月曜、夜。メーゼン橋
窓の外が暗い。
いつの間にか時間は過ぎ、閲覧席には二人以外の人影はなくなっていた。
柱時計の針を見ると、既に九時を過ぎている。明らかに門限破りだ。
今更だが、急いで帰ることにした。本を棚に戻していると、さらに時間が過ぎていく。柱時計で閉館間近になったことを確認してから、クリスをいざなって図書館を帰途につく。
ユーナは寮住まいである。通称『リーズ寮』と言って、リーズ家が所有する寮だ。
クリスはクライル商会のメーゼンブルク支店に住んでいる。
この商店もリーズ寮も新市街にあるので、二人の家路はメーゼン川を渡る必要があった。
「近道しよう」
図書館を出て、大聖堂の前を横切った後、ユーナは細い横道に入る。クリスはそれに従う。
小路を抜けるとグロックナー・シュトラッセと呼ばれるメインストリートに出、それを横断して大きな川に出る。そこからメーゼン橋を渡るために二人は川沿いの道を歩いた。
街灯は疎らで、代わりに月が周囲を照らしている。ざわめくように流れる川が時々波打って、その光を照らし返す。メーゼンブルクの夜は早い。街の中心部に居るにも関わらず、既に人通りは絶えていた。
その時、違和感を覚えて、ユーナは耳を澄ませた。
「ねえ、何か聞こえない?」
どこからともなく、ごりごりと堅い物をこすり合わせる音が低く響いている。
「あそこに人影が」
クリスが橋の反対側を指さす。
確かに、人の姿がある。あるが、大き過ぎる。大柄な男の身長の三倍はあるのだ。
「人間じゃない、よね」
「魔物でしょうか」
人間の姿形に近いと言うことは、鬼族か、魔族ということになる。
鬼族は基本的に人間の姿形に似ているが身体のいろいろな部位――特に多いのは頭部――に角がある。角が多いぼど知能が低く、力が強い。逆に角が少ないと知力に長け、敏捷性に優れるとされる。族長の名は『無角王』と言って、その王の下、一族の結束は高い。人間に対して好戦的と言うわけではないが、仲がいいと言うわけでもない。
魔族は、いわゆる異形種全般のことで、地を這う者、空を舞うもの、四つ脚、六つ脚など多種多様に渡る。その中には二つ足の人間のような姿の者もる。彼らを統括する四人の王がいて、一説には――主におとぎ話でのことだが――その名を『初源王』、『流動王』、『終末王』、『静寂王』と呼ばれている。もちろん、実際に遭遇した者はいない。というより、本当に出会ったりしたら、命がないだろう。
それにしても、結界で守られた街の中に、どうやって侵入したのか。今はそっちの方が問題だ。
魔物のすぐ側にもう一つ、人影を見つけた。
突然、魔物の近くで火花が散る。続いて、金属音が鳴り響く。
誰かが戦っているらしい。
「あたしたちも行こう」
「お手伝いするつもりですか?」
「とりあえず、ほっておく訳にも行かないじゃない」
ユーナは走り出す。クリスもそれに続く。
二人が橋のたもとに着いた時、青い炎が橋の上を走る。その炎は魔物にぶつかり四散する。
戦っているのは術士で、その発現形式は、〈蒼炎〉のようだ。
この発現は、ほとんどが『攻撃的』に分類される炎系系魔力の中でも、特に危険とされている。なぜなら、あまりにも高温過ぎて、炎があらゆるものを焼き尽くし、溶かし尽くしてしまうからだ。
そんな物騒な魔力の保持者は限られる。しかし、ユーナには一人思い当たる奴が居た。イヤな予感を通り越して、確信めいたものがユーナの心中に芽生えた。
二人は橋に踏み込む。
前方で、また青い色が輝いた。しばらくの間、火花が散り続ける。
そこでは男が戦っていた。大剣を頭上で一回転させて、魔物の腰の辺りに斜めに振り下ろす。魔物の足の付け根から炎が吹き上がる。
