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タンポポの牙は紫色に舞う  作者: 卯月樹
1. 邂逅と才能
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 いつの間にか太陽は沈んでいた。そう思う程度には、どっぷりと集中していた。

 もともとこの部屋に入る光は少なかったが、今ではその少しさえも無くなり、蛍光灯の光だけがキャンバスを照らしている。

 集中から解き放たれた開放感が次に脱力を呼び、さらに疲労を連れてくる。

 じんわりと体中に熱が戻る感覚。そして、今までは一切気にならなかった個所が次々に痛み出す。

 特に肩と腰。ついでに目。石のように固まって、動かすとバリバリと音を立てて崩れそうだ。

 無理やり両手を頭の上に持ってきて、座ったまま大きく伸びをする。無意識に喉の奥から声が漏れた。

「お疲れ。すっごい集中してたね」

「いつの間にか日が暮れてたよ」

 首を回し、梓が座っていた場所に視線を向けるが、そこには誰もいない。

 気が付けば背後、この部屋の入り口から声がしていた。

「日が暮れそうだよって一回言ったんだよ? 全く聞こえてなかったっぽいけど」

 玄関の扉が少しだけ開いていて、外から梓の声が聞こえている。

 下を見るとドアに足を挟んでいるらしい。

「開けてもらっていい? 両手ふさがってるんだ」

「あっ、ごめん、今開ける。っ!」

 そうして立ち上がろうとした私は、無様に顔から床に転がってしまう。足に全く力が入らなかった。

「……った~!」

 どうにか自力で扉を開けたらしい梓は私を見降ろしながら爆笑する。

「もう……。体力なさすぎだよ……」

「だって……。こんなに集中したの初めてかもしれないもん」

「私、最長で30時間描きっぱなしだった事あるよ」

「梓と一緒にしないでよ……」

「記憶がまるまる飛んでて、気が付いたら絵が完成してるの」

 流石にその時は倒れたけどねと笑う梓に恐怖すら感じる。

 30時間……。なんだそれ、もう人間じゃないじゃん。

「コーヒー入れてきたよ。それにしても丁度いいタイミングだったね」

 はい、と手渡されたマグカップは暖かく、握ったその手が少しずつ痺れていくのがわかる。心地よい感覚。

 そして私はコーヒーに口をつけた。……筈なのに。

 強烈な甘さを感じて、あわててマグカップの中を覗く。するとそこに私の知っているコーヒーは無く、黒と呼ぶにはあまりにも白い、もはや白でしかない液体。

「ねぇ梓。これコーヒー?」

「うん」

「コーヒーって黒い飲み物……」

「あ、ごめんミルク入れない方が良かった? 私苦いのあまり好きじゃなくて」 

「ミルクはいいんだけど……」

ミルクを入れる入れないの問題ではなく、そもそもコーヒーが入っているか入っていないかのレベルではないのかと思う味。牛乳とハチミツの味にほのかに香るコーヒー。

「私いつもこのくらいで飲んでるんだけどなぁ」

「コーヒー牛乳でもここまで白くないよ」

「まあ、疲れた時には甘いものってことでここは一つ」

 そのまま梓は玄関とは反対側にあった扉へ向かう。そういえば、その部屋の正体は未だしらない。初めての会話で、となりの部屋にソファがあるとかなんとか言っていた気もする。

 あの会話も今日なのか……。まだ出会ってから半日も経っていないとは、にわかに信じがたい。

「こっちこっち」

 梓はその扉を少しだけ開け、私向かって手を招く。

 固まった体をゆっくりとほぐしながら立ち上がり、梓の元へとたどたどしい足取りで近づいていく。

「ここはね。私の憩いの場所」

梓が電気のスイッチを押し、明かりを点ける。

朝の衝撃のように、また数々の作品が目に飛び込んでくるのかと構えていたが、そんなことは起こらず、そこには小さな部屋に大きなソファ。冷蔵庫の上に電子レンジがあるだけの部屋。

