月曜、朝
月曜の朝イチという、一週間で最も気怠い時間の講義は『精霊学基礎』。ただし、この講義こそ一週間で最も油断がならない。
担当教官は灰色の髪に灰色の髭を蓄えた、褐色の肌のカルルスリヒターと言う恰幅の良いおっさんなのだが、生粋の精霊至上主義者で、精霊関連の術以外を認めようとしない。曰わく、精霊術は魔術分類の中では最も歴史が古く、由緒正しい。古代より受け継がれた『精霊物理学』が、それである。他の魔術は、ここから派生したのであるから、精霊を学べば、すべての知識を得ることが出来る、云々。
このおっさんの主義主張は脇に置いても、ユーナにとっての実害は、講座のテキストがラテン語と言われる古語によって行われることだ。何故ラテン語と呼ばれるのかさえ定かでないほど古いこの言語は、クヴァルティス語と文法的に似通っていないこともないが、少なくとも辞書を引かないと正確な意味を把握するのは難しい。それなのに、この講義では時々、教官から質問が飛び、ラテン語で答えられないと減点されてしまう。
故に予習は必須である。
術士にとって、ラテン語は呪文や一部の専門用語に使われているので、習得は必須ではあるものの、呪文は意味が判らなくても発音が判れば唱える事は出来るし、専門用語はそういうものとして覚えてしまえばいい。だから、会話で用いる機会はほとんどない。
だったら、そんな講座は取らなければ良い、と思うかもしれないが、残念なことにこの単位は必修で、しかも術士免許の等級を決める為の指標の一つとなっている。つまり、この講座の成績が『優』であれば、第一種免許を取得しやすくなるが、『良』や『可』だと難しくなる。
そんな訳で、精霊学基礎は、中等二年次の関門の一つとして知られていた。
時計塔の鐘の音が街に響き渡ると、カルルスリヒター教官はぱたりと教科書を閉じた。
「今日は、これまで」
同時に、受講生の間から安堵の吐息が漏れる。
「終わった……」
ユーナは長い机に突っ伏した。毎週のことながら、神経がすり減る九十分。
しばらくそのまま英気を養った後、「さて」と、ユーナは立ち上がり、杖のような金属の棒を携えて、教室を後にする。
その棒は、ラテン語で呪杖、クヴァルティス語でシュトックと言う呪具である。細い円柱状をしていて、ちょうど杖と同じような長さなので、呪杖と呼ばれている。この呪具は緋術に属する法式で、緋とは金属の一種である。この世界で魔力を〝通す〟ことが出来る唯一の物質。非常に固い。
この呪杖を用いる術士のことを呪杖術士という。
ユーナが呪杖を専攻に選んだのは、呪杖術士が戦闘では後衛を務めることが多いからだ。これは彼女の魔力の発現形式に関係がある。ユーナの発現属性は『水』、発現形式は〈氷結〉といって、広域励起型に属する。このため、発現形式の点でも前衛より後衛に配置された方が能力を発揮しやすいのである。
外に出ると、そこは街の片隅。出てきた建物も、校舎ではなく普通の一軒家。
実は学館に校舎と呼べる建物はほとんど無い。教室の多くは、街中の家屋に間借りしている。専用の校舎を建てようという話が持ち上がったことは何度もあるが、実現したことはない。その度に国が計画を中止に追い込んだ。このため、必要最低限、付属図書館と修練場と集議堂があるだけだ。
残る本日の予定は、レポート作成のみだった。
図書館に行こうと歩き出した時、突然、「ユーナさ~ん」と声が聞こえて、誰かに背後から抱きつかれる。ユーナは反射的に腰に帯びた短剣に手を伸ばすが、相手は既に判っている。
「く、苦しい、クリスティーネ」
「あ、ごめんなさい」
彼女は、ユーナの首に絡めていた両腕をほどいた。
振り向けば、スカートの制服に身を包む、細身の美人が立っている。
背はユーナより高い。透き通るような白い肌。長くストレートのブロンドに、引き込まれそうなくらい深い蒼の瞳。誰がどう見ようと、絶世の美少女と言う評価は揺るがないだろう。
