水曜、昼
現在クヴァルティスで使用されている魔術は、源流を辿ると、カムネリア=ゲイルコーラ国(現在はゲイルゴーラ国として存続)に至る系統と、ダールバイ国に至る系統の二つがある。
カムネリア系魔術は、アレオス・スティクトーリスとエイデン・リッツジェルドの二人によって三百年前の大陸戦争の時代にクヴァルティスにもたらされた。
その魔術系統は、自力魔術を主としている。
ダールバイはクヴァルティス第二帝政期の初代皇帝、〝武帝〟マルティヌス麾下の将軍ペトルス・ウァルミスによって滅ぼされた。(しかし、ダールバイ残党による抵抗は、その後百年間〝厳帝〟ハルトゥスの時代まで続いた)
この時にダールバイ魔術はそっくりそのままクヴァルティスに持ち込まれた。他力魔術を主とし、多彩な術系統がある。
以上から、現在クヴァルティスの主要な魔術は、
自力魔術
持力術
緋術
他力魔術
符術
結界術
刻印術
紋章術
宝石術
魔法陣術
補助魔術
赤色術
銀色術
に体系される。
いわゆる魔術のことを術式と言い、その運用方法のこと法式と言う。
現在のクヴァルティス国では、持力術と緋術が主流となっている。この二つの術式は呪文をほとんど必要としないため、扱い易いとされている。
さらに、供給する魔力について言及すると、これは二種類が存在している。
一つは、持力。正式名称は『アストラル源魔力』。術士が元来持っている魔力のことで、アストラル圏の存在である魂が発する魔力と理解されている。魂に依存するため、一人の術士が扱える発現形式は一種類に限られる。持力では、何らかの魔術を励起するには、励起したい相手に直接触れる必要がある。これは危険な魔物を相手にする呪猟では危険度がぐんと跳ね上がる。このため、以前は使い勝手が悪いとされていたが、『緋術』が登場して状況が一変し、今では主流となっている。
もう一つが介力。正式名称は『エーテル源魔力』。空間に普遍的に存在している魔力である。つまり外部の魔力を借りる方法。介力は、空間を伝播する性質がある。故に持力とは違い、離れた相手を励起することが可能である。介力は様々な方法で引き出すことができる。例えば文章であったり、図形であったり、魔法陣であったり。その記述式によって様々な発現を行うことができる。
昨日とは打って変わって、付属図書館前の広場は閑散としていた。
扉を押して図書館に入る。
――今は利用されなくなった術法を探す。
着眼点は悪くないはずだが、誰も使っていない魔術に関する本を、どうやって見つければいいのか。先輩に訊くという訳には行かない。昨日、掲示板の前で出会った先輩の言動から見て、事情を知っていても他言を許されていない可能性が高い。
そうなると、自力で探すことになるのだが……。
「こう言う時は、逆引き辞典が欲しいわね」
「それは、どういう辞典ですか?」
「例えばよ? 『劣等鬼族を狩るには。』と言う項目を探すと、利用できる術法が判る便利辞典」
「そんな便利な本があるんですね」
クリスは素直に感心した。
「いや、そんな都合のいい物があるわけが……」
と否定しかけたところで、閲覧席に茶色の三つ編みの姿を見つけた。
ユーナの一つ下の十四歳たが、見た目がとても若い、と言うより幼い。
名前はアンネッテ・コーエル。
彼女なら何か知っているかも知れない。
アンネッテは平民出身である。
彼女の父親はリーズ侯爵家のお膝元であるジュギス市に代々住む学者で、侯爵家子弟の教育係を拝している。専門はジュギス市とその周辺の地誌とのことだ。
ユーナがリーズ家に来たのが七歳の頃、歳が近い女の子と言うことで紹介されたのがアンネッテだった。その頃から既に、彼女は本好きで寡黙な子供だった。彼女が学友という役割に向いていたとは思えないが、ユーナは気にならなかった。むしろ、一緒にいて落ち着く相手だった。
アンネッテが持力保持者であると判明したのは全くの偶然で、珍しく二人が庭で遊んでいた時のことだった。コーエル家からは、持力保持者を輩出した記録は無く、血統ではない『出現者』だった。
彼女の持力は『地』に属し、〈裂地〉という『防御的』持力(ただし、使用方法によっては『攻撃的』にもなる)。
そして、二年次の学年首位を堅持し続ける秀才である。努力家で、暇さえあれば本を読んでいる。その知識は広範囲に及び、ほとんどの術士が手を付けない『精霊物理学』を独学で学んでいるらしい。
そんな彼女なら、きっと有益な情報を持っているに違いない。そう思い、ユーナは話しかけることにした。
「こんにちは、アンナ」
ユーナはいつも、アンネッテではなく愛称で呼んでいる。
