0
0 プロローグ
静かな部屋に鉛筆が走る。シャ、シャっと軽い音が断続的に繰り返され、それがどこか心地いい。
私がこうして座ってから、もう何分が経つだろうか。
室内温度は18度。少し肌寒いが、外の溶けるような気温に比べてみれば天国だ。
小さな不満を上げればきりがない。座りっぱなしのお尻は痛いし、お腹も随分と前から悲しそうに鳴いている。
目の前の大きなキャンパスを一瞥し、声をかけてみようか迷い、そして止めた。
声を掛けた所できっと無駄だろう。こうなってしまった梓は何が起きても止まらない。無視されるか、動くなと怒られるだけだ。そうなると私は我慢するしかない。我慢。
この我慢にもいつのまにか慣れてしまった。少し肌寒い部屋も、硬い椅子も、狭い部屋も、何処となく薄暗い雰囲気も、絵の具の匂いも。
いつのまにか、それらは私の日常に溶け込んでいる。
私の部屋から徒歩5分足らずで着いてしまうそこは、小さなアトリエ。
私と同い年の、私と同じ女の子。それでも私とは住む世界の違う少女。梓のアトリエ。
ふと目の前の板が大きく揺れ、そろそろかな、と胸を撫で下ろす。
やっと立ち上がることができる。さっきからお尻が悲鳴を上げていた。ずっと同じ姿勢で座り続けるというのも結構辛いものだ。貴重なモデルなんだからもう少し丁重に扱ってほしい。たとえば椅子をもっと柔らかく……。
「終わったぁ! 紫! ストップウォッチ!」
「はいはい、押した押した」
このちっこくて、うるさいやつの絵がねぇ……。
「何分だった?」
「11分22秒。昨日より10秒遅いね」
「負けたかぁ……。どうしても10分台にのれないなぁ」
「いや……。デッサンに勝ちも負けも無いと思うよ?」
最近梓はデッサンに時間制限をつけ始めた。なんでそんなことを始めたのかは皆無だけれど、本人曰く、彼女のレベルになると、その後は速さを磨くしかないらしい。まぁそれで、毎回同じクオリティ……。それも高レベルなものを出されてしまっては、こちらは何も言えない。私からすれば、彼女が早さを極めれば極める程、座っていなければならない時間も短縮されるので、文句はない。
「そんなことより紫! おなかすいた」
「私はさっきからずっとペコペコ。絵描き始めると何もかも忘れちゃうんだから……。少しはこっちのことも考えてよね」
「はいはい。……で、何食べる? ラーメン食べ行こっか! このまえ大通りにできたとこ!」
「だーめ」
「なんで?」
「だって、梓もう二日もお風呂入ってないでしょ……。今朝まで油絵やってたし、顔なんて絵の具だらけだよ?」
「別にいいじゃん、どうでも」
「嫌だよ! 梓がよくても隣にいる私まで見られるんだから……。あ、そう言えば、まだ二階にラーメンあったよね?」
「えー……。インスタント?」
「仕方ないでしょ。梓、最近お金入ってきてないし、私だって結構きついんだから」
ぷーっと頬を膨らませて不貞腐れる梓の頭をポンポン叩く。汗なのか絵の具なのかわからないが、少しべた付く髪をすくい、どうしてこんなになるまで放っておけるのか頭を抱える。
こんなになってまで自分からはお風呂に入ろうとしないのだ。やはり天才の考えることは分からない……。
才能への嫉妬と、その才能が最近発揮されていないことへの不安。そんな様々なものでごった返す頭を整理しながら、私は外へとつながるの扉に手を掛ける。
「ほら、梓。早く二階行くよ」
蒸しかえるような暑さに立ちくらみのような感覚を覚えながら、視線を空に向ける。
そこには高く高く、どこまでも続いているような空と、飛行機雲。
夏。大学三年の夏。空気は溢れそうな程に潤っていて、纏わりつくような湿度と暑さの中。
私はモデルらしく、絵に描いたような笑顔で彼女を呼んだ。