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それから太陽の角度が少しだけ変わるくらいの時間が経ち、私は今キャンバスの前にいる。今、本当ならいるべきはずのキャンパスではなく、梓のアトリエのキャンバスの前で半ば無理やり絵を描かされそうになっているのだ。
当の梓はというと、部屋の奥にあるダンボールの上に腰をかけ、スケッチブックを構えている。
絵を描く私の姿を描いているらしい。
人物のデッサンなんて久しぶりだなんて張り切っていた。油絵の抽象画を見せられたあとに、鉛筆で人物のスケッチとは……。おそらくこちらも高いクオリティの物が出来上がる事を想像すると、才能という言葉にますます気が滅入ってくる。
ただ何もせずに座っていても、目の前の真っ白なキャンバスは色で埋まるはずもなく、仕方なく筆を取る。
ここで絵を描くつもりなんてなかった。それなのにいつの間にか、何を描こうかなんて必死にイメージを膨らませている私がいる。
絵を描くことを楽しいと思ったのはいつ以来だろう。筆を握る手がいつもより軽い気がする。
さっき梓にかけられた魔法は、本物だったのかもしれない。そんなことを思いながら紫色の絵の具を手に取った。
それから私は、目の前の小さな同年齢の女の子に駄々をこねられていた。それも本当に同年齢か怪しくなるくらいの精神年齢を示した態度で。
「いーじゃん! 描いてよぉ。減るもんじゃないし! そこにあるキャンバスでちょちょ~っと描いてくれればいいの!」
梓は絵をちょちょっとで描けるのか……。その恐ろしさを再び実感した。
「なに言われたって、私は描かないよ。そもそも私の専攻、油絵だから。そんなすぐにできる物じゃないでしょ。恥ずかしいし」
「油絵専攻なの? もっと見たくなった」
「だから、時間的にも無理でしょ!」
「下塗りだけでいいから~」
「そんなの見てもなにも面白くないでしょ……」
「面白いよ。下塗りでだいたいわかるもんだよ」
「だったら尚更いや!」
「なんで! もう! 見せてくれるまで大学生かせないよ!?」
私の手を洋服ごと掴んだかと思うと、もう離さないとばかりに、両手でがっちりと抑え込む。
「ちょっと。話が違うじゃん! お昼には帰るからね!」
「描いてくれたらお昼には帰すって!」
「二時間で描ける訳ないでしょ!」
その時ポケットの中で携帯が震えるのが分かる。多分、朝送ったメッセージの返信だろう。二限目の授業は暇な座学だから、先生の言葉を聞き流しながら携帯を弄る友達の姿が目に浮かぶ。
今の私にとっては助け舟だ。友達から連絡が来たと、適当に理由を付けてここを抜けだそう。
しかし蓋を開ける……。いや、携帯を開いてみると、それは助け舟というよりは海賊船のようなもので。
『昨日引越しだったんでしょ、だったら今日はサボっても大丈夫じゃない? 課題が出る授業もないし。あとで理子と遊びに行くね』
見事に逃げ道を潰された。
その私の表情を見て、絶好のチャンスだと思ったのか。梓は私の腕をそのまま引っ張ってキャンバスの前の椅子に座らせる。
「分かった、分かった。見せればいいのね」
「最初からそうすればいいのに」
「携帯に今まで描いたやつの写真あるからそれでいい? 流石に今から描くのは無理」
「えー」
絵を描くごとに一枚ずつ写真を撮っている。昔見た雑誌に、自分の描いた絵を写真で撮ると客観的に見ることができて実力が向上する。なんていう記事が載っていたからだ。
藁にも縋る思いではじめたのだが、実際これといった成果は見られない。いつの間にかそれが癖になっていて、見返すこともない自分の絵が画像フォルダに溜まっている。
「えーって。仕方ないでしょ」
「まぁ、いいけど。我慢する」
私からケータイを受け取ると、てけてけとダンボールまで歩き、その上に座る。
