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午前十時。安岡にそう告げた彼女は5分前には学校に到着していて、あくびをしながらやってきた安岡に一礼する。
こんな無茶なお願いを嫌々ながらも承諾してくれた安岡の面倒見のよさに彼女は驚く。
まさか、休みの日に朝から美術室を空けてくれなんて言われるとは思いもよらなかっただろう。
朝の静かな校舎に入り、美術室までたどり着くと、彼女は一つ安岡に問う。
「本当によかったんですか……先生? 部活も休みの日に……」
「だって、そうでもしないと、君が描けないんだろ?」
「はい……。昨日も言ったとおり、人の目があると絵描けなくて……」
「だったら、仕方ないよ。……それに、僕だって君に興味が無いわけじゃ無い、なんでそんなに自信満々なのかを知らないとね」
そういって笑う安岡に彼女はもう一度頭を下げる。
「ありがとうございます。じゃあ遠慮なく閉じこもらさせていただきます」
彼女は昨日大体の事情を安岡に話した。……と、言っても、人に見られていると緊張して描けないなどという、ほとんど嘘で固めた物。流石に本当のことは言えない。
そして、安岡の美術準備室を借り、一日で絵を仕上げると約束したのだ。
「先生は仕事をしていて貰ってかまいません。ただ、私が準備室に閉じこもっている間、絶対に中に入らないでください。先生が帰る時間までには終わらせますから」
「わかってる、わかってる。昨日聞いた通りにすればいいんだよね? 僕は平日分の仕事を美術室でやってるから、覗かないよ」
「ありがとうございます! 今日中に描き終わらなければコンクールは諦めますので、一日だけお付き合いください」
そして、彼女は自分の大きなリュックからコンビニの袋を出して、安岡の前に出す。
「多分、絵を描き始まったら時間が来るまで、食事はとらないつもりですが、こうして一応持ってきてはいるので、その心配もいりません。あ、あと絵の具とかも一式持ってきているので、その心配もご無用です」
「そこまでして隠したい事に少し興味もあるけど、今日は君の絵を見るだけで我慢するよ。芸術家は誰でも変ったところがあるものだからね。裸じゃないと描けない画家だっているくらいだ」
「さすがに、裸にはなりません。ただ、もっと凄いことにはなるかもしれませんが」
ふふっと笑い、彼女は一度トイレに行くと、戻ってきて早々、安岡に一礼をして美術準備室に入る。
中からガチャっと鍵を閉める音が聞こえて、それから中の音は一切分からなくなった。
少し暗くなり、校庭から聞こえていた運動部の声は次第に少なくなっていく。
そろそろ電気をつけなければと安岡はずっと座りっぱなしだった椅子から、腰を上げる。
久しぶりに動かした腰は、固まっていて、ゆっくり体を曲げると、心地よく筋肉が伸びるのがわかる。
午後六時半。
時計を見て、もうそんな時間になったのかと感心しながら、未だなお開かない準備室の扉を見つめる。
中の様子を確認しようか、と考えるものの、彼女との約束を破るわけにもいかず、電気をつけ、開いたままの缶コーヒーを手に取り、口につける。
少し口に含み、のどを通した瞬間、鍵の開く音が静かな美術室に響き、中からふらふらと彼女が出てくる。
「お疲れ様」
彼女に声をかけるが、安岡の声は誰にも届かず、彼女はそのままゆっくり美術室を出て行く。
安岡は軽く混乱するが、きっとトイレにでも行ったのだろうと思い、またコーヒーを啜った。
「お待たせしました……、すいません」
明らかに生気のない弱った声を出しながら、彼女は数分後に戻ってきた。
「だいぶ疲れたみたいだね。大丈夫?」
「まぁ、慣れていますから……」
彼女はバックからごそごそとコンビニの袋を取り出すと、そこから菓子パンを取り出し、食べます? と首をかしげる。
「いや、大丈夫。って、何も食べないでやってたのか……」
「はい、家でやるときには、睡眠もとらないで三日くらいやるんで……。さすがにそのときには倒れますけどね」
彼女は笑うが、安岡は顔を引きつらせた。ここまで集中して絵を描く人間を安岡は知らなかったのだ。自分自身でさえ、どれだけ集中しても、空腹や睡眠欲には負けるだろう。
そして安岡は知ることとなる。彼女という大きすぎる才能を……。
彼女に連れられ準備室に入った瞬間、目に飛び込んできたのだ。
目の前に立つ作品の存在感に、安岡は手に持った缶コーヒーを危うく落としそうになってしまう。
その絵はすごかった。性格にはすごいとしか言えなかったのだ。確実に言えることは、この絵はうちの部員が描くものと勝負にならない。それどころか、自分の作品でさえ彼女にはかなわないかもしれない。
しかし、安岡が本当に驚いているのはそこではなかった。
彼女はこれをたった数時間で仕上げたのだ。
正直、コンクールに出したいと急に言ってきた女子生徒を侮っていた。
興味はあったが、現実を突きつけて帰そう。そう思っていた位に。
だが、この絵を見た瞬間、そんな考えは綺麗に払拭され、安岡の口からは、自然と言葉が出ていた。
「三倉さん……。この作品だったら、僕は君がコンクールに出すことを止めることはできない……」
その言葉に、彼女は微笑む。そして、用意していたように、言葉を吐く。
「認めていただき、ありがとうございます。……でも、もし、家で描いてきてもいいと言うのなら、もっと時間をかけていい作品を作りたいのですが、だめでしょうか?」
「え……。これ以上の……」
「はい! さすがにこれではちょっと、恥ずかしいので……」
そう笑う彼女を見て、安岡は足がすくんだ。
安岡はまるでのど元にナイフを突き立てられたかのような感覚を覚えたのだ。
それは、紛れも無く、恐怖だった。
前回の投稿から時間が経ってしまい申し訳ございません。
次の投稿は遅くても1ヶ月以内には上げたいと思っております。
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