水曜、夜。小人の庭園
ユーナが敷くことが出来る結界は、『点結界』に制限される。これは、緋製の呪具を一つしか持たない呪杖術士の宿命でもある。一方、緋針法は一本から数本までの緋針を使い分けるので『多角結界』に向いている。
一方、持力発現については、呪杖の方が緋針に比べて大きくなる。これは、緋鋼に通すことが出来る魔力量が、使われている緋鋼の量に比例するためである。
因みにまだ見習いでさえない館生は、所持出来る緋製呪具に制限があり、所持できる緋鋼の種類が決まっている。
緋鋼には、
第一の緋
第二の緋
第三の緋
と三種類ある。このうちプリマが最も高価で、魔力をそのまま通す。セクンダは、持力を純化する特性があり、発現形式に依らない発現が可能となる。『結界術』では、このセクンダを用いる。そしてテルティアはプリマの質が低いもので、見習い用。
館生が手にできるのは、セクンダとテルティアのみ。メーゼン橋で伯爵サマがブロンズ像を倒すときに使っていたのは、明らかにプリマの大剣だった。同じ館生であるレオンハルトが本来所持して良い物ではない。それを可能としているのは、術門の名門リッツジェルド家だからこそといったところか。あの大剣は伝家の宝刀なのだろう。
それはともかく。
今回ユーナが実験するに当たって問題となるのは、緋鋼は魔力を通し続けないと、発現を維持できないという性質である。正確には、緋に通された持力は時間をかけて減衰するので、持力の供給を止めても効果が少しの間は継続するが、長時間の使用が想定される『結界術』では使えないと考えるのが一般的だった。
つまるところ、持力による点結界を用いる限り、術士が結界内に留まらなければならず、自分も封じ込められることになる。これだと幽霊と一緒に閉じ込められてしまうので、役に立たない。
確かに、複数の術士が集まって複数の呪杖で法円を描く大掛かりな『大結界術』も存在し、これを使えば弱点を克服できるが、今回はユーナ一人なので論外である。
という理由から、今回は介力を用いる必要がある。しかし、これはこれで問題があった。
ユーナは紋章法を学んでいるので、これを符術と合わせて介力を用いることができるのだが、ユーナが知っている符の知識では、介力による結界を長く維持できないのだ。彼女が使う紋章は紋の五十番と呼ばれる初歩中の初歩のもので、介力供給時間は五分程度。介力減衰時間を含めても六分程度。その間に仕掛けた点結界に幽霊がかかってくれる確率は、どれほどあるというのか。
「こんなやり方でほんとに捕まえられるのかな」
ユーナは自信無げに呟いた。
気分を入れ替えるために頭をコツンと叩く。
「ええい! 悩んでいても仕方ない。行動あるのみ!」
今までだって、そうやって生きてきたのだ。
ユーナが住まう寮は、『リーズ寮』と呼ばれている。その名が示す通り、リーズ侯爵家の持ち物である。もともと貴族の別荘として建てられたものを寮として改装したため、広大な庭園を持っている。薔薇園や大きな噴水がある一角に、リーズ寮生なら誰でも使える修練場もある。
有力な貴族は、大小の差こそあれ、たいてい寮を持っている。自領内で見つけた持力保持者を住まわせ、学館に通わせるためだ。もちろん慈善でやっている訳ではない。
保有する術士の数は、軍事力の観点で大きな意味を持ち、諸侯が平和裡に均衡を保っているこの時代にあっては、帝宮における発言権の大きさに繋がる。だから貴族は、術士を卵の内から囲い込むのだ。
つまり、リーズ寮の寮生は、学館修了後はリーズ家に仕官する事になる。
アンナはこの立場にある館生だ。
ユーナはというと、他の寮生とは立場が違う。なぜなら雇う側、つまりリーズ家の人間だからだ。だが、彼女はどこかに仕官するつもりだった。養女とはいえ貴族の娘という立場上、政略結婚しないわけには行かないが、せっかく学んだことを活かすことなく夫人になるのは嫌だった。
深夜二時――。
寮の庭園に出ると、近くのメーゼン川のせせらぎが耳に届く。
ユーナは、川岸を望める小さな庭、通称『小人の広場』に出た。ここは十二の小人の大理石像が広場をぐるりと囲むように置かれている。小人はそれぞれ平民階級の仕事の姿をしており、木こりがいれば花売りもおり、大工や魚屋もいる。どれも滑稽な表情や仕草をしているのだが、深夜の闇にぼうっと白く浮かび上がるそれらは、かえって不気味なことこの上なかった。
ユーナがこんな場所を選んだのは、三つ理由がある。
一つは、この小さな広場は幽霊の目撃情報が多いこと。もう一つは、遮蔽物がなく周囲を警戒出来ること。そして最後に、川沿いの立地で寮の建物から最も離れており、ちょっとやそっとのことでは周囲に気付かれないこと。
ユーナは地面に穴を掘って呪杖を立て、杖の先端に紋章を描いた符を結ぶ。
「フィアト」と起動呪文を唱えると杖が淡く発光を始め、法円が地面に浮かび上がる。