彼女はクリスティーネ・クライル。ユーナと同い年で、呪猟士専攻で学年も同じ。行動を共にする友人の一人だ。
帝都生まれの帝都育ち。平民出身なのだが、少し毛色が変わっていて、実家が商家なのである。それも、そんじょそこらの商人ではない。大陸を股に掛ける巨大商業組織、クライル商会の跡取り娘である。性格は、お嬢様然として凛としているが、それは表向きだけの話で仲間内だけになると途端におっとりした素が出る。いわゆる猫かぶりと言って良い。どうやら商人階級の社交界に出るために、そのように躾られたらしい。加えて、お嬢様の癖に妙なところで物知りだったりする。これは家庭教師の賜物と思われた。
いつだったか、ユーナはクリスティーネの金髪が羨ましいと話したことがあった。
ユーナは自分の赤い髪があまり好きではなかったのだ。すると、クリスティーネはにこりとして、こう返した。
「ユーナさんの髪は、普通と違ってまるで燃えるように明るい色ですよね。わたしは好きです。フェルマイル族の血を引いているのではないですか?」
ユーナの髪は、よくある金色を濁したような赤毛とは違っていた。それに、幻の民族と称されるフェルマイルの血を引いていると言われたことがある。
フェルマイル族とは、魔術の祖と言われるカムネリア族の傍流で、燃えるような赤い髪が特徴とされた。しかし、『フェルマイル族』を知る者は、術士の間でも僅かのはずで、本来、お嬢様が知るよしもないはずなのだ。
「『精霊学基礎』、休んだでしょ」
ユーナが問いただすと、クリスティーネはえへへと笑ってごまかした。
「あの講義が大事なことは知ってるでしょうに」
「だって、あの教官が怖いんですもの」
「それは否定しない」
「でしょう?」
「それで、どんな用?」
ユーナは話題を変える。
「あ、はい。ユーナさんと一緒にレポートの準備をしようと思ったんですけど。駄目ですか?」
「いや、まあ、駄目じゃないけど……」
「じゃあ、決まりですね」
強引に決められてしまう。クリスはこぼれるような笑みを浮かべたが、すぐに表情を変え、不満そうに唇を尖らせた。
「それはそうと、わたしのことはクリスって呼んでくださいって、お願いしましたよね?」
「う、うん。そうだったね」
「じゃ、お願いします」
「いま?」
「いま、です」
「く、クリス」
恥ずかしそうにユーナが呟くと、クリスは満足げな笑顔になって、ユーナの腕に自分の腕を絡めた。
「では、行きましょう」
こんな関係だが、二人が知り合ったのは、最近のことである。
ユーナが初めてクリスを見たのは一年次の春。赤色術の講座でのことだ。同性から見ても美人のクリスは、いつも男子館生に取り囲まれていて、一言で言うと、ちやほやされていた。それをよく思わず陰湿な態度を取る女子も多かったが、ユーナは悪い感情は持たなかった。なぜなら、男子に囲まれているときの彼女は、笑顔ながらも迷惑そうにしていたからだ。だが、ユーナは積極的に関わるつもりも無く、同じ講座を受ける同級生としか見ていなかった。
そして三カ月前のこと。
次の教室が街の端だったので、ユーナは早歩きで道を急いでいた。近道のつもりで横道に入ると、微かに人の声がする。普段から人通りの少ない道なので押し殺したような声でもはっきりと聞こえてくる。男女が言い争っているらしい。
二人は、建物の陰に隠れるようにして立っていた。女子の方が建物に背を向け、男子が両手を壁について彼女を逃げられないようにしている。
(痴話喧嘩なら目立たないようにやってよ。って、ここは人通り少ないか……。別の道にすれば良かった)
多少やっかみも入ったことを考えながら、そばを通り過ぎようとすると、
「助けてください」
と女子が囁くような声で言った。
ユーナは彼女の顔を見た。
それがクリスだった。