理知的な翠の瞳がユーナを見返してきた。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「何でしょう」
アンナは金色のしおりを挟んで本を閉じた。
ユーナは事情を説明した。
するとアンナは「なるほど」と頷いて言った。
「それは伝説の課題の一つ、『幽体捕獲』ですね」
「知ってるの?」
「噂だけ、ですけど」
「なんで、〝伝説〟なの?」
「いろいろ理由はあるみたいです。去年二十年ぶりに復活した課題であるとか、遂行不可能であるとか、地位と名誉を得られるとか。合格者はほとんどいないとか。不可解なことに巻き込まれるとか、いろいろです」
「要するに、面倒くさいってこと?」
「そう言うことでしょうね。昨年の合格者は一人だけだったそうですよ」
「誰なの?」
「ローリス・イルトゥース様ですね」
「ああ、あのお方……」
三年次館生の有名人の一人だ。三公爵家の一つイルトゥースを与るうら若き女公爵。どこか儚げな雰囲気の持ち主で、思慮深く、物静かな淑女。
そして、ユーナが好意を持つ数少ない貴族の一人である。ちなみに、三公爵の残る二家が、『スティクトーリス家』と『ノイハルト家』である。いずれも〝武帝〟マルティヌス時代に帝室から降った由緒ある家系。
「続けていいですか?」
「あ、はい、お願い」
「また一説では、この街は龍脈の交叉点になっていると言われており、幽霊が集まり易いのだそうです。そのため、定期的に課題を出して、数を減らすようにしている、とも言われています」
「その説は変だよ。消すのが目的なら、捕まえる必要ないよね」
「そういう噂もあるということです」
ユーナは根本的なことを訊くことにした。
「一応、確認のつもりで訊くけど、幽霊って捕まえられないよね?」
「はい」
アンナの返答は当然、肯定だ。
「それは、どうして?」
当然知っていることを訊いている訳だが、アンナは嫌な顔ひとつせずに説明を始める。
「一般的に幽体とは、事象のことですから。捕まえるとしたら、事象の元になっている魂の方でしょう」
中等一年の講座『魔物分類』では、
幽体とは、生物の魂が肉体から分離したのち、別の物質に結合したために視認できるようになった、〝場違いな事象〟と教わる。
しかし、肉体を離れた魂は脆く壊れやすい。次第に崩壊が進み、精霊と素霊に分解されていく。〝場違いな事象〟は、その崩壊の過程で稀に顕在化する事象でしかない。つまり、発見するのが難しい上に、事象を留めておくことなど、不可能に等しい。
「ですから、幽体になってしまった魂は、魔術的見地からは、利用価値は無いですね」
「それは確かに……」
アンナの身も蓋もない言い様にユーナは苦笑いする。
「それに、魂は自然に帰るのが最も正しい状態だと思います」
つまり、捕まえるのは自然の摂理に反すると言いたいのだろう。
ユーナは本題を切り出すことにした。
「あのね、あたしとしては、今は使われてない魔術を探してみようと思ってるんどけど……ほら、いま知ってる魔術には幽霊を捕獲出来るものはないでしょ?」
アンナの反応を伺う。アンナは一瞬きょとんとした表情を見せ、それから微笑みを見せた。
「それは、良いやり方かも知れませんね」
「そう思う?」
「はい。『スティクトーリスの黒い本』に当たってみてはどうでしょう」
アンナによると、著者であるファルマ・スティクトーリス公爵がその人生において編み出したあらゆる術法が、利用できる局面ごとに区分されて記載されていると言う。
まさしく、欲しいと思った逆引き辞典だ。
「わかった。ありがとうアンナ。探してみる」
「どういたしまして」
ユーナたちが離れると、アンナはしおりを挟んだ本を開いた。
「それで、『スティクトーリスの黒い本』を探す訳なんだけど」
「目録を当たってみてはどうでしょう」とクリスが提案する。
「まあ、直接探すよりはいいか」
どちらにしろ、一苦労ではある。
目録箱は図書館入り口の左側にある。本の内容別に分類された、手のひらに乗る程度のカードが、多数の引き出しの中に大量に納められている。まずは大分類から見当を付ける必要がある。二人は壁に書かれた分類体系表に目を向けた。
「やっぱり、『スティクトーリス蔵書』よね」
ファルマ・スティクトーリス公爵が寄贈した数千冊の書籍群は、その名前で分類されている。
「中文類は、辞典でしょうか」
「私書籍じゃない? じゃあ、クリスは辞典をお願い。あたしは私書籍の方探すから」
「はい」
目当ての引き出しを見つけて開けると、中にはびっしりとカードが立てられていた。
カードを一枚一枚、繰って確認する。
「黒い本、黒い本……」
しばらくそれを続ける。しかし、最後まで確認しても、欲しいカードはなかった。
