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「紫! 鍋!」
「あぁ、ごめんごめん」
目も前の鍋は今にも吹きこぼれそうな程に白く沸騰していて、反射的にコンロの摘みを回し、透明になってしぼんでゆく泡にインスタントの麺を二つ投入する。
「ぼーっとしてると危ないよ? 火事になったらどうすんの」
「ごめんって」
「気をつけなよ~」
「はいはい。……でも、自分のお昼ご飯を作らせてる相手に言う言い方じゃなくない?」
「じゃあ、私が作ろうか?」
「……いや、やっぱいいや」
「私だって、インスタントラーメン茹でることくらいできるのに」
「そっちの方が火事になりそう」
「そんなことない」
「そんなことあるの。梓、一切生活能力ないでしょ。……ほんと、今までどうやって生きてきたんだか」
「やればできるもん!」
「はいはい」
そもそも私は彼女が料理しているところなんか見たことがない。
料理どころか、洗濯も入浴も。私が言わなければしようともしない。
「梓、タイマー」
「何分?」
「三分」
「あーい」
軽い電子音が四回と、そのあとにボフっとベッドに倒れこむ鈍い音が聞こえる。
この部屋は狭い。狭いうえに日当たりも空気も悪い。
シャワールームにトイレとベッド。ビジネスホテルならそれだけで一杯になりそうな床面積にも関わらず、そこに加えてキッチンとテーブル、箪笥が詰め込まれている。
一階をアトリエとして使用している都合上、生活に必要な物が全て二階へ集中してしまっているのだ。
そんな部屋に私はここ最近、毎日のように通っている。
彼女と会ってからもう半年。大学の後に寄ってみたり、バイト帰りに寄ってみたり。家まで歩いて数分という身近さのおかげで、第二の我が家みたいな状態になってしまっている。泊まっていくこともしばしば。私用の下着や服がこの家に置いてあるほどだ。
なにをしているのかと言えば、絵を描いたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、ごはんを作ったり……。
こういうのを通い妻って言うんだっけ。……いや、どちらかと言えば通い母だろうか。
季節はもう夏。ここに通うようになって私には小さな変化が起きた。意識の変化とかそんな感じのやつ。大して問題ではない。
ただ、問題なのは梓にも変化があるということ。
「ほら、またぼーっとしてる」
「ん?」
「鍋! 吹きこぼれるよ」
「わっ!」
また慌てて火を弱める。最近はどうも考え事が多い。それもこれも全てこいつのせいなんだけど。
「ずっとぼーっとしてるよね」
「梓のせいだよ」
「私?」
「そ」
梓の問題。それは彼女にとってあまりに大きい。
「梓、最近、絵描いてないでしょ?」
「今もずっと描いてたじゃん」
「いや、違う。デッサンじゃなくて、もっとちゃんとしたやつ。時間をかけて絵を描くってことやってないでしょ?」
「あー……。そゆこと」
梓が時間をかけて絵を描く姿をもうずっと見ていない。
前にこのことを聞いた時には、私がこの家にいると集中ができないと言っていた。
その言い分も分かる。だから私はここに来る時間も気を付けるようになったし、入る前には作業中かどうかを確認している。
だが、私が初めて安曇桜を見た朝。あの時、ものすごい勢いで描いていた絵は完成する気配がない。あの絵に触った形跡すらも最近は無いのだ。
「うーん。ああゆうやつは、なんか、インスピレーション? みたいなのが降りてこないと描けないんだよね」
「あの日の朝は?」
「あの時はなんか、急にそれが降りてきて描き始めたんだけど、それ以降はさっぱり」
「そっか……」
あの絵、あの朝キャンバスの上で安曇桜に叩きつけられていた絵。あれは私の絵だった。
前日に紫だけを使って描いた絵。それを見て、安曇桜は何を思ったのか、私の絵の上から作品を作っていたのだ。
初めて見る彼女に驚いたということもあるが、私が一番に興味を注いでいたのは、キャンバスの上だった。自分の作品が一瞬ごとに進化していく様。無骨な石を削って宝石にしていくような過程を見て、私は安曇桜という人物に恐怖したのだ。
願うならあの作品を完成させてほしい。それなのに一向にその絵は進まない。私が描いた紫に、安曇桜の紫が乗っているだけだった。それはまだ安曇桜の作品ではない。
「あの絵、完成させてほしいなぁ」
「そんなこと言ったって……」
「急かしてるわけじゃないんだよ。あの絵は梓にあげるし。ゆっくり描いてくれればいい。でもやっぱり心配じゃん?」
私は見たい。あの絵に命が吹き込まれる瞬間を。彼女が起こす奇跡に触れたい。
心配なんて言葉は体のいい表現だ。結局私は梓を通して梓の作品を見ている。見ていたい。
「ごめんね」
「なんで梓が謝るの?」
「色々と気をつかってもらってるのにさ」
「好きでやってるんだだからいいの」
梓のスランプを引き起こしているのはなんなのか。それが私の存在だというのなら、ここから去ることも考える。
でもまずは、それ以外の可能性を探ってみたい。
いつのまにか梓の面倒を見ることが私の日常になってしまっている。できる事ならばこの日々は手放したくない。
「はい! この話終わり!」
梓が手をパンと叩くのと同時にアラームが鳴る。
「ほら! ラーメンできたよ! 早く食べないと伸びちゃう!」
この空気を払拭したいという思惑がバレバレな言い訳と共に、梓はベッドの上でバタバタと足を動かす。
小さな子供の様に見える彼女を横目に、私は鍋にインスタント麺の粉末を入れ混ぜる。野菜なんて入っていない、麺とスープだけのラーメン。大学生とニートのお昼ご飯なんてこれで十分だ。
棚から二つのどんぶりを取り出す。他人の家に自分用のどんぶりがあるなんておかしな話だ。その嬉しさを感じながら、鍋の中身を二つに分けた。
どんぶりをベッドと隣接しているテーブルまで運び、いただきますと二人で声を合わせる。
熱いラーメンをすする瞬間。なぜかそこに居心地の良さを感じた。




