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「翔さん、おかえりなさい。」
風鈴が不規則なリズムで鳴り響くと、貴方の声は一層か細く感じられた。この方は日和さん。色白い肌に薄紫の浴衣を着て髪の毛はお団子にして清楚なイメージである。
「ええ、そちらの子猫もお元気ですか」
日和さんの家に突然やってきた子猫の事だ。
私や他の人には懐かないのだが、何故か日和さんだけにはひどく懐いて離れないのである。
「先程、美味しそうに煮干しを食べてましたよ。この子、うんと食欲がありましてね」
これはまた、嬉しそうに話すのだ。私も少し口角を上げ、2回ほど頷くとその子猫を優しく撫でてやった。可愛らしい鳴き声が聞こえる。
私は大学の帰り道、いつも日和さんを見かけていた。次第に仲良くなりたまに家に入れてもらうと少々お茶を交わしてから家に帰ることもあった。
「翔さん、今日はお茶要らないのかしら。」
寂しげなトーンで私に話しかける。私はいつも、この話し方に弱い。
「そうですね、今日はお天気も良いですし、飲みましょう。」
そう言って空を見上げるが山のある西の方ではどんよりとした雲が迫ってきていた。
「あら、とても良いとは言えないけれど、貴方が一緒にお茶してくれるなら構いませんよ。」
甘い微笑みを見せて私の荷物を持ってくれた。この人は時折、意地悪だ。
「重たいのね。これ全部頭の中に入っているの?私だったら気が遠くなります。」
私のリュックには参考書にノートそれから沢山の辞書が入っている。調べる事が好きで、新しい言葉を知る度に世界が広がるような感じが、たまらないのである。
「いつか全部頭に入れますよ。日和さん、貴方が考えているよりずっと面白いですよ。」
まあ、と驚いた感嘆を漏らし夏には似合わない白い頬を膨らませた。
「意地悪なのね」
それは貴方もですよ、と言いたい所だったがこれ以上拗ねさせたらお茶を頂けなくなるだろうと思い、黙って微笑み45度程顔を下に俯けた。
座布団に正座で座ると日和さんはお茶を立てに行ってしまった。風鈴が激しく音を立て、部屋に轟く。今日は、風が少し強い。簾が大きく揺れ夏の香りがする。そういえば夏であったな、と今1度再確認させられた。
「外ばかり見てどうしたんです?」
おぼんをしっかり持ちお茶を持ってきてくれた。
どうやら今日はほうじ茶のようだ。
「いえ、今日は風が強いもんですから、夏の香りが良くするなあと思いましてね」
私は軽くありがとう、とお辞儀をするとずずっと音を立てお茶を飲んだ。お茶はどの季節にも合うものである。湯呑みを持つ手がじんわりと温かくなっていく。
「もうすぐ雨が降るんじゃないかしら、雨の香りがします。」
言われてみれば、と目を閉じ鼻から空気を吸ってみる。そもそも季節に香りなんて無いのだろうが、私にはそう感じたのだ。すると日和さんもすうっと鼻で息をして口から吐き出した。この家は日和さん1人しか住んでおらず、無駄に広い部屋はいつも閑散としていて寂しい気分になる。きっと子猫を拾い、飼い始めたのは寂しいからではないか、と勝手に推測していた。
「そうですね。そういえば今日は傘を忘れてしまいました。もし雨が降り始めたら、止むまで留置させて頂けないでしょうか。」
日和さんは垂れた髪の毛を耳にかけると少し上目遣いで私を見て構わないと言うように、こくりと頷いた。
「私、雨好きなの。雨音ってなんだか心が切なくなって…」
そこまで言うと世間の何もかもを知っているかのような闇色の瞳を瞼で閉ざし、序に口も結んだ。
わたしは何となく彼女がこれ以上言わない理由を察した。私は鞄から一つの本を出し、彼女へ差し出した。
「良かったら読んでみてください、素敵な言葉が沢山書かれています。」
この本は谷川潤一郎の細雪という本だ。淋しそうな貴方には、この本を読んでもらいたかった。
「ありがとうございます。翔さんがおすすめする本は、毎度毎度素晴らしい物ばかりなので今回もきっと、素晴らしいんでしょうね」
軽くお辞儀をされると本をパラパラと見て床に置いた。
「いいえ。」
雷の音が遠くから聞こえた。直ぐに帰らないともうすぐ雨が降って来そうだった。しかし私達は敢えてその事は言わず、全く焦らず呑気にお茶を飲み、外の景色を眺めていた。このままゆっくり時間が進んでいけば…と欲が脳裏に過ぎていたり。
「ねえ、聞きたいことがあるの。」
そう言う日和さんを見ると何だか少し唇が震えているような気がした。こちらを一切見ず、外をさみしげに見つめていた。
「はい、なんですか」
日和さんはお茶を置くと立ち膝のまま僕に近づき、隣に座った。強い風が吹き、日和さんのせっけんの香りが匂う。僕の手の上に手を乗せると、ゆっくり僕を見上げた。
「…大事な物って、翔さんにとって何ですか」
切なそうにこちらを見られると僕は戸惑って目を逸らした。何だか今日は、一段と意地悪だ。
「そうですね。貴方には教えられないです。」
そう言ってやると微笑んで頭をゆっくりと撫でた。猫のように可愛らしく目を掠めると溜息を吐いた。
「意地悪ね。」
そのまま頭を僕の胸に置いた。雨がポタ…ポタ…と少し降って来た。日和さんの行動はいつも読めないもので、時折よく分からない事がある。
「意地悪なのはお互い様じゃないですか?」
なんで?と言うようにこちらを見上げ首を傾げられ、思わず笑ってしまうとぷくりと頬を膨らませ、拗ねてしまった。
「雨が降って来たからここに居させてあげようと思いましたけど、やっぱり帰って貰おうかしら」
そう言われてしまうと、僕は参った、と表すように一礼した。また日和さんの兎のような可愛らしさに耐えられず、口元に手を当て、くすくすと笑う。不思議がる日和さんをちらりと見て、重ねてきた手を離してあげた。
「僕にとって大事なものは、言葉じゃ表せない程、儚いものです」
雨がざぁっと強く地面を叩くように降り始めた。日和さんは僕の言葉を聞いて何か考えるようにじっと机を見つめていたが、雨の音でふと、我に返った。いけない、と部屋に入り込む雨を防ぐために窓を閉めた。篭った雨の音が部屋で響いている。戻ってきた日和さんに、同じ質問をした。
「では、日和さんにとっては?」
日和さんは正座をするとすっと下を向いた。僕はん?と顔をのぞいてみたが、反応がない。ふう、っと日和さんは一息つくと、口を開いた。
「私は親もおらず、兄弟もいません。戸籍上は居ますが、私が 家出 をしてから全く顔も合わせてないのです。そんな状況で今、大事なものと言うと」
そこで言葉を詰まらせ、どうしたのかと日和さんをじっと見つめると、段々と顔を上げて目があった。まさか。そうは思ったが、次第に日和さんの顔も林檎のように赤くなって行くのです。動揺する僕を裏腹に、日和さんは迫ってきた。また僕の手を取り、ぐっと体を引き寄せた。
「ねえ。」
耳元で囁かれ、全身に力が入る。降り続く雨の音も聞こえなくなるくらい、心臓の音が煩い。今、僕はどうしたらいいのかわからず、空白の空間にぽつりと置かれて居たのだ。
「お願いがあるんです。聞いてもらえますか。」
僕はごくり、と唾液を一口飲む。日和さんは僕の首に手を回した。とりあえず日和さんの言いたい事を聞こうと、頷いた。




