1.「俺、女の子を振るのが好きなんだ」
「俺、女の子を振るのが好きなんだ」
バリバリと音を立てて海苔煎餅を食べながら、こともなげにそいつは答えた。
ずずずと茶をすすって、再びバリバリ。
無言になったこちらに気づいたのか、ふと顔を上げる。
煎餅を片手に、そいつはにっこりと人好きのする笑みを浮かべた。
「だから君の親友を振ったんだ」
*
理解に苦しむという言葉がある。
自分の常識がおよばないものに直面したとき、主に用いられる言葉だ。
皮肉めいて言うか、苦々しげに言うか、はたまた真顔で言うか。
様々なパターンが存在するが、このとき殺意の波動に目覚めたアキラの心を占めていたのは憎しみ以外の何物でもなかったため、口にしたとたんそれは地を這うような呪詛となった。
「理解に苦しむ……」
「それ、よく言われるなあ」
アキラの呪詛を受けても、春の日差しを浴びた猫のようにのんびりと笑う男。
どんな怒りもさらりとかわしてしまう、天性と言っていいほどの人当たりの柔らかさ。
それこそがこいつの武器である。
かつてそれに騙され、親友の相手に相応しいと認めた間抜けな自分を殴り飛ばしたい。
ついでに親友の肩を揺さぶってそいつだけはやめろと絶叫してやりたい。
だが、何より先にこいつを。
この男を。
森永映太を。
「……存在ごと抹消してやりたい」
「うわ怖っ」
白々しく怯えるそぶりを見せる男を一瞥して、アキラはふんと鼻を鳴らす。
生ゴミを見るような目に何か思ったのか、森永が物言いたげな溜息をついた。
いよいよ申し開きでも始めるのかと思ったら、間延びした唸り声をひとつ上げただけで、煎餅に手を伸ばすと何事もなかったかのようにバリバリとやりだした。「君も食べる?」と煎餅(しょうゆ味)をひょいとつまみ上げて差し出してくるそいつの能天気な顔を脳内で数十発ほど殴って怒りを抑えたアキラは、拳を握って大きく深呼吸する。
気持ちを落ち着けて、努めて冷ややかに告げた。
「あんた、人格が破綻している」
「うん?」
「なんでそんなに平気な顔をして煎餅なんか食ってられるの」
「それは……もっと深刻な顔しながら煎餅を食べろってこと?」
「違う!」
きょとんと首を傾げる森永の顔に唾を吐きかける勢いで叫ぶと、人気のない教室にわんわんと響いた。大声で怒鳴るためにここへ呼び出したわけではなかったが、講義のない時間帯を選んだのは正解だった。
もはや怒りを隠しもせずにアキラは男に詰め寄る。
「そのふざけた態度はなんだって言ってんだよ! 人の気持ちを踏みにじっておいて!」
「踏みにじったかなぁ、俺」
ぶつんと血管がブチ切れる音がした。
のほほんと煎餅をくわえる男の胸倉をがしりと掴み上げ、射殺さんばかりの形相で睨みつける。
はらわたが煮えくり返って、沸騰して、蒸発しそうだった。
「『女の子を振るのが好き』だぁ!? 寝言は寝て言え! 本気にさせて飽きたらポイか!? ふざけるな! お前みたいな下種は死ね! 百回死ね! 死ぬ度に花枝に泣いて詫びろ!」
「お、落ち着いてアッキー」
「誰がアッキーだ死ね下種が! 虫唾が走る! そう呼んでいいのは花枝だけだ!!」
いっそこのまま殺してやろうか。
そうしよう。
目を据わらせて締め上げる力をさらに込めたところで、絶妙なタイミングで軽快なメロディが流れ出した。
発信源はアキラの鞄の中である。
それを聞くやいなや、瞬時に手を離して鞄から素早く携帯を取り出した。
げほげほとわざとらしく咳き込む森永に背を向けてアキラは「通話」を押す。
「もしもし花枝、どうしたの」
『あ、アッキー、今大丈夫?』
「大丈夫だよ。ちょうど暇してたところだから」
え、思い切り取り込み中だったのでは……と言いたげな男をひと睨みして意識を耳に集中させる。
『よかった』
ふんわりと心地良い声が耳朶を撫でる。
それまで渦巻いていたマグマのような怒りがみるみるうちに小さくなっていくのが分かった。
敵わない。
もう何度目か分からない想いを再確認してそっと目を閉じる。
『その、言ってなかったけど、アッキーのことだからと思って一応ね』
「ん? どうしたの」
『森永くんのことなんだけど……』
「あ?」
カッと目を見開く。
今一番憎い人間の名前が聞こえたが、気のせいだろうか。
視線をちらりと動かせば、例の人物は自前の水筒を開けてとぽとぽとお茶を注いでいるところだった。
この脳内花畑最低下種クズ野郎、と心の中で中指を立てる。