「紫は適当にそこらへんの絵でも見てて」
そう言って梓は床や壁に散らばる絵を指さす。
「あ、うん」
実はずっと見たい気持ちを抑えていたのだ。
今までお預けを食らっていた犬のように、許しをもらった途端、壁に掛かっている絵へと足を進めていく。
雑誌で一目惚れした作家の未発表の作品だ。しかもそれらを全て生で見ることができる。美術館や美術展とは違い乱雑に散らばったそれらは、なんだか新鮮で、とても幸せな時間を過ごしているような感じだった。きまってすべての作品に埃が被っているのが残念だが、これも新鮮さの一つなのだろう。
額にすら入っていない絵に被った埃はもう絵の一部として溶け込んでしまっている。
こうして絵を見ていると、思うことがある。私は本当に芸術作品が好きなのだ。
作品を見ることが好き。他の人間の作品、そこに溶け込む様々な物が好きだ。それだけは純粋に好きだと言える。
ただ、それをいざ、自分が創る側に回るとなると、上手くいかないだけ。
「……ねぇ、紫」
「ん?」
沈黙に耐えきれなかったのか、梓が声をかけてくる。
「この絵ってさ、描いた順番に並んでる?」
「よく分かったね」
「なんとなくね。上の方が新しいかなって」
「残念。上は古いほうだよ。新しいのは下の方」
「えっ……」
梓は私の言葉に驚いたのか携帯をもう一度のぞき込む。
私程、大学に入って成長していない人間はいないだろう。一年の時の絵と二年末の絵を並べても、ほとんど成長していないことが分かる。私の成長は高校で止まっているのだ。
「なんでだろう……」
「え?」
「いや、なんでかなって」
そうやってぶつぶつと何かを唱えながら、梓は髪を搔きむしり何かを考えている。
そして数秒後。
「ねぇ、紫。私が絵のレッスンしてあげよっか。多分一日で一回りは成績上がるとおもうよ?」
ふざけた素振りなんて全く見せず、いたって真剣なまなざしで私を見ていた。
「学校に行くより何倍も有意義だと思うけどな」
梓がこちらを見て首をかしげる。
今日の授業は大して重要なものではない。だったら……。
そう考えた私は、いつの間にか首を縦に振っていた。
「ねえ、紫。自分の絵は好き?」
「自分の絵?」
レッスンと称して始めた質問の一つ目、梓から意外な質問をされて言いよどむ。
それでも、今の私にはこの質問に答える以外、行動の選択肢はない。
「うーん……。好きか嫌いかで聞かれたら、嫌いかも……」
「どうして?」
間髪入れずに梓の次の質問が飛んでくる。
「周りの人達とのレベルの差がすごいんだよ」
「そんなに?」
「うん。梓から見ればそこまで大きな差じゃないかもしれないけど、私から見ると大きな差」
「だから自分の絵が嫌い?」
「自分が下手なのは仕方ないって、開き直ってるけどね。……それでもやっぱり、好きにはなれないかな」
自分でも分かるほど乾いた笑いが漏れた。
そのあとも私はぽつぽつと自分の絵を好きになれない理由を、まるで愚痴のように話していく。ここまで人に話したのは初めてかもしれない。
いつもつるんでいる友達にさえ、多少の劣等感を抱いている。
ここまで簡単に黒い物を出せるのは、単に相手のレベルが自分と別の次元にあるからだろうか。
「そっか~」
「……なんかごめんね。愚痴みたくなっちゃって」
「いいのいいの。こっちも人の話を聞くことなんて滅多にないから新鮮」
「梓は、他人に劣等感とか感じる?」
ここまですごい絵を描けるなら。そう思って、何も考えずに口に出す。
「……あるよ。劣等感。……劣等感まみれ」
一度、すくんだように言葉をのみ、それから続ける梓の顔はとても苦しそうだった。
やはり、上には上の苦労がある。当たり前のことだ。今更ながら考えなしに発言したことを後悔する。
「でも、紫と違うところはある」
それはそうだ。彼女には才能がある。
