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ファミレスの裏の扉から出て、駐車場のコンクリートに溜まった熱を一気に浴びて立ちくらみを起こす。
5時とは言っても流石に真夏だ。傾き始めた太陽から、殺気のこもった熱を肌にひしひしと感じる。一刻も早くエアコンの効いた部屋に飛び込みたい。具体的には梓のアトリエに。
その気持ちは私の足を心なしか速め、閉じた傘をカツカツと地面につきながら、心地のよいテンポで目的地に向かう。
「あ~。お菓子でも買ってくか……」
梓は一度集中すると食事をすることさえ忘れてしまう。意識が絵から離れたときに何か食べさせないと、本当に死んでしまいそうなほどに。
朝にも寄ったコンビニに入り、甘いものをカゴに放り込んでゆく。お弁当を買うよりもこっちのほうがよっぽど喜んで食べそうだ。
チョコスナックにシュークリーム、エクレア、それと菓子パン。会計のときに思いのほか買っていたことに気がつき、お金があるか焦ったが、無事会計を済ませることが出来た。
コンビニを出ようとして、ふと朝ここに来た時に傘が置いてあったスペースを見る。そこには綺麗に中身が無くなった傘立てが置いてある。やはり朝に傘を買っておいて正解だった。まだ外は降ってはいないが、今にも振り出しそうだ。
扉の外に置いた自分の傘を掴み、傘の黒と同じ色をした真っ黒な空を見上げた。
緑で覆われたアトリエの庭で、私はあの時のように窓を覗きこんでいた。
案の定中は暗くよく見えない。それでも私はあの時と違い、中にあるものを殆ど把握している。
頭の中に、アトリエの中の間取りを想像しながら、もう一度中を覗く。すると、ぼんやりだが中の様子がわかる。
大きなキャンバスと、その前に座る少女。それだけはシルエットとして認識することが出来る。そのまま数秒間観察するのだが、なぜだか少女はさっきから一切動かない。
「寝てる……のかな?」
絵を描きながら寝てしまうなんてことは、彼女には日常茶飯事だった。
それなら、彼女はちゃんと集中できたということか……。無事に絵を描いていたらしい彼女に少しだけ安心する。
そうだ、スランプなんてすぐにどっかへ行ってしまう。私の大好きな画家はその程度では挫けないと心の底から信じていた。
頭の上に1粒の雫か落ちて、私は頭上を見上げる。
とたん、私の顔には数粒の水が落ち、気がつけば一瞬のうちに本降りへと変わる。
「わぁ、振ってきたよ~」
頭の上にコンビニの袋を乗せ、小走りに玄関に回り、アンティーク調の扉を開き中に入る。
ただでさえ暗いこの部屋は空模様と相まって、夜と同じくらいの視界の悪さになっていた。
流石にこの視界で絵を描くのは、いくら天才と言えど無理だろう。
「あずさ~?」
控えめに声をかけてみるがやはり返事はない。
梓の姿はここからでは大きなキャンバスに塞がれて見えないが、きっと寝ているのだろう。それにしても鍵を開けっ放しとは、なんて無用心なんだ。
壁伝いに闇の中を進み、電気のスイッチを手探りで探す。
そのさなか足に何かが当たってつまづきそうになるが、やっとのことスイッチを見つけ、電気をつける。
一瞬で視界が明るくなり、目くらましをあったかのように怯む。
しかし、その一瞬の怯みは視界がはっきりとした瞬間に驚愕へと変わり、あの時と同じように……けれどあの時とは全く違う驚きを私に与えた。
床一面にばら撒かれているのは絵。そして絵の具に画材、ダンボール。この部屋にあるもの全てと言ってもいい数の物が床にばら撒かれている。
しかし驚くのはそこではない。この部屋に散りばめられた無数の物たちは、破かれ、折られ、破壊されている。
「――梓っ!?」
どこかへ行っていた意識を戻すと、そのまま梓の元へ駆け寄ろうとする。
「こないで!」
少し震えているように感じる悲鳴は、私の足をそのまま固めてしまう。
「え? 梓? 大丈夫なの?」
返事はない。
「ねぇ……梓……。これって、何があったの?」
「…………ごめん」
やはり梓の声は震えていた。
「ごめんね……ごめんなさい……」
何度も何度も謝る彼女の顔はここからはわからない。それでもその声にはなぜか、何かに怯えている様な感情があった。
そんな時、奥にある扉がゆっくりと開かれ、中から大柄で白髪の男が姿を現す。
