森の仲間 きつね坊とうさぎ姐さん
森が寝静まった頃、森の中心、原っぱの片隅に毛玉が2匹。横倒れの苔むした丸太の上に、月明かりに照らされながらちょこんと座っていた。
「こんばんは、坊。今夜はどうしたのかしら?」
少し眠そうに赤目を垂らしたうさぎ姐さんが坊に尋ねた。
「ねぇ、うさぎ姐さん、幸せってなんだろね?」
坊は目をぱちくりと瞬きながら、真摯にうさぎ姐さんを見つめていた。いつも穏やかな瞳をしてハミングする毛玉とは真逆の相好に、うさぎ姐さんは少し思案し、一拍置いてから答えた。
「杞憂なく笑ってられる状況のことじゃないかしら?」
そう答えながら、じっと坊の瞳を見詰める。
「杞憂ってなに?」
ひくりひくりと器用に髭を揺らしながら、うさぎ姐さんに尋ねる坊。
「取り越し苦労のことよ」
「ふーん」
分かっているのか、いないのか。たいして興味の無いように答える坊の瞳は透明感を帯びている。
そんな坊に、うさぎ姐さんはゆっくりと話し始める。
「たとえば人間は悲しいことや苦しいことがあると笑わなくなるけれどね、悲しみや辛さなんて生きてる最中の些細なことだわ。大半のことを大袈裟に捉えすぎなのよ。針小棒大ってものよ」
「 どうやったら辛さを些細なことって思えるの?」
「 そうねぇ、坊は綺麗なものは好き?
たとえば、お花。カラフルな空模様。木漏れ日。雨に濡れた蜘蛛の巣。雪の結晶。夜露を纏った緑葉。森の外れにある色とりどりのステンドグラス。坊の好きな人間の、好いたものへ向ける顔。
どうかしら、当てはまるものはあった?」
「うん、いっぱいあった!」
綺麗の例を挙げる最中、 少しずつ坊の瞳に輝きが増していた。
「 それはよかったわ。
あたしと坊の価値観は似てるということよ。ふふ、嬉しいわ。
辛さを些細なことだと感じられるようになるにはね、綺麗だと思えるものを沢山自覚なさいな。
辛いことや悲しいこと、苦しいことにかまけてる場合じゃないわ。
辛いことが1つあるのだとしたら、綺麗だと思えるものを2つ自覚なさい。
辛いことが5つあるのだとしたら、綺麗だと思えるものを10自覚なさい。
そうすれば、辛いと思っていたことなんてあっという間に記憶の片隅に追いやってしまうわ。
そのくらい些細なことなのよ」
うさぎ姐さんはそう言って睫毛を伏せた。真白い毛並みに少しの影が落ちる。そして淀みなく続ける。
「 少しでも綺麗だと感じるものに、きちんと目と心を向けなさい。
綺麗なものを自覚するということはね、好きなものを自覚するということよ。
好きなものを自覚するということは、自分を知るということ。
自分を知るということは、自分を愛するということ。
自分を愛するということは、自分を愛してくれる者を愛するということ」
坊を見る瞳はどこまでも優しく、慈しみに溢れていた。
「ふふ、分かるかしらね?」
「うさぎ姐さん、愛ってなんだろう」
「愛は、そうねぇ、大切にするってことじゃないかしらね」
「大切ってなぁに?」
「 愛しいってことよ。
大丈夫、愛しいものに出逢えば、自ずと分かるわ」
分かったような、分からないような、そんな不思議な顔をした坊の頭に、もふもふの手が置かれた。
「大丈夫よ、今日はゆっくりおやすみなさいな」
そしてうさぎ姐さんが頭を撫でると、坊の瞼は下へと落ちていき、ついにはコロンと体を倒し、丸太の上に丸くなった。
ふふ、と赤い目を細めるうさぎ姐さんと、耳をぺたりと折りながら丸くなるきつね坊。そんな2匹の真夜中の内緒のお話。
月明かりの下、微かに聴こえる坊の呼吸が、草原に溶けていった。