「よしっ」
あっけらかんと不気味に笑う給仕女の像の影に身を隠して、身じろぎせずに幽霊を待つ。
なんだろう……。
この状況に、既視感を覚えた。幼い頃、同じことをしていた気がする。思い出そうと頭を捻っていると、呪杖の光が消え、符が黒くなって消失した。
二枚目の符を取り付けながら、だんだんと記憶が鮮明になっていく。ちょうど、こんな風に餌を取り付けて、棒を立てて、その上に所々破れた編み籠を立てかける。
それは小動物を捕獲するための罠。
餌につられて獲物が来たら、棒に結んだ紐を引っ張って籠を落とし、捕まえる。
勿論、食べるためだ。
「そうか、そんなこともしてたっけ……」
思い出したユーナは、懐かしむというよりはもの悲しげな表情で呟いた。
今でこそ貴族の子弟として暮らしているが、幼い頃のユーナは浮浪児と言って良い生活をしていた。両親の顔は覚えていない。スラム街に育てられたようなものだ。男の子の格好をして同じような境遇の子ども達と徒党を組み、盗みを働いていたこともある。殺人や誘拐はしなかったとはいえ、今振り返ると、かなりの悪童だった。
持力が備わっていると気づいてからは、それを使って仕事をするようになった。夏の暑い日に氷を提供したり、大道芸人の真似をしたり、危険な用心棒紛いのことをしたりもした。そんな時に偶然出会ったのが、リーズの養父ザツィオンだった。
「ねえ、おっさん。あたしのこと雇わない?」
幼いユーナは、会ったばかりのザツィオンに問い掛けた。身嗜みの良さから見て貴族。見上げる程の高身長、身体つきはがっしりとしていて顔も厳ついが、瞳の奥に優しい光を宿している。
その光がユーナの興味を惹いた。
「君をかい? 傭兵にしては、小さ過ぎないかい?」
「でも、実力は見てくれたでしょ?」
笑顔でユーナが指差す先には、覆面の男が氷の檻に閉じ込められている。このおっさんがヤバそうな連中に追いかけられていたところを、持力術(もちろん、この時のユーナは持力という言葉を知らない)で助けてやったところだ。
「それは、もちろん、十分に判っているけどね」
「じゃあ、何が問題なわけ?」
ユーナは、困った顔で男に訊いた。
「ご両親は、どうしたんだい?」
「いないわ、そんなの」
「いない? 亡くなったのか?」
「らしいよ。顔も声も知らない」
おっさんの表情が少し曇る。
「もしかして、同情してる? それだったら、あたしのお願い聞いて欲しいな」
幼いユーナは、この男が人生の分岐点になると直感していた。だから、ここでこのおっさんと別れるわけには行かなかった。
「こんな可愛い女の子がお願いしてるのに」
少し色香を混ぜてみる。と言っても武器になっているとは本人も思ってはいない。何故なら多少可愛い容姿であっても、顔は泥まみれ、服はぼろぼろのみすぼらしい姿なのだから。
「あっはっは」
突然、おっさんがバリトンのよく響く声で笑う。
「いいだろう。判ったよ。君を雇うことにしよう。これからよろしく、小さい護衛さん」
ユーナは心の内では飛び上がらんばかりに喜んだが、そんな様子はおくびにも出さずに、
「こちらこそ、よろしくね」
差し出された大きくごつごつした手を握った。
――学館に旅立つ朝にユーナは、実は義父ザツィオンが彼女の大叔父であることを告げられた。
物思いから我に返ると、呪杖は既に光を失っていた。
「やっぱり、効率悪いな」
ユーナは、三枚目の符を取り替えながら呟いた。
視界に違和感を覚えたのはその時だった。
闇の中に浮かび上がる大理石像の間を、ぼうっとした白いものが移動している。それはユーナの方に、ゆっくりと近づいてくる。どうやら、アタリのようだ。ユーナは符を結びつけた呪杖を、それが移動する先の花壇に突き立てた。小人の像の後ろにしゃがみ込んで様子を窺う。あとは、符が効力を失う前に、それが杖の近くを通ることを祈るだけだ。
それは方向を変えることもなく移動を続け、やがて呪杖の法円の中に入る。
「よしっ!」
ユーナは叫んで立ち上がる。
その直後、激しい閃光が起こった。
時間を待たずに符が燃え尽きる。
幽霊が結界の界域と重なって干渉しあい、起こる現象のようだった。
「ダメだったか」
ユーナの呟きとほぼ同時に結界は完全に力を失った。
あとは幽霊が消失するだけ、のはずだった。
だが、白いそれは、いつまでも変わらずにそこにいた。
「ん?」
不思議に思って見つめていると、それは消失しないどころか、白さが濃くなっているようにさえ見える。
不意に、そよ風がユーナの頬を撫でた。その風は次第に強くなり、ユーナのパジャマの裾をぱたぱたと揺らし始める。
嫌な予感しかしない。こういう時の勘は良く当たる。子供の頃からそうだった。この場は逃げるのが最良の一手だった。だがユーナそれをしなかった。
術士の卵であるユーナは、何が起きているのか見極める必要がある。