険の入ったアキラの返事に焦ったのか、花恵があたふたと早口で話し始めた。
『お、怒らないでね。アッキーが心配してくれてるのは十分わかってるよ。その、ずっと落ち込んでてごめん。でも、もう大丈夫だから。ちょっと凹んだけど、いろんなこと考えることができたし、そろそろ前向かなきゃなって思って。だから本当にもう平気』
ぐっと携帯を持つ手に力が入った。
「無理しなくていいよ」
『ううん、無理なんかじゃないよアッキー。むしろ一皮剥けたっていうか、前よりずっと心が強くなった気がするの。あはは、失恋してこんなこと言うと負け惜しみみたいで恥ずかしいね。……でも私、ほんとにそう思うの』
「全然恥ずかしくなんかない」
『ありがと。アッキーは優しいね。えっと、だからねアッキー』
森永くんに仕返しとか、考えなくていいからね。
わかったという一言を搾り出すのに数秒かかった。
二言、三言だけ雑談を交わして笑った後、アキラは「通話終了」を押した。
無言で携帯の黒い画面を見つめていると、どうぞと湯気の立つ紙コップが差し出された。
「ほうじ茶だよ。飲む?」
「……いらない」
「煎餅食べる?」
「いらないって」
「花ちゃんなら心配ないよ。俺、女の子を振る天才だから」
「……っ!」
拳を振り上げた。
鼻が折れるほど殴りつけてやろうと思った。
そもそも今日は、最初からそのつもりだった。
自分の大切な大切な存在を奪い、そして呆気なく捨てたこの男が許せなかった。
しかも振った理由を聞いてみれば、まるで理解不能だ。
真剣に話そうとすればなぜか煎餅を食べ始める始末だ。
言い逃れをしているようでもなく、反省している風でもない。
もはや殴るしかないではないか。
そうでなければ。
そうでなければ、この気持ちのやり場がどこにもない。
「俺のこと殴ってもいいけどさ、花ちゃんがそうしてほしいって言ってきたの?」
何でもお見通しと言いたげな目で森永がにっこりと笑う。
その柔らかい目が無性に腹立たしく、振り上げた拳を力任せに机に叩き付けた。
びりびりと痺れるような痛みを無視したアキラは、床に転がった鞄を肩にかけると無言のまま踵を返した。
「花ちゃんが好きなんだね」
背後からかけられた声に、ぴたりと足を止める。
「いや、違うな。愛しているんだね」
「黙れ」
「すごいねアッキー。映画みたいだ。俺、こんなに感動したの初めてかも」
「黙れよ」
「でも、永遠に叶わない恋をし続けることに意味があるとは思えない」
理解に苦しむよ。
そう言って森永はアキラの側へ歩み寄り、わざとのようにゆっくりと目の前に立ちふさがった。
長身の男が腰を折って、背の低いアキラの顔をひょいと覗き込む。
「振られることもできない不完全な恋なんかやめたら? 完璧な恋をしてみない」
「……完璧?」
「そう。恋とは終わって初めて完成するもの。つまり失恋こそが完成形。だから俺と恋をしよう、アッキー」
まるで宇宙人と会話している気分だ。
森永映太がこれほど頭のおかしい人間だとは思わなかった。
そして――自分がこれほど誰かに殺意を抱けるとは知らなかった。
「死ね」
「~~っ!?」
振り向き様、アキラは思い切り蹴り上げた。
一直線に狙った先は男の最大の急所である。
悶絶してのた打ち回る森永に若干溜飲を下げつつ、アキラは颯爽とスカートを翻した。
恋なんか自己満足の塊だ。
どんな形でも本人が満足しているならば結構じゃないか。
失恋が完成形とは、笑わせる。
「生まれたときから失恋してんだよ、私は」
*
静まりかえった教室でむくりと映太は起き上がった。
「痛かった。死ぬかと思った」
はあと溜息をついてよっこらしょと立ち上がる。
ふと足元を見ると、学生証が一枚椅子の下に落ちている。
落とし主を確認した映太の顔に笑みがこぼれた。
――人間科学部心理学科2年 松河明良
「全く、アッキーは慌てんぼうだなあ」
芯の強い人だ。
その癖、恐ろしく脆い一面を抱えている。
その差がとても良いなと思った。
「これ、届けないとね」
衝撃を受けたのは、自分の元恋人と電話をしているときの声を聞いたときだ。
これ以上ないほど優しく穏やかな話し方だった。
切ないほどの温かさに満ちたそれは、紛れもなく恋をしている者の声だった。
なんと面白い人を見つけてしまったのだろう。
浮き立つ心を抑えきれず、映太は人好きのする笑みで学生証の写真を指でなぞった。