「分類が違うのかな。黒い本ねぇ……あ」
はた、と思い当たってしまった。
「ねえ、クリス。黒い本って、通称じゃない? 本当のタイトルは違うんじゃないかな?」
それに答えたのは男の声だった。
「その通り。他に『朱い本』と『白い本』がある」
「ギャーー」
ユーナは悲鳴を上げた。
「ギャーとは、ひどいな」
非難がましくそう言ったのは、レオンハルト・リッツジェルド。
「あ、あんた……何しに出てきた?」
「たまたま通りかかっただけだ。そうしたらリーズ侯爵家ご令嬢が『黒い本』をご所望とのことで、そういうことなら情報をお伝えしようと思ったまでだ」
「いえいえ、他ならぬリッツジェルド伯爵さまのお手を、わざわざ煩わせるほどのことではありませんので」
「連れないな」
「釣られてたまるか」
「それはそれとして」とレオンハルトは言を継ぐ。
「『黒い本』の正しい題名を知りたいのではないかね?」
「知ってるの?」
「知らないのに知りたいかと訊ねる人間がいるとしたら、その顔を見てみたいね」
持って回った言い方だが、この男は知っているらしい。頼るのは、かなり屈辱的だが、この際、仕方がない。
「お、お願いします」
「では、お教えしよう」
とレオンハルトは勿体を付けて言う。
「『如何にして魔術は行使されうるのか』」
「は? なにそれ?」
「私と君は本の題名の話をしているはすだが?」
レオンハルトはわずかに表情を曇らせた。
「もう一回言ってくれない?」
「『如何にして魔術は行使されうるのか』、だ」
「ヘンな題名」
「名著中の名著だぞ」
「嘘じゃないわよね」
「こんな些末な嘘をついて、何の意味があると言うのかね」
ユーナは黙ってレオンハルトの顔を見る。
見つめ返してくる瞳に嘘はないようだ。
「判った。情報ありがとう。一応、礼は言っておくわ」
「可愛い子は素直なのが一番可愛らしい」
うんうん、と自己満足気に頷くレオンハルト。
「やめて。あんたに可愛いとか言われると、背筋に悪寒が走る」
「ところで、」とレオンハルトは、勝手に話題を変える。
「『黒い本』は、『幽体捕獲』の為に必要なんだよな?」
ユーナは何も言い返さなかったが、表情には出ていたらしい。
「図星か。だったら、もう一つ良い事を教えてあげよう。『黒い本』に君が欲しがっている情報はない」
「何で知ってるの?」
「とっくの昔に調査済みからからな」
「なんで、そんなこと教えてくれるの?」
「この程度の知識に、大して価値は無いからな。それより大丈夫なのか?」
「何が?」
「そんな基本的なことも知らないで、どうやって『幽体捕獲』に取り組むつもりなんだ?」
「どうって……一つ一つ情報を集めて……」
ユーナは口ごもる。
すると、レオンハルトは嘲るように笑って言う。
「そんなことでは無理だ。早く諦めた方が身のためだぞ」
「どうしてよ?」
「いいかね、『幽体捕獲』は、言わば術士としての素養と覚悟を問われる問題だ」
「伝説の、とか言われてるど、要は課題でしょ? 二年次全員必須の」
「ただの課題ではないと言っているんだ。もう一度忠告しよう。諦めた方がいい」
「イヤ」
レオンハルトは少しの間、沈黙した。
「武門出身の君には判らないかも知れないが、術門の者にとっては……」
「門閥は関係ないでしょ」
「いや、そうじゃない。術門の人間は、あの課題の意味を知っていると言うことだ」
「つまり、武門や平民出身で知識が足りないから、無理だって言いたいわけ?」
「……残念だが、最初から差がありすぎる」
「だったら、その知識とやらを教えてよ」
「それは許されていない」
その言い方にカチンと来る。
「なによ、その言い方!」
「こればかりは、どうしようもない」
「あ、そう。いいわ、決めた。絶対合格してやる。それであんたに吠え面かかしてやる」
レオンハルトは悲しそうな表情をする。
「淑女が吠え面かかすなどと言わないでくれ」
「お吠え顔かかして差し上げますわ」
レオンハルトは、深いため息をつく。
「ならば、好きにしたまえ。ただ、覚悟だけはしておいた方がいい。では」
と言ってレオンハルトは書架の間に消えていった。
「リッツジェルド伯爵と仲が良いんですね」
クリスがいつの間にか隣にいる。
「はあ? 今の会話から、どうしてそういう結論になるの?」
「うらやましいです」
と、クリスは聞こえるか聞こえないかという小さな声で呟いた。
ユーナは、アレの何がそんなに良いのか全く理解出来なかった。だが、わざわざ彼女の夢を壊す必要は無い。
「じゃあ今度、正式に紹介してあげるわよ」
「本当ですか?」
一瞬で、クリスの顔が華やいだ。
「ほんとほんと」