「これで、どうだ!」興奮した男の声。聞き覚えがある。
「あ、やっぱり……」
「何がやっぱりなんですか?」
「引き返そうかな、あたし」
「手伝わなくていいんですか?」
「出来れば会いたくないんだよね、あれ」
「そうですか……。では、わたしが行きます」
「あいつなら大丈夫だと思うよ?」
「そう言うわけにも行かないでしょう」
クリスは太ももに仕込んだ緋針を一本抜いた。針といっても長さは手首から肘くらいまである長く細い呪具である。
この緋針を操る術士は緋針術士と呼ばれるが、緋針は応用法式が多く、それぞれに名称が付けられている。その分類に従うと、クリスは緋爪術士と呼ばれる。そのほか、彼女は緋針の基本法式である投擲も学んでいる。
クリスは、持力を込めた緋針を上段から投擲した。緋針は風を巻き込みながら飛び、魔物の腹部に当たり、跳ね返る。だが、うまい具合に発現には成功し、魔物の腹に亀裂が生じた。
「お手伝いします」
クリスは男に声をかけながら緋針をもう一本、太ももから抜いた。
「手助けは無用だ」男は見向きもしない。
魔物は、男に足の付け根を斬られたことで立っているのが困難になり、地面に膝を突く。
クリスがさらなる投擲を躊躇っている間に、男は大剣を大きく振りかぶって、魔物の首筋に振り下ろす。
大剣は魔物の身体を縦に切り裂き、剣先が地面にまでめり込んだ。魔物は後ろのめりに倒れ込んで、甲高い金属音を盛大にとどろかせた。男は剣を構えて、しばらく様子を窺う。魔物は身じろぎ一つしなかった。
「よし」
男は大剣を背の鞘に戻し、倒したばかりの魔物を物色し始める。
クリスは男をじっと見つめた。それから、はっとして、
「もしかして、レオンハルト・リッツジェルド様?」
と明らかに黄色い声で名前を叫んだ。
呼ばれた男は振り向いてクリスを見る。
「やあ、クリスティーネ・クライル嬢じゃないか。先程は失礼した」
「わたしのこと、ご存知なんですか?」
「もちろんだよ、フロイライン。同じ専攻の同士じゃないか」
と言ってレオンハルトは爽やかな笑顔を作る。
そう、この男も本来は緋爪術士である。だから、緋の大剣など扱えるはずがない。ただし、彼の出自を考えれば、それも有り得ない話ではなかった。
「う、うれしいです……」
ユーナは少々ムカついていた。
「これはこれは、伯爵サマ。こんな時間にこんな場所で何をやっているのかな、君は」
「ユーナ・リーズ嬢か。俺は散歩の途中だ」
ぶっきらぼうにレオンハルトが答えた。
「へえ、散歩」
ユーナはピクリとともしない魔物に目を向けた。
ごまかしきれないと察したレオンハルトは渋面を作った。
「……まさかこんな所を君に見られるとはね。俺も運が悪い」
「運が悪いのはあたしの方よ。あと、あたしの姓はオーシェだから」ユーナはオーシェを強調する。
「そういうことにしておこうか」レオンハルトはまるで些末事のように適当に答えた。
「それはそうと、これ魔物よね? なんで、街の中に……?」
「これが、魔物?」
ぷっと吹いたと思うと、レオンハルトは「はーっはははははは」と高笑いする。その笑い声が周囲の建物と山に反響して、数倍増しでバカにされた気分になる。
「これを魔物と勘違いするとは、さすがは武門のお姫様だ」
「門閥は関係ないでしょ!」
「ああ、そうだったね。そうだった」
レオンハルトはまた適当に頷いた。その態度が小馬鹿にそれているようで、ユーナはますます気分を害した。この男はいつもこうなのだ。こいつはユーナと遭遇すると、何かと突っかかってくる。どうやら武門貴族のユーナのことが気に食わないらしい。それもそのはず、こいつは術門貴族の名門中の名門、リッツジェルド伯爵家の若き当主サマなのだ。