助けてと言うからには、困っているのだろうと察しはつくものの、さて、どうしようと立ち止まっていると、男が振り返った。身なりからして貴族の子弟と判る。年上で、徽章からすると年次も上だ。じっと睨みつけてくるので、思わず睨み返す。
彼は舌打ちして、「邪魔をしないでくれないか」と脅すように言った。
「でも、彼女は助けてって……」
「君には関係ないことだ」
男は追い払うような仕草をする。
ムカついた。
腰にはちょうど短剣があった。術士は通常武器の携行を忌避するが、武門貴族出身とバレてからは、矜持としてなるべく持ち歩くようにしているのだ。
「その辺で止めましょう、先輩」
短剣を抜き、男子の鼻の頭に剣先を定める。
「術士を目指す人間が、みっともないことをしてはいけませんよ」
彼の顔が青ざめた。
「館生同士の喧嘩は御法度のはずだ」
「それは、術式を用いた場合のみです。これは、ただの剣ですから」
「館生がそんなもの使えるはずがない」
ユーナは、呆れてため息をついた。
「あたしはリーズ家の者と言えば、お判り頂けます? これでも、腕は確かですよ?」
実際、剣の鍛錬は怠ったことはない。
男は観念したように頷いた。彼が負けを認めたと感じたユーナは剣を鞘に戻す。
「そのような口説き方で、振り向く女性はいませんよ。もう少しお勉強なさってはいかが?」
男はぐっと唸る。そしてそそくさと姿を消した。
(やりすぎたかな)
そう思わないでもないが、自分の気持ちを押し付けるしか出来ない幼稚な奴に同情の余地など無い。
ユーナが振り返って「大丈夫?」と訊くと、クリスからは「はい、大丈夫です~」と、のんびりした風で答えが返ってきた。
その緊張感の無さに、少しムッとなった。
「あなたも館生なんだから、自分で何とかならなかったの?」
持力でも、呪具でも、あの状況なら正当防衛で通るはずだ。
「わたしの持力は、〈切り裂きの風〉なんです」
「それって『超攻撃的』だよね? なるほど」
魔力は、地水火風という発現属性による分類の他、発現形式と発現指向による分類がある。発現形式は、術士個々人が発現させる事象のことで、物理干渉を伴うものがほとんど。例えば、ユーナの〈氷結〉やクリスの〈切り裂きの風〉などがそう。発現指向は、発現が攻撃向きなのか防御向きなのかを元に定義されたもので、『超防御的』、『防御的』、『中間』、『攻撃的』、『超攻撃的』の五類型がある。この中で、超攻撃的に分類される持力は、呪猟などの必要時のみ使用が許されている。もちろん、人間に対する使用など、もってのほかだ。〈切り裂きの風〉と言えば、『超攻撃的』に分類される中でも特に危険な部類に入る。
こんなおっとりした感じの女子に、こんな危険な発現形式は似合わない。だが、魔力の発現形式は自分で選べるものでなはいのだ。
「そっか、じゃ、仕方ないか。気をつけなさいね」
「あの、助けてくれて、ありがとうごさいました。ユナマリア・リーズさんですよね」
「……ユーナ・オーシェね」
「はい、ユーナさんですね、判りました。わたし、ユーナさんと前からお話してみたかったんです」
「それは、どうも」
「もし良かったら、友達になってくれませんか?」
「え?」
「ダメですか?」
ユーナは思わず、クリスを見る。クリスは、困ったような、悲しそうな表情をユーナに返した。
それを見て、悪い子ではないようだとユーナは彼女を評価した。それに、ユーナ自身、けして友人は多い方ではない。申し出を断る理由はなかった。しかし、嬉しさを素直に表に現す表現ことはできなかった。
「まあ、いいけど?」
「良かった!」
突然クリスに抱きつかれる。首が締まる。
「ちょっと!」
「あ、ごめんなさい。嬉しかったもので、つい」
そんなことがあってから、クリスは行動を共にするようになった。懐かれたと理解するまで、長くはかからなかった。
明日が提出期限の『結界術論』のレポートを書かなければならない。作業はいつも、資料が使える付属図書館と決めている。
大聖堂を正面に見て右へ角を曲がる。
