5
太陽は昇りきり、このアトリエにも太陽の光が少しだけ差し込んだ昼下がり。
目の前の小さな講師の話は終わり、そろそろ帰ろうかと腰を上げる。
「じゃあ、私そろそろ帰……」
「何言ってるの。これからじゃん」
頭の上に疑問符を浮かべ、中腰で固まった私に、梓は笑いかける。
机の上から何かを掴むと、私の手にそれを無理やり掴ませる。視線を自分の手に向けると、それは木のパレット。
「芸術は頭で理解するもんじゃないよ」
「いや、だって時間が……」
「まだまだレッスンは終わってないから」
「三限目……」
昼ご飯は食べていない。急いで家を飛び出した私のおなかは悲しく泣いている。それでも今から急げばぎりぎり授業には滑り込める。
「学校に行くよりもよっぽど為になると思うけど?」
「うっ……」
梓の指摘も間違ってはいない。
現に今の私は絵を描きたいと思っている。何年振りかわからない感情を抱いてるのだ。
精神論から入る梓の芸術へのアプローチは、私の心にすっと溶け込んでいる。
「でも……」
「大丈夫、大丈夫。軽くでいいから」
だから、軽くで油絵を描くのは梓くらいしかいないと言ってやりたい。
「時間かかるなら泊まっていってもいいし」
「泊り……。レッスンっていつになったら終わるの……?」
「私が満足したら」
「何それ……」
「とにかく! 描きたいと思った瞬間に描かなきゃだめ。これは絶対」
人差し指を私に向けて、ビシッと決め、もう一度机の上からなにかを持ってくる。
「はい。これ絵具」
のりが入った缶のような大きさの、四角い箱を渡される。
蓋にはひらがなで『むらさき』と表記されていて、中を覗いてみるとその通り、多種多様なメーカーの紫色の絵具。赤に近いものから青に近いもの、黒や白といった、様々な絵具が入っている。
「テーマの色を一つ決めて、絵を描くの。結構やってみると楽しいよ」
「一つの色」
「一つって言っても感性の問題だから、基準は曖昧だけど、スランプの時とかにやると気分転換になるの」
つまり、私は紫で一枚の絵を描かされるわけか。
「……なんで紫?」
「名前が紫だから」
「……やっぱり」
「嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、昔からなにかと、その扱いを受けてたから」
小さい頃から私の周りには何かと紫色が集まってきた。
配られる折り紙も、母が買ってくる洋服も、友達が誕生日にくれたボールペンも。
それでも、鶴を折るときは違う色も使ったし、全身紫色でそろえた訳でもない。ましてや筆箱なんて、もらい物以外で紫色は使っていなかった。今考えてみると全てを紫色で統一したことはなかった気がする。
絵は鏡。梓の言葉を思い出して笑いそうになる。そのまんまじゃないか。それは少し楽しそうだ。
抽象画はそこまで多く描いたことはない。
だが、この無数の紫を見ると、抽象画を描きたくなってくる。
イメージはまだ固まらない。
ただ、私の視線の先には額縁に入った梓の青があった。
「わかったよ。描く」
「そうこなくっちゃ」
「キャンバスは……。貰ってもいい?」
「もちろん」
梓は段ボールの中から一枚のキャンバスを取り出すと、イーゼルに乗せた。
「笑わないでよね」
「笑わないよ」
ふふっと笑って、梓は私から離れた段ボールの上に座り、スケッチブックと鉛筆を握る。
鼻歌交じりに線を引き始めたので、私は彼女から視線を外して前を向き直す。
とりあえず、日が暮れるまではここに向き合ってみよう。そう意気込んで白を見つめた。