戒める為にイバラの上で石を抱いているんですよ。白い肌に流れる……真っ赤な血がとても綺麗で……ウフッ、若いって本当に素晴らしい事ですね」
「そ、それは早急に何とかしないといけないですね……」
「これからもどうぞよろしくお願いします」
ストロガ婦人が艶やかで粘りのある声を残して実習室へと飛んで行くと、俺は止めていた息を吐き出したが、未だに鼻と灰の粘膜が悦んでいる。
はぁ……あれがストロガ家に伝わるという媚香か、恐ろしい。シェイドに注意されていなかったら、一瞬で持って行かれていただろう。
『授業参観に行くなら、スゥ婦人には気を付けてね。彼女が使う魔術の残り香には、オトコを惑わす力があって《スゥの行く先には薔薇が咲き、後には灰が鳴く》って言われているくらいだから。悪い人じゃ無いんだけど、悲しい人ではあるのよね……』
ちなみに以前、スゥ婦人の香りをもろに吸ってしまったラヴィは、正気を取り戻すのに肋骨を二本犠牲にしたと言っていた。
……つくづくアイツの肋骨には同情する。
そして教室から少し離れた場所にある実習室で、ギィはトトアちゃんと組んで壇上に立った。
「これから、このポコラに」
あ、ポコラだったわ。
「…………花を、咲かせます」
二人は緊張した面持ちで『練成魔術』に属する《季節の緩怠》という魔術を使って見事に花を咲かせ、拍手を貰っていた。俺が一番大きく、長く拍手をした。
他の生徒がやった人をネズミに変化させる魔術やカエルを爆発させる魔術や卵を腐らせる魔術やお父さんを禿げさせる魔術より、ずっと素晴らしいじゃないか。
というかロクな魔術が無かったんだが、それでいいのか?
授業参観を終えた俺は、実習室の前でギィを抱き上げるとクシャクシャに褒めた。
「…………やめ、やめ」
と、抵抗していたギィだったが、その表情は嬉しそうだった。
そして参観を終えた保護者に一枚のプリントが配られた。
内容を見るにどうやら学年毎の小旅行が来月の連休にあるらしく、その連絡だった。
一泊二日(一部学年を除く)、遠足のようなもので、プリントに記された学年と行き先を指でなぞる。ガロットは……お、ノバイン郊外にある戦争博物館、しかも日帰りか?
えーと、なるほど、“一部の学年は試験勉強に時間を割くために日帰りとする”だってさ、あー、これ絶対に文句を垂れるぞ。
『博物館なんてツマンナイ、しかもノバイン? 日帰り? いつでも行ける距離じゃん』
……てな感じで。
ルイゼットの行き先はノバインの南にあるオガルトという町で、朽ち木の魔女が治める古き良き魔術師の故郷だった。生産数が少なくなったとはいえ老舗の貸ホウキ工房や、太古の侵略と拷問資料館があるらしく、ここならルイは喜びそうだ。
そしてギィベットは……と、おぉ、ヘンリクスじゃないか。低学年だからなのだろうけど、移動手段が飛行船って書いてあるぞ、これは絶対に喜ぶだろうな。
そうプリントを眺めながら学校を出た時、大正門の前にラヴィが居る事に気がついた。
「あれ? ラヴィ、どうしたんだ?」
俺は彼の肋骨に同情しつつ尋ねた。
「一緒に帰ろうと思ってね」
「急になんだよ、気持ち悪いな」
「そう言わないでよ。たまにはプライマリースクール気分でも味わいたいでしょ?」
「日本じゃ小学校って言うんだよ」
夕暮れの空に黒い塊がいくつも飛び交う中、俺達は港前の肺病み地区を歩いていた。
高層家屋の最下層である肺病地区にはひと気が少なく、不気味なほど静まり返っている。
「ほら、この前、開いている日を確かめたでしょ? 実はちょっとした手伝いをして欲しいんだけど、どうかな?」
簡素な路地に面した家の前には生臭い霧が立ち込め、泥キノコや火鼠が奇妙な鳴き声をあげていた。
「ああ、確かヘンリクスへ行くって話しだったよな? これから少し暇になるだろうし、手伝うよ」
「ありがとう、助かるよ。で、そのヘンリクスなんだけど――」
ラヴィはそう言うとヘンリクスについての説明を始めた。
ヘンリクスはシンテイと敵国であるワニグとの中間地点にある鉱山都市で、ここノバインからは首都であるコト、そして原生林である黒林を越えた先にある。
主要な産業は伝動石の輸出、更に東西両国の物産が行き交う市場を有していたので商業も盛んだった。故に現在は最も富の集まる都市として急成長を続けている。
