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タンポポの牙は紫色に舞う  作者: 卯月樹
1. 邂逅と才能
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「んじゃ、入って入って。時間無いし、紫の絵も見てみたいし」

 梓は私の手を握ると、玄関の前まで引っ張った。

私の絵も見たいって……。私は大学に行かなくても、絵を描くことからは逃げられないのだろうか……。

 梓がドアノブを回し、アンティーク風のお洒落なドアが開く。それと同時に中から普段嗅ぎなれている絵の具の匂いが香る。

「ちょっと待って、電気、電気」

 部屋の中は外から見た通り暗く、昼だというのに日光はほとんど入ってきていない。

 ごちゃごちゃとした暗さの中央にキャンバスが一つ存在する。やはりそんな印象だった。

手探りでスイッチを見つけた梓がカチッとスイッチを押す。

「――っ!」

そして私は息を呑んだ。

私の頭にあったイメージが一瞬で塗り替えられるのを感じる。

 明るくなり鮮明になったそれらは、一目散に私の目に飛び込み、脳を強く揺さぶった。

 壁一面に、いや、それだけではない。床にまで無造作にばら撒かれているのは絵。

鉛筆画から、水彩画、油絵。それに描いてあるものも、風景画から抽象画、人物画までなんでもある。

 しかし驚くのはそこではない。この部屋に散りばめられた無数の絵たちは、皆が命を宿しているかのように、そして感情を持っているかのように、一つ一つが強く私に主張してくる。

自分を見ろと。

 赤。青。黄。緑。橙。藍。黒。そして白。

 それぞれが一つ一つ完成された作品で、作者のその驚くべき才能を訴える。

「汚くてごめんねー」

 汚いなんてとんでもない。この部屋自体がすでに芸術作品だった。

 床に落ちている絵一つ取っても私と同い年が描いたとは思えない。絵を集めることが好きな人物が大量に作品を買い集めたかのように思える。

 しかしそれならば、ここまで乱雑に扱ったりはしないだろう。

 それに、部屋中央のイーゼルに乗った絵。描きあがっておらず、所々粗く絵具が乗った絵も、他の作品に勝るとも劣らない迫力を感じる。

 絵具を切らして中断したのだろう。近くの椅子の上には、まだ乾いていない絵具が乗ったパレットが置いてある。

 彼女が描いている。

 その事実を受け入れるには十分だった。

 情報は少なくても納得してしまったのだ。理由などはない。それこそなんとなく。

 額にも入れられない状態のまま床に落ちている作品を手に取る。

それ一つでさえ、私と……。いや、学生と比べることなんて出来ないほどの作品だった。

美術館のような。それでいて、荒れる大海の中にいるような。強烈な圧力の中視界を回すと、一つだけ綺麗な額に入り、壁に立てかけてある絵が目に留まった。

 これ、どこかで。

 足元の作品を踏まないように気を張りながら、その絵のほうに近づいていく。一歩一歩それに近づくにつれて、視界の霧が晴れていくように、記憶がぼんやりと輪郭を持っていく。

「あーそれ。私が初めて雑誌に載ったやつ」

 海の底から海面を見ているようなその絵は、全体が青で統一されており、この絵だけで青という色が持つ表情を全て表現している……。なんて説明文には書いてあった気がする。

 こうして目の前にしてみるとその通りだ。埃で白くぼやけているが、それでいても息が詰まる。酸素が足りずに心拍数が上がる。息をしようとも喉を通るのは青ばかり。溺れるようにして、やっと正気に戻った。

