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「そういえば昨日さ、紫が帰った後に須崎さん来たよ」
「へー、昨日私帰るの遅くなかったっけ?」
「なんか仕事帰りとか言ってた」
須崎さんとは、梓のお父さんの知り合いで、美術品の取引の仕事をしているらしい。60歳くらいで白髪交じりだが、身長は高く顔つきも少し厳ついから、私は始めて会って、絵を売っていると聞かされたとき、悪いことをしている人なのかなと思ってしまった。
後でそれを梓に言ったら大爆笑されたけど……。
昔から梓のお父さんの絵を売っていただけあって、梓とは古い知り合いで、初めて絵を売るときから今まで色々サポートをしてもらっているらしい。なぜかお父さんには内緒で。
須崎さんにもお父さんの所在を探して貰っているらしいが、どうにもわからないらしい。
内緒でって言っている辺りから須崎さんはお父さんの居所を知っているのではないか?なんて私は思うけれど、きっとそれは私が口を出すことではない。
「で?須崎さんなにか用事があって来たの?」
「あー、うん。須崎さんの仕事でお金持ちのお得意さんがいるらしいんだけど、そのお客さんに世間話の流れで、私の雑誌の特集を見せたんだって。この子は私の友人の娘なんですよぉ~って」
まるで自分の孫のように誇らしいのだろう。そうでなければ雑誌の特集なんてきっと取っておいていないはずだ。
「そしたらそのお客さんがね、私の絵を気にいちゃったらしくて、新しく絵を描くなら考えといてくれないかって言われたんだって」
「いい話?」
「うん。すごくいい話。だいたいの金額を言ってたらしいんだけど、まだ描いてもいないのに結構な額でさ。出来上がったら多分もっとお金出してくれるって須崎さんが……」
「へ、へぇ……さすがプロ……」
いつもの梓にしては真剣すぎて、生々しい話に少しついていけない所があるが。これがすごいことだと言うのはわかる。
「でもね。嬉しいんだけど……。認められて嬉しいんだけど……。今の私は多分描けないと思うんだよ……」
箸を持つ手は止まり、下を向いてしまう。
「この話には乗りたいよ?きっと次のステップに行くには重要なことだと思うの。今のこの描けない状態も何かしらの試練じゃないのかなって……」
梓は失敗を怖がっている。売るための真剣な絵を描き始めてから、自分が描けないことに直面することがきっと怖いんだろう。今まで描けなくなったことが無いなら尚更。
「やっちゃえばいいじゃん!」
だから私は背中を押せばいいのだと思う。
「え?」
「だってさ、そのお客さんは出来上がったら買いたいって言ってるんでしょ?だったら描けなかったら売れないのは当然じゃん。描けなかったら、正直にスランプって言うなり、その話をただ断るなり何でもいいじゃん。まずはさ、キャンバスの前に立ってみなくちゃわからないよ」
なんだか今の梓は半年前の私のようだ。だから背中を押せば何とかなる。
「まずは自分の絵に自身持てばいいんじゃないかな?私は梓の絵好きだよ?」
それを聞いて梓は少し明るい表情を取り戻す。まだ不安はある。でも大丈夫な顔だ。
「わかったよ。私描いてみる。ありがとね紫」
少し照れくさそうに笑って、その恥ずかしさを紛らわすように大きな口でラーメンを啜る。そしてむせる。
「大丈夫?梓」
そんな彼女にかわいいなぁなんて思ってると、いいにくそうに彼女はまた口を開く。
「……だからさ……悪いんだけど……」
「そうだね集中しないとね」
「えっ……?」
彼女は絵を描くとき周りが見えなくなるほど集中する。それは何度かみてきたからわかる。でも私が近くにいるとその集中が途切れてしまうのだ。自分で言うのもなんだが、きっと絵を描く上で私は梓にとっては邪魔な存在でしかない。
だから彼女にそれを言わせるのは阻止しなければならない。きっと自分で言った言葉に傷ついてしまうから。
「丁度私もさ、大学の友達に夏休み入ったら旅行に行こうって誘われてるんだよね。だからさ、私はそっちに言ってくるから梓は思う存分絵を描いてよ。私楽しみにしてるからさ」
こう私が言ってしまえば梓は傷つかなくてすむ。罪悪感など無しに絵に没頭できる。
「うん……ありがとね。私頑張っちゃうから!」
そう啖呵を切る梓はどこか空元気さを感じる。それだけ絵に向かうことは今の梓にとって怖いことなんだろう。それでも私を心配させまいと明るく振る舞う梓に強さを感じる。
「ああー。食べたら眠くなっちゃったぁ!」
梓は椅子からお尻をずらすようにしてベットにスライドさせるとそのままベットに倒れる。
「食べたらすぐ寝るなんて、どれだけ体たらくなのよ……」
「おやすみぃ……」
「あぁー!だめ!寝ちゃだめ!今度こそはお風呂入らないと!」
「いいよ、明日で~」
「このまま明日まで寝るの?!それだったら尚更今入らないと!」
「別に大丈夫だってぇ……」
「駄目だよ!そろそろ汗とか絵の具とかで全身べたべたでしょ?」
「……臭い?」
「いや……臭いって訳じゃないけど……」
ここで臭いとか言ったら絶対にふてくされる。そしてどさくさに紛れて寝る。
「けど?」
「きたない」
すると跳ね起きるように急に梓は飛び上がり、頬を膨らませながら、シャワールームに扉の音を立てながら勢い良く入っていく。
あ、これも駄目だったか。でもお風呂に入らせることには成功したから良しとしよう。
数秒後に扉の向こう側から「女子に向かって汚いとかありえなくない?!」という罵声とさらにその数秒後に聞こえた「冷たっ!」という泣き声は聞かなかったことにしておこう。
本当にこの子を置いたまま旅行に行って大丈夫だろうか?お母さん心配だよ……。
いや同い年なんだけど。