こんな現象が自然発生するはずがないのだ。ユーナの持力属性は『水』なので、こんなことにはならない。つまり、目の前の白いものが元凶としか考えられない。
そうこうする内に、風はどんどん強くなっていく。
とうとう、木々は枝が折れんばかりにしなり、その葉は千切れて吹き飛ばされていくまでになった。
ユーナは立っていられなくなり、地面に這いつくばる。
もう一度、白いものの方を見る。それは暴風に散らされることもなく、厳然としてそこに存在していた。壊れやすいと言われている幽霊(厳密には魂)が、これほどの事象を引き起こすことが出来るものなのか。ユーナが学んだ知識では、理解の範囲を越えている。
風はなおも強くなる。このままでは、寮館に被害がでないとも限らない。
「やばいかも……」
どう考えてもこの状況の責任はユーナにある。しかし、事態を収拾する方法を思つけない。何をするにしても、まずは戦うための呪具が無ければ始まらない。そう思い立ったユーナは、匍匐前進で白いものに近づき、そのすぐ側に倒れている呪杖を拾う。
杖の柄を握った時、ユーナは、はた、とひらめいた。迷わず、それを実行に移す。
呪杖のセクンダの側にありったけの気合いで持力を込める。それから、杖の先端を白いものに突きつけて叫んだ。
「シグヌム・キルクム・インテンデンス!」
空中に支点を置いた点結界の発現。本来は地面に支点が置かれ、半球形に展開されるはずの結界は、白いものを中心として、ユーナをも巻き込んで球形に構成される。
それが完成すると、さっきと同じ様な発光現象が起こり、今度はそれに雷鳴のような音が加わる。しかし幽霊は消える気配も無く風も止みそうに無い。
ユーナはさらに持力を込め続ける。白い幽霊を睨むように見つめていると、目があったような気がした。全体にぼんやりとした姿のため、目があるのかはっきりしないのだが、確かにユーナは見られたと思った。その視線には、興趣のようなものが宿っていると感じとれる。
つまり、この幽霊は、この状況を楽しんでいるのだ。
「ま、負けてたまるかー!」
一層、持力を込める。功が奏したのか、それ以上、風が強くなることはなかった。だが、弱まる気配もなかった。こうなったら持久戦だ。
そう覚悟を決めた瞬間、風がぱたりと止む。
呆気に取られて辺りを見回す。木々は揺れること無く直立し、静けさの中、川面が波打つ音が耳に届く。
白いものは、影も形も無かった。
「勝った、の……?」
この場合、勝った負けたの問題ではないのだが、ユーナは呟いた。しかし、勝った気はしない。どちらかというと負けた感覚の方が強い。なにより、白いものを消滅させた手応えがない。さらに言うなら、見逃してもらったような感じさえする。
相手は、普通の幽霊でないことは明らかだった。そもそも幽霊であったかさえ怪しく思える。それなのに外見は紛うことなく幽霊だった。
しばし呆然としていたユーナは、はっと我に返って立ち上がった。魔術に関わるとしか思えない暴風の風上で、泥まみれのパジャマ姿で徘徊しているところを目撃されては、どんな疑いをかけられても申し開きのしようがない。いや、責任は間違いなくユーナにあるのだが……。
ユーナは広場を後にした。そのままこそこそと自室に戻ると、パジャマを替えて無言のままベッドに横になった。
館生全員が集まって採る朝食での話題は、もちろん昨晩の暴風のことだった。幸い、建物の被害や傷を負った者はいないようだった。それを確認したユーナはほっと胸をなで下ろした。
それはそれとして、『白い幽霊のようなもの』の存在は問題だ。あんな危険なものを野放しにするわけには行かない。街を守護する呪衛士に任せて狩ってもらうのも考えようによってはありだが、それでは術士の矜持が許さない。そこで考えたのは、簡単な結界で消滅しないほどの強い存在なら、より強い結界で捕まえることは出来ないか、と言うことだ。それができれば、課題に合格する糸口も見えてくるはず。そのためにはまず、『多角結界』の専門家と、強い介力を操れる専門家が必要になる。前者には心当たりがある。クリスだ。しかし、後者となると……。
ユーナは、数十人が集う食堂の中からアンナを見つけ、歩み寄る。
「おはよう、アンナ」
挨拶すると、ちょうどパンを頬張ろうと大きく口を開けていたアンナは、少し恥ずかしそうにしながら手を止め、答える。
「おはようございます」
「食事中悪いんだけど、実は相談があるの。どこかで時間もらえない?」
「構いません。ですが、今日は一コマ目があるので、その後で良いですか?」
「あ、うん。あたしも同じだから。じゃあ、一コマ目が終わったら、『ユーベル・シュバルツ』て待ち合わせで良い?」
「判りました」
そんな会話をして、二人は別れる。
これ以上課題に関わるには、アンナの支援が必要だとユーナは考えていた。