「……須崎さん……何があったんですか?」
出会って早々に質問され、そのしわの入った顔が歪む。
少し考えるような仕草で顎をさすったあと、彼は梓のほうに近づき顔を寄せる。
「本当にいいんだね?」
それは彼の厳つい顔からは想像も出来ないほど優しく、穏やかな声だった。
「……はい」
対して彼女は今にも消えてしまいそうで、今にも泣き出してしまいそうな弱々しい声。
それを聞いて腹をくくったのか、彼は座っている梓に合わせてしゃがんでいた膝に力を入れ立ち上がると、ゆっくりとこちらを向く。
その表情は、悲しみなのか諦めなのか、どことなく沈んで見える。
「一つだけ誤解しないで欲しいんだけど。これから僕の言う言葉は彼女の……桜の言葉だから……。それだけは信じて欲しい」
「――っ」
桜という名前を聞いて、反射的に反応してしまう。
「あぁ、ごめん。梓ちゃんのほうだったね、うん。紫さんがどこまで知っているのかはわからないけど、大丈夫。これから全部話すから……。ただ、一つだけ。これは彼女達の決意だから……」
彼は一つ一つかみ締めるように、そして自分に言い聞かせるように言葉を吐いていき、下を向く。
そしてもう一度前を向くと私の目をまっすぐと見て、結論から言うと……と口を開く。
「彼女には、もう関わらないで欲しいんだ」
彼の声はそこまで大きくはなかった。だがその声はまるで耳元で爆発したかのように、私の頭を揺さぶる。
彼は今なんと言ったのだろうか、言葉の意味はわかっていても、理解することを拒んでいる。そしてなぜそういわれなければならないのかが、全く理解できない。
気がつかないうちに手から離れていた傘とコンビニの袋が床にむなしい音を立てながら落ちる。
それを、傘が無いときっと帰り道に濡れちゃう。あーあ……シュークリームつぶれちゃう。なんて冷静に考えている自分がいて、そんな自分が自分ではないような感覚に襲われる。
だってさっきから指の感覚がない。自分が手を開いているのか閉じているのかさえわからないのだ。
床に落ちたそれを拾おうとするが、足はジンジンと痺れて言うことを聞かない。
「ごめんね、紫さん。酷いことを言うかもしれないけど、これは彼女達の生き残る道なんだ。彼女達にとって、君はいてはいけない存在なんだ」
彼の話を聞きながらも、全く動けない私に彼は話を続ける。
「まずは彼女の昔話から始めようか。梓ちゃんに全て話してくれって言われているから少し長くなってしまうけど。時間は大丈夫かな?」
目の前の男の人が何かを話している。それだけが今、私の脳が理解していることだろう。
私が今したいことは一つ。
『なんで?』
そう聞きたかった。
しかし喉は張り付いてしまったかのように、私が声を出すことを邪魔し、煩いくらいに自分の呼吸の音と早く叩きつけるような心臓の音が耳元で鳴り続ける。
「梓ちゃん……は、動けそうにないし……。紫さん、二階に行こうか」
梓は何も言わずにキャンバスの裏に隠れてしまっている。そのキャンバスが私には梓を守る盾に見えた。
「大丈夫かい?まぁ、パニックになるのも仕方ない。コーヒーでも飲んで、少し落ちつこうか」
そういって彼は私に近づいてくる。その顔に浮かべる笑顔はきっと私に安心感を与えようとしているのだろう。
それでもその顔は酷く作り物に見えて、なぜか恐怖を感じてしまう。
彼の手が私の肩に触れようとした時、私の体は一瞬の悪寒とともに一気に動き始めた。
彼の手を勢いよく払いのけ、そのまま後ろを振り返り扉を思いっきり開け放つ。
外は想像通り豪雨。まるでバケツをひっくり返したかの水量が、一気にコンクリートを叩いている。
ただ今の私の頭にはそんなことを考えている余裕なんてなかった。
目の前にある大きな水溜りも避けずに、踏みしめる。激しく舞う水しぶきが、なおも私の背中を押し、一気に走り抜ける。
突然のことでパニックを起こす脳では感情なんて起こりはしなかった。
ただ前に走った。今私の頭を占領することを忘れるために。それが決して忘れることなど出来ないことだとしても、今は走るしかなかった。
涙なんて出なかった。変わりに私の頭上に雨が降る。
まだ降り始めたばかりりの雨は決して弱まることなく、私を濡らす。
これにて第二章『黒雲と夕立』は終了となります。
第三章は7月に投稿予定です。
それまでどうぞよろしくお願いします。