部屋の大きさは本当にこじんまりとしていて、おおよそ三畳といったところか。

その半分を大きなソファが陣取っている。

 梓はマグカップを電子レンジの上に置くと、そのままソファに向けてうつ伏せにダイブする。

一気に舞い上がる埃と共に気持ちよさそうに伸びをすると、ぴたっと動きを止める。

次は急に起き上がり、ソファの奥に座りなおすと、こちらを向いて笑った。

「なにしてるの……」

「紫もっ!」

 目をキラキラさせながら、自分の座っている右隣をポンポンと叩きはじめる。そこに座れというのか。

 舞い上がった埃は蛍光灯の光に照らされて雪のように見える。

 抵抗を感じ、座ることを躊躇っていると、梓はソファを叩く音を強くした。

「わかった、わかったから! 埃すごい舞ってるから!」

 内心、本当に同い年なのかと疑問を抱きはするが、私もマグカップを置き梓の横に座る。

 ゆっくりと体重をかけるとソファの反発は想像より弱く、どんどんとお尻を飲み込んでいき、終いには体全体を包み込まれたような感覚に陥る。今の私に体の自由はないと言わんばかりの浮遊感。

 これは、やばい。絶対に抜け出せなくなる。

 今まで酷使していた体がソファに釘付けになる。すべてが重い。

「ねぇ、紫」

「ん?」

「今日はありがと」

「……なに? 急に」

「だって、初めて会った人の家に普通入ったりしないよ」

「……それ、梓が言うの?」

 私だって初めは警戒していた。それでも、梓はそれをかき消すような雰囲気を持っている。いつの間にか閉ざしていた心の扉の中に入ってくるような、そんな感覚。

「私ね……。こんなに楽しかったの、生まれて初めてかもしれない」

「……大げさだよ」

「そんなことないって! 学校にいた時は友達って言える人いなかったし」

「じゃ、私が初めて?」

「うん。初めての友達」

「それにしては、人との接し方うまい気がする。学校で友達がいなかったのが信じられない」

「まぁ、色々あったからさ」

 やはり小さい頃から有名だったりしたのだろうか。近寄りづらい空気を纏っていると言われれば分からなくもない。

「私、紫の事好きだよ。こんなに誰かと話が弾んだの初めてだし」

「梓のコミュニケーション能力が高すぎるんだよ。私はそれに引っ張られてるだけ」

 急にそんなことを言い出す梓に少し恥ずかしくなる。

落ち着いた空気。ゆっくりとした会話がキャッチボールされる。

「ううん。それでもやっぱり楽しかった」

「……楽しいって、後半は私ずっと絵描いてたじゃん」

「それでいいんだよ」

「やっぱり梓、変」

「会話があったとか、なかったとか、そういうのじゃないの。誰かが部屋にいるだけでね。なんかすごく暖かいの。いいなぁって感じるの」

「……へぇ」

 自分でもそっけないと分かるほどの自然な返答が漏れる。

 別の事を考えていた。梓のプライベートな所。私が踏み込んでいいのかは分からないが、やはり気になる所が沢山ある。

「……梓は、さ。家族は、どうしてるの?」

 私の隣で梓の肩が震えたのが分かる。

「ごめん。やっぱ、何でもない」

「いいよ」

 深い息を一つつき、梓は話し始めた。

「……私はね。ここで一人になって、もう5年になるのかな。……なんて言えばいいんだろ。……置いていかれたんだよ」

 自分から踏み込んだ場所だ。覚悟はしていたが、やはり他人の弱みを聞くのは怖い。

 弱みを聞いてしまったら、関係性が壊れるような感覚がある。

 誰とでも仲良くなるが、すべてに一定の距離を保っていた私だったら、今までこんなことはしなかった。

 彼女に近づきたいと思ってしまったのだろうか。自分の行動が理解できない。

「置いていかれた?」

 なんだか、私の行動が彼女によって操作されているかのような感覚。そんなことはないと分かっていてもそう感じてしまうのだ。

 彼女に踏み込まなくてはならない。そう感じさせる何かが、彼女にはある。

 それでも、このまま逃げるわけにはいかない。

 向こうが向き合ってくれるなら、私も向き合わなければならない。

 距離を詰めてくれるなら、私からも歩み寄らねばならない。

「私のお父さんね、ヨーロッパの人なの」

「じゃあ、梓ってハーフ?」

