金曜、夜。集議堂、その2
四人はしばらく何も話すことなく、顔の無い少女の像を見つめていた。
どのくらい時間が経ったのか、東の窓から明かりが差し込んで、奥の『双頭鷲』旗を照らし始める。
清廉な朝がやってきた。
その時、女性の声が響く。
「おはようございます、皆さんとてもお早いのですね」
それは、澄んだソプラノの声。『双頭鷲』旗の前に、いつの間にか女性が一人、佇んでいる。彼女がゆっくりとした足取りで歩き出すと、艶やかな黒の長髪が優雅に揺れた。
黒曜石を思わせる瞳に、透き通るような白い肌。どこか人間を超越した雰囲気さえ感じられる。それは、一つ年次が上の先輩、昨年の『幽体捕獲』唯一の合格者であるローリス・イルトゥース。
「ローリス様?」
「あら、わたくしのことご存知なの? ユナマリア様」
「わたしのことはユーナとお呼びください」即座に願い出るユーナ。
「判りました。ユーナさん。では、わたくしのこともローリスと呼んでくださいね」
「そんな、飛んでもない」
ユーナがびっくりして首を振ると、ローリスはくすくすと笑う。その表情には、呪門貴族がしばしばユーナに向ける特有の蔑むような色は微塵も無かった。
「ところで、皆さんは、この彫刻をご覧になりにいらっしゃったのでしょう?」
「そうです」とアンナが答える。
「それも、真実を知るために」
「どうして、それを?」
「あら、だって、ずっとその彫刻家を見ているんですもの」
いつの間にかローリスの表情から微笑みが消えていた。
「真実を知るにはそれなりの代償が必要です。あなた方にはその覚悟がありますか?」
四人は黙って顔を見合わせた。誰もなかなか言い出せない。
「……そう。まだ、早いのかも知れませんね」
残念そうに言ったローリスは、おもむろに出入り口に向かって歩き出す。
「あ、待ってください、ローリス様! まだ訊きたいことが!」
ローリスは振り返る。
「その子は誤解を受け、有りもしない罪のために存在を消されてしまいました。彼女のことを可哀想だと思うなら、どうか忘れないであげてくださいね」
ローリスは微笑んでそう言い、それからすっかり明るくなった扉の外へ姿を消した。
朝の光の中、眩しさに気を失いそうになりながら、四人は集議堂から広場に出た。すでにそこには市が立ち、人で賑わっていた。パン屋、野菜屋、果物屋など、朝の食卓に饗せられる食材が売られている。
その中に肉屋があるのをユーナは見つけた。ヴルスト(ソーセージ)や生肉が台に並べられている。ピンク色の中に、どす黒い物が目に付いた。血を使ったソーセージである。
「……真実は『血色の記録』の中にある……とか。まさか、ヴルストは関係ないよね……」
何の気なしに、ユーナは呟いていた。
突然、はっと何かを思いついたアンナが、ユーナの肩を掴む。
「今、何て言いました?」
ユーナは必死な表情のアンナにびっくりしながらも、
「えと、『お肉は関係ない』?」
と自分の台詞をそっくり返した。
「そうではなくてっ」鬼気迫るアンナの声。
ユーナは気圧されながら答える。
「じゃあ、『血色の記録』?」
「血色……それです!」
アンナが叫ぶ。彼女にしては珍しい、周囲にいた市場の人たちが驚いて振り向いたほどの声だった。
「な、何事?」と、歩きながら寝ぼけていたニキアが一気に目を覚ます。
「そうですよね、どうして気づかなかったんでしょう」
「どうしたのよ?」
「ブラジウス聖堂で聞いた言葉です!」
「それが、何か?」
「『サングイネア』は『血』と読むのではないかと思います」とアンナは興奮して思いついたことを説明する。
「ええ、確かにそうとも読めるけど……」
それがどうかした? と首を傾げてユーナは訊いた。
言語を他の言語を訳す――この場合はラテン語をクヴァルティス語に訳すことになる――場合、訳す言葉にはいくつかの候補が存在する場合がある。『サングイネア』という単語はもともと『血』という意味合いをもつ。そして、血→血は赤い→『赤色』と意味が派生した訳である。
「派生した意味ではなく、もともとの意味である『血』という訳を用いるんです」
「でも、『図書館の血の記録』ってなに? アンナは思い当たることがあるの?」とユーナ。
「私たちはそれを確かめるために、図書館に行かなければなりません」
「調べ物をするなら、確かに図書館だよなぁ……」
「そうですよね」
「いえ、関係するのは『七日間事件』です」
「『七日間事件』?」
アンナ以外の三人が同時に声を上げ、周囲の注目を浴びる。
「で、それって何?」とニキア。
「ハルトゥス帝の暗殺未遂事件のことだな」男の声がそれを継いだ。
声だけでユーナには相手の目星がついた。
「また出たなレオンハルト・アルシス・リッツジェルド伯爵」
ユーナは素手で構えを取る。
「また出たなとは甚だ心外だな、ユナマリア・アルア・リーズ侯爵家ご令嬢」
レオンハルトは傲然と言い返した。
「フルネームで呼ぶな!」
「その言葉、そっくり返そう」
「……で、何しにきた?」
「散歩をしていたら、ローリス・イルトゥース嬢をお見かけしたのでね。彼女に会っていたのは君たち……なのか?」
「そうだけど……」
「なるほど」
頷いてから、レオンハルトは含み笑いをした。
「なぜ笑う?」
「いや、すまない。意外だったのでね」
「悪かったな。あたし達がローリス様に会ってたら、どうだっていうの?」
「どうというか……、そうだな、嬉しいのかな」
「……なんで?」
ユーナは不可思議な物を見る目でレオンハルトを見た。
「何の知識もなかった君たちがちゃんと道標を辿っている。これが嬉しくない訳がない。……何の手伝いもしてあげられなかったしね」
道標を辿っていると、この男は言うが、実際のところは行き詰まっている。しかし、それを素直に表にだす必要はない。
「手伝い、ね。そうね、あんたは、よく私の前に現れる割には秘密主義よね」
「それは仕方がない。理由がある」
「そして、その理由を教えられない理由がある」
ユーナが台詞を奪って言うと、レオンハルトは笑顔で、「そうだ」と答えた。
「あんたがそんな奴だって、判ってるわよ」
ユーナはため息をついた。
「すまないな」
「謝られる意味が判らない」
「なんかさ」とニキアが会話に割って入った。
「あんたら、痴話喧嘩してる?」
「そんな訳ない!」
「俺としては、仲の良い会話をしているつもりなのだがね」
レオンハルトはそう言ってとぼけて見せた。