またヘンリクスの中央に建てられ、装飾品としても使われる伝動石を至る所に散りばめた『デクダ・マリー寺院』を見るためにシンテイやワニグからの旅行者が多かった。
かつてシンテイとワニグは伝動石の主要産出地帯であるヘンリクスの利権を巡って戦争を繰り返していたが現在は永久中立地帯に制定され、どちらにも属さない中立都市となっている。そして黒林や灰海と共に重要な戦略地帯でもある。
つまりは北のヘンリクス、中央の黒林、南の灰海を結ぶ一帯が緩衝地帯としての役割を果たしていた。
「戦略バランスを保つ上で必要ってことか……」
ラヴィはホウキの柄で、灰病みの湿った地面にヘンリクスを頂点とする三角形を描いた。
「それにヘンリクスを挟むことで、両国にもメリットがある。互いの商人によって両国の物産が行き来するし、情報も入りやすくなる」
「そのヘンリクスがどうしたんだ?」
ラヴィは周囲を見渡した後、
「近頃ヘンリクスが独立に向けて動き始めている」
そう囁いた。
「独立って……緩衝地帯なんだろ? シンテイやワニグがそれを容認するのか?」
「いや、しないだろう。現にヘンリクスが自衛の為の軍隊を持ちたいと両国に打診してきた時、正式な国家ではないといった理由で退けられた過去がある。中立の弱者だからこそ富を持つことを許されているんだよ」
「でも……ヘンリクスもどうして独立なんてしようと思ったんだ?」
「少し前にシンテイとワニグの両国から制裁措置をとられてのは知っているかな? ヘンリクスが意図的に伝動石の産出量を粉飾していた件でなんだけど」
……そういえば少し前の新聞で報じられていたような気がする。
そして、ラヴィは三角形の頂点に左右へと伸びる矢印を付け加えた。
「ヘンリクスは伝動石の輸出によって莫大な黒字を生んでいるんだけれど、その額はシンテイとワニグによって定められているんだ。それと同時に水や食料の輸入で相当の赤字を生んでいる。周囲に鉱山と砂漠しか無いからね。そして最近、それを嫌う強硬派が勢力を伸ばしている」
彼は大きく息を吐くと話を続けた。
「この事から導き出される事は二つ、一つ目は伝動石の取引におけるイニシアチブを欲している、そして二つ目が――」
「……水や食料を他国から奪うって事か?」
俺の言葉にラヴィは「正確には土地を、だけどね」と、頷いた。
「別にここでは珍しい事ではないよ。シンテイもワニグも元を正せば侵略者だしね。他者から物を奪うという行為は摂理でもある」
そして、ヘンリクス独立の情報を真っ先に得たのは前線から最も遠いノバインを統治する港守の魔女、アデリアだった。ノバインには空軍の本拠地が置かれており、優秀な諜報員を要していた。魔女は間者でもある。
「アデリア様は統治者の中でも最も穏健派として知られているからね。それに戦争が起これば、ノバイン港が閉鎖される可能性だってある。そんなわけで極秘裏の工作で独立の機運を挫けないか模索しているってわけ」
「コトの上層部にも知らせていないのか?」
「そうだ。コトの軍部に察知される恐れがある以上、無闇にノバインは動けない。この事をコトの統治者である大魔導『ツアルト・ナイゼン』が知ったら確実にヘンリクスへ進駐するだろう。そうなると、ワニグも動かざるを得なくなり、八年ぶりの東西戦争に突入、いや、八年前とは違ってヘンリクスも交えた大規模な戦争になる」
「シンテイも一枚岩ではないってことか?」
「そういうこと。各都市が所有する軍隊は独立した指揮系統を持っている。国軍と言うより軍閥と言った方が正しいのかもしれない。そしてヘンリクスの動向を掴んでいるのは、おそらくノバインだけだろう」
おいおい、来月にはギィがヘンリクスに行くんだぞ?
ラヴィは肺病みの暗がりに視線を向けながら呟いた。
「そして、独立を焚き付けたのはクラーメルと呼ばれている人物で、僕達と同じ、人間界からやってきた者だ」
……人間。
「俺は何をしたらいいんだ?」
そしてラヴィが視線を向けた先から、肺病みの影を纏った一人の青年がやってきた。
「その件については私が話しましょう。場所を移してね」
【目玉灯籠】という奇妙なマスクを着けた彼は牛頭の大塔へ向かって歩き出した。