「気が付いてなかったの? こんな髪の色してるから、すぐに分かるものだと思ってた」

「てっきり染めてるのかと」

 自分のくすんだ金の髪を弄りながら、静かに笑う。

 人形みたいな顔をしていると思ったのは、ヨーロッパの血が入っているからなのか。

 改めてそう見ると、その通りだ。もしかすればこの顔や髪のせいで学校では溶け込めなかったのかもしれない。

「顔はお母さんに似てるからかな。よく染めてるって言われるんだ」

「髪、綺麗なんだから、もっとちゃんとすればいいのに」

「髪に構う余裕なんてないもん」

「もったいない」

 本当は切りたいんだけど。そう言って髪を纏めて、肩に流す。

「それでね、そのお母さんを追いかけて、お父さんは日本に来たんだ。でもお母さんは私が13の時に心臓病で死んで、私とお父さんだけが残った」

「……うん」

「お母さんは元々体が弱かったんだけど、私を産んで弱っちゃったみたい」

 父に置いていかれた。母が病死した。衝撃の強い話題を淡々と語る梓に私は圧倒される。

それでも、今の私は返事をするだけでいい。うん、と首を縦に振っているだけでいい。そんな気がした。

梓の気持は私にはわからない。同意はしてはいけない。わかったようなふりは絶対に駄目だ。

「私が15の時。お父さんは日本を出て行った。色々あったんだけど、私は連れて行ってもらえなかった。お父さんは元々画家でさ。日本に買ったこのアトリエだけ私には残ったってわけ」

「……うん」

「私といるとね。お父さんは泣くんだよ。多分私がお母さんに似てるから。後悔ばかりため込むの。だからそれが辛くて逃げたんだと思う」

「……ん」

「生活費は振り込んでくれて、たまに電話もする。すごくいい人なんだよ……。でも、私はそれでも、連れて行ってほしかった……」

 梓の声は段々と響きを失い、次第に鼻声になっていく。

「それからはずっと一人で、私に残ったのはこのアトリエだけ……。だから絵を描き始めたの」

 私が彼女を知った一ページの特集。『安曇桜はずっと絵を描いて育ってきた』そんな一文が書かれていた気がする。その重みをこうして感じる。

「小さいときからお父さんの絵は見てたし、芸術品に囲まれて育ったから、自分でも驚く程成長した。やっぱり生まれた瞬間から芸術に触れてれば、才能は育つんだね」

 ふふっと笑った声。その声に少し安心するが、どこか自虐的なものを感じた。

「私の家族はこんなもんだよ……」

「そっか……」

「どう思った?」

「どうって……。大変だなって」

「なにそれ、冷たい」

「同情してほしかった? 泣いたらよかった?」

「それは、……困る」

「でしょ?」

 ふと隣を覗くと梓が笑う。その目からは涙があふれていた。

「こんなこと、人に話したの初めて」

「……そう」

「やっぱり、紫でよかった」

「そんなことないよ。たまたま私だっただけ」

「それでも、いいんだよ」

鼻をすする彼女は、きっとまだ子供のままなんだと思う。

辛い思いをしてきて、人との関りが少ない状態で、才能だけが育ってしまった。

心と体と世間のイメージ。そのすべてがちぐはぐになったまま、生きてきたのだ。

温もりを知らない、才能の化け物。

改めて、梓の存在をそう認識した。

圧倒的な強さと、今にも崩れそうな弱さを持つ少女。私が守らなくてはいけない。何故だか強くそう思った。

私の肩に梓の頭を感じる。その途端、大きな眠気が波となって襲ってきた。

 安心しているのだ。

 引っ越してきたばかりの何もない部屋とは違う空気。物であふれていて声があって、隣に誰かがいる。

 そんな夜が妙に心地いい。

隣に誰かがいるだけで心が落ち着く。さっき梓が言っていた暖かさとはこれだろうか。

すぐに分かってしまうとは思ってもみなかった。

それは優しくて暖かくて、思考を緩慢にしていく。

いつの間にか、梓は私の肩で寝息を立てている。

そのリズムが肌を通して、私の脳に響いているようだ。

心地いい律動。それは子守歌のように、一定の間隔で鳴る。

私の意識は暖かさの中に溶け、彼女と混ざりあってしまうような感覚を覚えながら、深く、深く、沈んでいった。


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