「……ちょっと待って。……私これ、見たこと、ある」

「あ、見てくれてたんだ、えっと……去年の8月だっけ?」

 なんとかして喉から声を振り絞る。

 すぐに梓の声が聞こえたような気がしたが、大量の水に頭を沈めた時のように、上手く聞き取れない。

 私はこの絵を知っている。

 見間違う筈がない。だって私はこの絵を見て……。

「これ安曇桜さんの絵だよね。なんでここに……?」

 独り言のようにつぶやく。

 安曇桜。数年前から急にメディアに露出した若手の画家。そこまで知名度は高くないと言っても雑誌に載るほどの人物。そんな人の絵が、なんで。

「えっとぉ……。紫~。聞こえてる?」

 トントンと私は肩を叩かれ、またも正気に引き戻される。

振り向いた先には梓が真っ白なスケッチブックを構えて笑っている。

「ちょっと見てて」

そう言って足元の絵を乱雑に退けると、そこに座り込み、床にスケッチブックを置いた状態で何やら文字を書き始める。

「いい? 私の名前は美倉梓。平仮名にすると……」

 目の前のスケッチブックに『み く ら あ ず さ』と、大きめの文字で感覚を開けて書かれる。

「そして、この絵を描いたのは安曇桜。紫が知ってるのも安曇桜っていう名前」

 また同じように、さっきの文字列の下に『あ ず み さ く ら』と書き足される。

「これをこーやると……」

 そして、幼児向けのパズルのように、上段と下段の同じ文字を線でつないでいく。

 するとすべての文字は線でつながれ、ペアを作った。

「え……?」

「もう。紫、理解力が足りないよ」

 駄目押しとばかりに梓はスケッチブックの上の『みくらあずさ』をペンで叩きながら、順番を変えて読み上げていく。

「これで、流石に分かったでしょ?」

「並び替えると、安曇桜になることは分かったけど……」

 混乱する頭では処理が間に合わない。私は梓の顔を見ながら首をかしげる。

「だーかーら! 私が安曇桜なの」

「……うん?」

「ここにある絵を描いたのは全部私。もちろんその絵を描いたのも私。紫が知ってる安曇桜は私! 分かった!?」

「――!」

 驚きで絶叫したはずだった。しかし、実際声は全く出ていない、カスカスと喉を風が通る音だけを響かせ、文字通り開いた口が塞がらないとばかりに、パクパクと口を動かす。

 そんな私がよほど面白かったのか、目の前にいる雲の上の存在は腹を抱えて笑っている。

「その絵ね、本当は売るつもりだったの。でも、雑誌に載ったから、記念に取っておこっかなって。結局壁に立て掛けて、誇り被ってるんだけどね」

 私はこの絵を知っている。私はこの絵に救われたと言っても過言ではない。大学に入って間もない頃、毎日が嫌で憂鬱で恥ずかしくて、入学してまだ半年も経つ頃には、大学を辞めることすら考えていた。

 高校ではそこそこ持て囃されて絵をかいていたものの、いざ大学へ入ってみれば底辺層。私の作品なんて一切通用せず、冷たい目を向けられ、皆に鼻で笑われているような気がしていた。

 自分の描く絵は周りの絵と並べられ、晒され、まるで公開処刑のような毎日。ストレスが日に日にのしかかってくるのが手に取るように感じられた。

 そんな時。ふと手に取った美術雑誌に取り上げられていたのがこの絵だ。たった一ページの小さなコラムだったが、私と同年代でここまでの作品を創り上げる人間がいると知ったのだ。

 尊敬だろうか。自分もこんな作品が作りたいと思ってから、私は変わった。

 今の自分には無理でも、後々の自分にはできるかもしれない。そう思うと、大学を辞めるなんて考えはどこかへ行った。大学に残っていれば、いつかはこんな絵が描けるのではないかと小さな希望を持つことが出来たから。

 結局一年経っても、全く進歩はないのが悩みどころなんだけど……。それでも今では自分の才能のなさを吹っ切る事が出来ている。三角形の底辺は底辺らしく、最下位をキープしながら卒業してやろうとさえ思っている。

 そんな絵に思わぬところで出合ってしまった。

 もう何が何だかわからない。

「……安曇……桜?」

 震える指で彼女を指す。自分の口から出る言葉も、想像以上に震えている。

「うん、安曇桜」

 自分を指差して笑う彼女は、外見は到底こんな絵を描くなんて想像もできず。普通の女の子に見える。この子が私の憧れていた絵を描いた人間だなんて……。

「あ、そうだ紫」

「……何?」

「早速で悪いんだけど、私、紫の絵、見てみたいな」

「……は?」

「ほら、時間ないんだよね。ぱぱーっとでいいからさ!」

 目を輝かせて、梓はそんなことを言う。

「私が絵、描くの?」

「うん。紫も絵描くんだよね? ここにあるのだったらなんでも使っていいから」

 キラキラとした目が私の目をのぞき込んで逸らすことを許さない。

 梓はなんの悪気もなく言ってるんだろうな。そう確信できる程に純粋な目をしている。

 それでも私は。

「そんなこと、出来るかぁ~!」

 悲しいほどに弱々しい悲鳴を口から零した。

 こんな絵を見せられて、自分の絵を晒すなんてまさしく地獄というものだ。

大学の連中の中では慣れたものの、こっちではわけが違う。

これだったら、大学に行っていた方がよかったんじゃないか。心からそう思った。


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