成績は常にトップクラスで、座学はアンネッテ・コーエルに譲るものの、実技では他の追随を許さない。しかも、本人はそれが当たり前だと思っている。
こんな噂がある。
学友から教えを請われた時、この男はこう言い放ったという。
『すまないが他を当たってくれ。何故これしきのことが出来ないのか、俺には分からないんだ』
傲慢ことこの上なく、しかもキザったらしい。……何様のつもりなのかとユーナは思う。
イヤなことを思い出したユーナはぶんぶんと首を振って邪悪なイメージを振り払う。
「大丈夫か?」ユーナの行動を見たレオンハルトが訊いた。
「あんたに言われたくない!」
「……そうか」
レオンハルトは不可解なものを見る目でユーナを見つめた。ユーナはそんなレオンハルトを睨み返し、それから諦めたようにため息をついた。性格はアレだが、顔だけは良い。それが癪だった。
この男の外見は、高身長に筋肉質、少し癖のあるダーティ・ブロンドの髪に、アンバーの瞳の甘いマスク。これに貴族などという箔がついているものだから、ハイバリトンの声で囁かれて失神する女子もいると聞く。気に入らない男だが、世間一般の彼への評価は男女共、とてつもなく高い。
ご察しの通り、ユーナはこの男が嫌いだ。主に性格が。
理由は、簡単なことで、この男が『お貴族サマ』だからだ。
ユーナは自分も貴族の身分でありながら、貴族が嫌いだった。特にキゾクキゾクしたヤツが。なぜなら。
食事にも服にも不自由することなく、他人を顎で使うのが当然で、いつも見下したような目をしている。そのくせ、全て他人任せで、自分で何かを成し遂げることはない。農民のように生産するでもなく、商人のように価値を生み出すでもなく、ただ当然のように搾取して偉そうにしているのが気に食わない。貴族なんてものは、戦争の時代ならともかく、平和な時代には無用の長物。ただの無産階級で存在するだけ邪魔だ。
ユーナは、自分のことを棚に上げているのは判っている。しかし、リーズを名乗る以前の経験から、どうしても好きになれないのだ。
「さて、一応、説明しておくが。これは魔物なんかじゃない」
「じゃ、何?」
「教えて欲しいのかね?」
「あ、いや、別にいい」
とユーナが答えてやると、レオンハルトは不機嫌な顔をした。
だいたいにおいて、この男は、興味がある素振りを見せれば、面白がってはぐらかしたり、勿体を付けたりするのだ。逆に全く興味が無い言動をしてみせると、しぶしぶ本題に入る。まるで子供だ。
レオンハルトは不満げな表情で説明を始める。
「これはただのブロンズ像だ。ちょっと細工がしてあるが」
レオンハルトに促されるまま、ユーナは敷石の上に倒れた物体を覗き込む。高温で溶けかかり、顔を近づけるのも大変なそれは、確かに金属で出来ていた。
「これは、橋の新市街側にあった『ファルマ・スティクトーリス公爵像』ではないでしょうか」
「え?」
クリスの言葉に驚いて、もう一度よく見てみる。首から下は原形を留めていないが、頭部は確かに見覚えがある。少々、神経質そうな顔にカイゼル髭を蓄えて、どこか遠くを見つめるような目つき。間違いなく、毎朝、橋を渡るときに見上げているブロンズ像の顔の部分だ。
それが今は、胴体部分がまるでぼろ布のようずたぼろになって横たわっている。無惨としか言い様がなかった。
「こんなにしちゃって、どうすんの? いくら貴族だからって、この街で公共物破壊は不味いんじゃない?」
「大丈夫だ」
「根拠が無い、根拠が」
「無駄話はここまでだ」
「何とか言え!」
レオンハルトはユーナの台詞を無視しておもむろに腰の短剣を抜き、ブロンズ像の頭部に突き入れた。
「ちょっと、なにしてんの!」