「私はね、自分の絵が好き」
「……」
「自分の絵が大好きなの。どんな小さな作品でも、失敗作でも大好き」
それもそうだろう。私にだって才能があれば自分の描くものを好きになれると思う。
自分よりももっと上がいて劣等感を感じていようが、才能と技量があれば、自分の「作りたい物を作れるのだ。私とは違う。
「私はね、作品は自分の一部だと思ってるの。私が絵を描くときはいつも死に物狂いで、もうむしろ死にながら描いてるからさ。なんか、その度に、自分を削ってキャンバスに乗せてる感じがするの」
一生懸命言葉を選んでいるのが分かる。そしてその意味も分かる。
ただ、私はそんな感情を抱いたことはない。そんな真っすぐな思いを絵に向けたことはなかった。
「だからね。作品はどれも私なの。だから全部大好きなの」
「……梓は、なんかすごいね。私にはわからないよ」
「そんなことない!」
まっすぐこちらを見る梓の視線とぶつかる。
「自分の作品を誰かに見せたいって思ったことはあるでしょ? 自分の作品が褒められて嬉しかったことはあるでしょ? 自分の作品に自信があったことあるでしょ?」
確かに私にもそんな時期はあった。
まわりにちやほやされて、嬉しくて。評価されると嬉しくて。自信があったから大学も今のところに決めた。
「あったよ……。前までは、そう思ってた」
「だったら簡単。その時のことを思い出せばいいの。自分の絵を好きになれば、絵だって紫を好きになってくれる」
「……なにそれ、意味わかんない」
「意味なんてないよ。そもそも芸術なんてそんなもんじゃない? 結局精神論。評価されるかは別問題」
「やっぱり、天才の言うことは違う」
「でしょ?」
ニヤッと笑う梓につられて、こちらまで笑いが漏れる。
「絵はね、鏡なんだよ」
「また、分からないこと言う……」
「向き合ってみれば、嫌という程分かるよ」
腕を組んで偉そうに鼻を膨らませる梓は言う。
「紫は自信なさすぎ。はっきり言って昔の絵の方が私はよかったと思う」
「……そうなの?」
一つ大きなため息をつかれる。
「私はね、芸術に優劣はないと思ってる」
「それ、上に立つ人が言うとただの嫌味だよ」
「だから別の言葉でいうなら、紫の絵はつまんない!」
「つまんない!?」
「そ! どうせ、周りの人と比べられるのが嫌だったんでしょ。時間が経つにつれて、どんどん無難になってる。教科書みたい」
「教科書って……。いいじゃん。教科書なら」
「教科書みたいって、芸術家にとっては最低の評価だと思うけど?」
「そうかな」
「私なら、死んでも嫌!」
私には自信がない。そう言われてなるほどと思わないこともない。ただ、ここまで来てしまった私に、今更自信を持てなんて言われても無駄だろう。
「だから、紫に魔法の言葉を上げる。心して聞いて」
「……?」
「私はね、紫の絵、好きだよ?」
まっすぐな視線と、まっすぐな声。
鼓膜に甘やかに響くその言葉はじんわりと心に広がり、温かくなる。
なんて簡単な人間なんだろうか。こんな言葉でこれだけ嬉しいだなんて。
その暖かさは、きっと恥ずかしさで、嬉しさで、自信と呼ぶのだろう。
憧れていた人間にたった一言を掛けられただけで、それは簡単に生まれる。
「……ありがと」
「紫、泣いてる?」
「泣いてないよ」
「っそ」
クスクスと笑う梓に視線を受けながら、私は目頭に指をあてた。
それでも梓のレッスンとやらがこれだけで終わるはずは無く、それから、あれやこれやと、私の絵のダメ出しをしたり、自分の絵を持ち出してはその時の状況や心情を思うがままにしゃべったり。精神論と言いながらしっかりと技術のレクチャーもされた。
かれこれ二時間ほど梓はしゃべり続けたが、それを退屈に感じることはなかった。
目の前には、私の憧れていた絵の作者が、偉そうに雄弁をたれていたから。