「絶対ですよ? 約束ですからね?」
「うん、大丈夫」
安請け合いしたところで、ユーナはクリスがカードを一枚手していることに気付いた。
「クリス、それは?」
「あ、これなんですけど」
クリスはカードを差し出す。
「それって、もしかして?」
「見つけましたよ。ファルマ・スティクトーリス著『如何にして魔術は行使されうるのか』」
「でかした、クリス」
ユーナは自分より背の高い彼女の頭をポンポンと撫でる。
クリスは嬉しそうにえへへと笑った。
「目録によると、開架、一階の六七番左の棚の最上段、となっています。行ってみますか?」
「うん」
早足で中央の廊下を奥の方へ向かった。
辿り着いた通路には高く聳える本の山が連峰のように奥まで続いていた。書棚には書籍が乱雑に差し込まれていて、こちらも分類されているようには見えない。
ユーナは絶句した。
手が埃まみれになる。服が汚れる。髪だってただでは済むまい。
「もっと入り口に近い棚に置いてくれればいいのに」
名著中の名著と言われるくらいの本が、どうして蜘蛛の巣が張っていそうな奥の奥に置かれているのか。不思議であるのと同時に不服でもあった。
帰ったらすぐにお風呂に入ろう。ユーナは覚悟を決めた。
そして、一時間後、やっとのことで目当ての本は見つかった。案の定、目録カードが示した場所には無く、その近くの山積みの中から発見することになった。
閲覧室に戻ってきたユーナ達は煤だらけの上に髪には蜘蛛の巣が引っかかるという惨憺たる有り様で周囲の注目を惹いた。悪目立ちしているのは自分に突き刺さる視線でよくわかっていたが、ユーナはそれを黙殺した。
テーブルの上に戦利品である書籍を置く。それは、本当に真っ黒だった。革装の表紙は長い年月が経っているとはとても思えないほど、すべすべとした手触り。
早速、目次をめくる。
最初の章の題名は『真実を示す知識の習得』。
関係無さそうだ。
「えと、それから『紋章を符として用いるには』。『緋を結界術に用いるには』……それから、『ラテン語詠唱における後方アクセントについて』」
「なんだか、知っていることばかりですね」
「二百年も昔の本だし。今はあたりまえになっていることが多いのかも」
更に目次を読み進める。
「『幽体、即ち魂を封じるには』。これ、そのままそうじゃない?」
期待しながらページをめくる。だが、その項目は無かった。
破り取られている。
「そんな……」
ユーナは二の句が継げなかった。
悪戯で破ったのか。課題に関わった誰かが、他人に情報を与えないようにしたのか。
「まさか、あの伯爵が……」
「いいえ、レオンハルト様は、こんなことはしません」
間髪入れずにクリスが否定した。
「そうね」
ユーナも同意する。あの男はこういう悪質な行為は嫌うはずだ。それに『黒い本に情報はない』と言っていた。あれは、こういう意味だったのだろう。しかし、全く無いというわけではないようだった。それを見つけたのはクリスだった。
「ここに文字が残ってますよ」
クリスが破かれたページを指さす。ページの残された部分に、文章の一部が残されている。
「……『封じの法式は結界に似て』……」
「封じの法式って、何のことでしょう?」
「さあ? 今は使われてない術式なんでしょうね。似ているということは、代わりに使える結界が有るってことかな」
結界は魔物を閉じ込める為にも使われる。過去に幽霊に通用する法式が存在していたとしても、不思議ではない。
「まずは、結界術を追ってみようか」
「そうなると、支点の数を考えないといけませんね」
「そうだね。あたしは『点結界』を試してみるから、クリスは『多角結界』を試してみてくれない?」
「えと、それは全部、と言う意味でしょうか……?」
クリスは困惑顔になる。
『多角結界』には、二支点から八支点まで計七種類ある。高度な知性を有する魔物ほど単純な図形で呪縛することが出来る。また、『点結界』とは違い、支点を外側から繋いだ法円の中に特定の呪文を混ぜ込むことで、内向、外向の違いや呪縛出来る対象に違いが生じる。勿論、『点結界』より技術的にかなり複雑で高度な法式である。クリスは、その全てを実験するのは大変だと暗に言いたいのだ。
「幽体が相手だから七支点とか、八支点になるのかな……」と言ってから、それではダメだと思い至る。なぜなら、探しているのは、今は使われていない術法なのだから。
「他のはいいから、九支点って、できる?」
ユーナの意図はすぐにクリスに伝わったようだった。
「判りました。実験してみます」
「あたしは……点結界しかできないから、一応それを試してみる」
二人は頷きあって、メーゼン橋のたもとで別れた。