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私の家から歩いて5分。どこにでもあるような住宅街に、場違いに建つ二階建ての小さな家。
まるでこの家だけ時代に取り残されたかのように、敷地は草木で緑色に染まり、壁面には蔦が伸び、家そのものを飲み込んでしまっている。
吸い込まれるような雰囲気。まるでそれ自体が芸術作品化のような佇まいに私の目は吸い寄せられ、気が付けば敷地内に足を踏み入れ、小さな窓からその中を覗いていた。
家を包み込むように生い茂る草木のせいで、部屋の中に日光は入らず、昼間だというのに薄暗い。
その暗さ故に、室内の詳細はわからない。
唯一わかることは、あまり大きくない部屋の中央に大きなキャンバスがあるということだけ。ごちゃごちゃと様々な物があることはわかるが、それが何かはわからない。例えるなら学校の体育倉庫のような印象だろうか。
「すいません……」
そうして食い入るように窓ガラスに顔を押し付けていた私は、背後から声をかけられていることに気が付かなかった。
「すいません……。うちになにか……」
「――っ!」
そしてもう一度かけられた声に心臓を突き上げるようにして驚いた。
情けない悲鳴を上げながら考える。このままだと私はまるで不法侵入者だ。なんとかして穏便にこの場をやり過ごさねばならない。いや、まるでではなく、正真正銘不法侵入なんだけど……。
どうやってやり過ごそうか、言い訳を頭に並べて、ゆっくりと振り向く。
しかし、そこには私の胸位しかない小さな少女が立っていた。
平日の昼。子供は学校にいる時間。そんな考えがあったからか、私はその存在に驚く。
黒いパーカーに灰色のスウェット。そこには所々に絵の具がついていてカラフルになっている。足の先には木でできたサンダル。そこから白い素足が覗いていた。
腰まである長い髪はぼさぼさで、くすんだ金。まるでライオンの鬣みたい。
大量の髪の毛の中に隠れるようにこちらを見る顔はすごく可愛い。人間離れした顔というのか。どこか人形のような顔だ。その目が自分の家にへばりついている不審者を睨むように厳しい色をしているとしても、見とれてしまいそうだった。
もちろんその不審者は私。
見た目の年齢には似つかわしくない、完全に世間体を気にしていない格好の彼女は、じっと私を見つめていた。
「えっと……。ごめんなさい。不思議な雰囲気だったから、つい……」
「いいよ別に……。よく廃墟と間違われるから」
「違う違う、素敵な家だなって……」
「……変わってるね。こんなに汚い家なのに」
やはりここは彼女の家らしい。家を褒めた私を不思議そうな顔で見ている。
しかし、彼女はまだ私を警戒しているようで、一歩たりとも家に近づこうとしない。
敷地内に不審者がいれば当然の反応だろう。仕方が無い。
私としても、どうにかしてここから出たいところなのだが、唯一の逃げ道に彼女が立っているのでどうすることもできない。
「ごめんね。中を覗いたらキャンバスが見えたんだけど、ここってあなたのアトリエなのかな?」
「……うん、まぁそんなところ」
少しの間をおいて答える彼女になるべく不信感を持たせないよう、会話を続けながら彼女に近づいていく。敷地から出るにはそうするしかない。最悪ダッシュで逃げれば何とかなるだろう。
「絵、描くんだね」
「うん」
「奇遇。私も一応、絵描くんだ。近くの美術大学なんだけど分かるかな」
「うん。さっきそこの近くの画材屋で絵具買ってきたところ」
手にさげていたコンビニの袋から、見覚えのある茶色の紙袋を取り出す。
学校の目の前にある個人営業の画材屋の袋。
「あ、黒田屋か。私も何回か行ったことあるよ。結局、学校の購買の方が安いからそっち使っちゃうけど」
「……私は、入れないから」
入っても問題なさそうだけど、なんて言おうとして一つ気が付く。
「あなた学校は? 行ってないの?」
我ながら不法侵入の分際でお節介な疑問を問いかける。それでも、この軽犯罪から意識を逸らすことができるのなら問題ない。
「うん。行ってない。いつも絵描いてると朝になってるから、時間的にも無理だし」
身長から考えて中学生くらいなのかと思っていたが、もしかしたらもう少し上なのかもしれない。流石に義務教育をサボる訳にはいかないだろう。
彼女まであと少し。そんなところまで来た瞬間。不意に彼女から私へと距離を詰めてきた。
「ねぇ! 私何歳に見えてる?」