「何って、これが目的だからな」と言いながら、レオンハルトはざくざくと目の当たりを執拗に刺し続ける。
「情け容赦無いな、あんた」
レオンハルト相手の時、ユーナが彼を呼ぶ二人称は基本的に『あんた』だった。別に親しいからではなく、単に貴族として特別に扱いたくなかっただけだ。
ユーナはしゃがみこんでレオンハルトの動きを観察する。クリスはレオンハルトの顔を観察している。レオンハルトはブロンズ像の目の部分から透明な球体を取り出した。それは眼窩に埋め込まれていた、眼球の模造品で、素材は水晶か硝子と思われた。
それを月にかざしてじっと見つめる。
「ううむ」
「どうしたの?」
レオンハルトは無言でもう片方の目を取り出し、同じことをする。
「これはハズレだ」
「ハズレ? どういうこと?」
「ここまで見せてやっても、判らないのか。まったく、とんだ術士さまだ」
レオンハルトは先ほどブロンズ像から引っこ抜いた球体を像の頭部に戻した。
「悪かったな。っていうか、どうすんのよ、これ。絶対マズいって」
「問題ない。こいつは自己修復するからな」
なぜか自慢げに言うレオンハルト。
「なんで、そんなことが判るの?」
「これがそういう術式だからだ。明日の朝には元に戻ってるはずだぞ。では、ごきげんよう、お嬢さん方」
レオンハルトはリッツジェルド寮がある旧市街の方へ歩き出す。
後には、青銅の塊と、ユーナとクリスがとり残される。
「……帰ろうか、クリス」
声をかけると、クリスはレオンハルトが去った方向をじっと見つめ、手を胸の前で組んで、
「レオンハルトさま……」
と呟いた。
なんとなく面白くなかった。
翌朝、パンとハムとサラダとミルクで簡単に食事を採り、ユーナは寮を後にした。
メーゼン橋に近付くにつれ、昨晩のことが思い出される。
もちろん、ブロンズ像のことだ。
橋のたもとに至る。ここが、いつもの待ち合わせ場所。そしてブロンズ像が置かれた場所でもある。
台座の上には、昨晩壊されたはずの像が、朝日を浴びながら立っていた。
レオンハルトが言った通りだった。原形を留めないまで破壊された金属製の像を一晩で修復できる職人など、この世に存在するはずもなく、すなわち自己修復して元の場所に自力で戻ったと言うことだ。気味が悪かった。早くこの場を離れたい。
程なくしてクリスが姿を見せる。
そこで、ユーナはクリスの異変に気付いた。
いつもなら、「ユーナさ~ん、お待たせしました~」と少々間の抜けた声と共にやってくる彼女が、今朝は沈黙して、像を仰ぎながら近づいてきたのだ。
「おはよう、クリス」
「あ、おはようございます」
クリスは挨拶を返すものの、心ここにあらずの様子。
「どうしたの?」
「このブロンズ像って、こんな格好でしたか?」
クリスの視線を追ってユーナも見上げる。
昨日までのこのブロンズ像ほ両手を広げて、旧市街に赴く人々を迎え入れるような仕草をしていた。それが今は、透明な球体を大事そうに両手で持っている。
「あんなもの、持ってなかったはず……」
「ですよね! ね!」
レオンハルトは自己修復すると言っていたが、その過程で形が変わるなんてことがあり得るのか。それに、硝子玉と思われる球体はどこから持ってきたのか。
ツッコミ所はいくつかあったが、とりあえず、ユーナは無視することに決めた。何となく関わったらダメな気がした。
不思議だったのは、そんなブロンズ像の変化に驚く人が少なかったことだ。しかし、なんといってもこの街は魔術の学都である。不思議なことが起こっても、それは日常茶飯事として片付けられてしまうのかも知れない。もしくは、ユーナと同じに、関わってはいけないと思っているのかも知れなかった。