付属図書館の出入り口前はちょっとした広場になっていて、館生が集まってはたむろするので、普段から人が多い場所になっている。
その広場を縦断して、極端に縦長の建物へ歩みを進める。
重厚な作りの木製扉を押し開けて図書館に入った。広場の喧噪とは打って変わって、静寂が空間を包んでいる。館内は、中央が広い通路になっており、両脇に書架が並ぶ。その列は遙かに奥まで続いており、向こうの端にいる人が人形のように小さく見える。
螺旋階段で昇る二階は壁沿いに回廊となっており、閉架へと続く扉があった。閉架に入るには特別な許可が必要だったので、ユーナはまだ利用したことはない。
ユーナとクリスは、大きな柱時計が壁際に置かれている閲覧室に入り、テーブルを確保した。
まずは、関連する本を集めてくる必要がある。ユーナは荷物を置いてから、書架のある方へ向かった。「わたしも」とクリスが追従する。
この図書館の蔵書は、学館初代館長ファルマ・スティクトーリス公爵が寄贈した書籍を元に、世界各地から収集した本で埋まっている。クヴァルティス語とラテン語のみならず、ゲイル語、レイザス古語、セツェン語、神語(神代の言語)まである。それらすべてが魔術関連の本。中には、それ自体が魔力を持つ書籍、古代の英知が記されたという輝く円盤、豆本並みに小さい青い板など、不思議な物も含まれているらしい。
それはともかく。
ユーナは閲覧室と書架を何度も往復して、本をテーブルに積み上げる。そのほとんどが、『結界術』に関連する書物だ。
講座『結界術論』のレポートは、
〝外向式と内向式の効果と有用性について各々の専攻の観点から述べよ。〟
というお題。
ここで言う外向と内向とは、結界作用の方向性を意味している。
外向式は、結界の作用が内側から外側へ向かう。つまり、結界の中から外へ出る事は可能だが、その逆は不可能。内向式は作用が内側に働くので、外から中への入るのは可能だが、その逆は不可能となる。なお、この二つの形式を同時に行い、結界を二重にする事で、完全に結界境界の行き来が不可能となる。
レポートは、これを念頭に置いて、その利用法を呪猟士として考察しろ、ということだ。
何を書くべきか、既にユーナの頭の中にはイメージが出来上がっていた。あとは、それを他人にも判るように文章に落とせばいい。
しかし、クリスの場合は、そう簡単には行かないと思われた。
クリスの成績は並の下といったところで、実技はまあ出来るようだが、座学が良くなかった。お嬢様育ちのせいか、論理的思考が不得手らしい、とユーナは友人を評していた。
とはいえ、レポートを丸写しさせる訳にはいかないので、ヒントを出すことにする。
「呪猟士の本分は魔物狩りでしょ? だから、呪猟士にとっての結界は魔物を相手に使用するのが一般的なわけ。それを前提にして、外向と内向をどう使い分けるべきかを論じるのが、基本になるわね。独創的な使用法を紹介できたら、かなり良い点とれると思うよ?」
読書席に座るクリスの前に、しおりを挟んだ本を積み上げ、読むように促す。クリスの綺麗な顔が困惑気味に曇ったが、ユーナはあえて気づかないふりをした。頼られるのは嫌いではないが、それも過ぎれば良くない。クリスは友人なのだから、なおさら対等な立場を維持したかった。
クリスの対面に座って、自分は用紙に文章を書き始める。そのまま作業に没頭していく。柱時計の振り子が鳴らすコチコチと言う音、万年筆が紙をかする音と、白面に現れていく文字だけが自分の世界となっていく。やがて、振り子の音も聞こえなくなる。それだけ、ユーナは集中していた。
「あの、ユーナさん」
呼びかけに驚いて顔をあげると、困り顔のクリスと目が合う。
「どう? 書けそう?」
クリスは、曖昧に微笑む。彼女の前に積まれた本は、一冊が開かれているだけで、他はユーナが積んだままのようだった。
なお、提出期限は明日である。