なぜか息を荒げて、少々興奮気味に私を問い詰めた。
「えっと……。17……くらい?」
その私の答えが不服だったのか、彼女は一度肩を落とし、大きくため息をつくと、少し頬を膨らませながら、持っていたコンビニの袋から一本の缶を取り出す。
それはジュースに見えるが紛れもなく、チューハイ。
アルコールは低めだが、よく見るとコンビニの袋の中には結構な量の缶が見える。
「……やっぱり私、そんな幼く見えるんだ……」
なんでだろうと再び肩を落とす彼女の前に鏡を置いてやりたい気分だが、なんとなく地雷に感じて、あれやこれや口に出すのは押し留める。
「さっきも、コンビニでこれ買おうとしたら、レジの新人が売ってくれなかったんだよ!酷くない? 揉めてたら奥からいつもの店員が来てくれて治まったんだけどさ」
さっきまでの警戒心はどこへ行ったのやら、なぜか私はコンビニ店員の愚痴を聞いている。その見た目だったら私でも絶対に年齢確認すると思いながら、そのまま愚痴を聞き流す。
……ちょっと待て。ということは、彼女は私と同い年か、それ以上ってことか。
「私これでも20なんだよ!?」
「全然、見えない……」
やはり……。この見た目で同い年……。もうある意味詐欺を疑うレベルだ。
人間見た目で判断してはいけないとは本当だ。
「なにそれ!」
「……いや、ごめん。なんか羨ましくて」
「いいことなんてこれっぽっちもないから!」
大学生活で才能のない私は、コミュニケーション能力を駆使してこれまで生き延びてきたようなものだから、誰とでも話せるというのは長所の一つだと思っている。
それでも、目の前の彼女は妙に話しやすかった。いつの間にか自分が不審者であることを忘れているくらいには、心を開いている。
それは、彼女の方も同じようだった。警戒心は薄れ、人懐こい笑顔を浮かべてくる。
「私、美倉梓。梓って呼んで」
「え、あぁ。矢沢紫。ゆかりっていうのはむらさきって書いてゆかり。私も紫で大丈夫」
急に名乗られたことに驚き、私も思わず名乗ってしまう。
これで逃げるわけにはいかなくなってしまった。
と、言っても。梓からは私をどうこうする考えは全く感じられない。
「紫って一人暮らしなの?」
「……うん。ここから近くのところに引っ越してきたばっかり」
「そっか。同じだね」
「やっぱりここに住んでるんだ。……生活感全くなかったけど」
「横の部屋には小さいソファがあるし、二階にはシャワーもベッドもあるよ。もう四日くらい二階には上がってないけどね。住んでみると意外といいよここ。」
ケタケタと笑う梓の言葉にいくつか引っかかる所があるが、とりあえずスルーしておく。
「ねぇ! 中入ってってよ! ろくなお茶も無いけど、お酒ならあるしさ。人とまともに会話するのって何年ぶりだろ!」
本当に彼女は目の前の人間が不法侵入者だということを忘れたかのようにキャッキャとはしゃぐ。こんな昼間から酒の席に誘われることなどない。
そもそもこの時間から酒って、どんな生活をしているんだろうか。
「ね! 紫、ちょっと話すだけでいいからさ。家族も友達もいないと会話相手なんてコンビニの店員くらいなんだもん! せっかくこうして友達になれたんだからさ!」
友達。梓の友達の基準が低すぎると感じるのは私だけだろうか。まだ出会って5分もしていないのに友達とは驚いたものだ。
「あ、でも紫って大学あるんだよね……?」
「え? 大学……。あっ!」
急いで腕に巻いた時計を見る。二限目の開始まで20分。急げばギリギリ開始前に滑り込める。
「へへっ。仕方ないね。じゃあ、また今度……かな?」
そうして笑う彼女。その瞳はまるで弱々しい小動物を彷彿とさせる。
上目遣いのように覗かれると、なんだか虐めているような感覚を覚える。それが不法侵入の罪悪感と相まって私の後ろ髪を引く。
ふと先ほど彼女が、人と話すのは何年ぶりかと言っていた。彼女の家庭環境に深く関わるつもりはないが、何かしらの問題はあるのだろう。
そんなことを考え出すと、彼女がどうしようもなく、かわいそうに思えてくる。
「……いっか」
「え?」
「うん。二限目はサボるよ。提出物もない座学だし、あとでノート見せて貰えばいいから」
「いいの?」
「その代わり、お昼になったら大学行くからね」
私の言葉に彼女は満面の笑みを浮かべる。
その笑顔が眩しい。
大丈夫。今日はそこまで大切な授業はない。大丈夫。
自分を言い聞かせるようにして、私も引き攣った笑みを浮かべた。