時として人は馬鹿になる
授業中、現代文の時間。
現代文の新人教師、若松は教科書の内容を前の生徒から順に読ませていくという定番の事をしていた。
俺の席は窓際の一番後ろ。残りの時間から考えて、多分ここまでくる事は無いだろうと俺は余裕の笑みを浮かべ、窓から見える青空を眺めていた。
素晴らしい五月晴れ。吸い込まれそうなほどに澄んだ青空にモコモコとした綿雲。外は本当に良い天気で思わず、ほうっとため息をついた。
…ああ、あの真っ白な雲達はいったい何処へ向かっているのだろうか。
ブスッ!
「いったあい!」
「どうした、八柱。授業中に変な声をだして。そんなに朗読したいのか」
気がつけば、俺は椅子を倒して立ち上がっていた。クラス全員から、なんだこいつ、と言った視線をぶつけられる。
やばい、めっちゃ恥ずかしい。なんて奇声をあげてしまったんだ、俺は。若松も教科書を持ったまま怪訝な顔になっていた。ちなみに、柳田はお得意の柳田ブリザードを発揮していた。冷たいぜ、友よ。
まあ、そんな事はさておき、割とまずい状況になってしまった。若松は新人教師で、その性格から生徒達に嘗められたくないと思うタイプだ。だから授業中に騒いだ俺には見せしめとして、きつく注意をするか課題を出すはずだ。…どっちも面倒だ。なんとか逃れなければ。
若松が口を開く。だが言わせるか!俺はそれに被せる様に言葉を発した。
「いやー、すいません!ちょっとお腹が痛くて大きな声をだしてしまいました!昨日の夕飯の食べ合わせが悪かったみたいですね、アッハッハッ!」
授業中の邪魔してすいませんでした〜、ちょっとトイレ行ってきますと早口でまくし立て俺は素早く教室から抜け出す。若松が何か言いかけていたが、聞こえない振りをして教室から飛び出した。
そして約十分後。俺は再び自分の席に戻りジト目で隣の席を見ていた。
『おい、なんでさっき俺の腕をシャーペンで突き刺したんだ。おかげで面倒な事になったじゃないか』
『授業を聞かず窓の外を見ているほうが悪いのよ、つまりは自業自得。あたしは何にも悪くないわ』
そう言って笑うのは本名、千葉茜。通称、委員長。
飾り気の無い真っ黒なお下げに馬鹿でかい銀縁眼鏡。スカートは膝が隠れるほど長い。装飾品の類は一切無し。真面目という言葉を体現したような外見をしている。性格も外見同様、もちろん真面目ちゃんだ。多分。
だが、その眼鏡に隠された素顔は驚くほど端正だ。勿体ないと思うところもあるが、なんというか、その、こいつは自分のそういう所を理解しても尚、やっているような節がある。
…底が見えない奴だ。同じクラスになって一ヶ月以上たつが、委員長に対してわかった事と言えばそれぐらいか。
ちなみに本当に委員長をやっている訳じゃない。委員長っていうのはあだ名で雰囲気が似ているから呼ばれているだけだ。彼女は何の係にも委員にもなっていない。完璧な帰宅部だ。
そんな事を考えていると、またシャーペンで腕を刺された。
「わひょっ!」
「…八柱」
「ち、違いますよ!俺な訳無いじゃないですか〜、アハハ」
また何か言おうと口を開く若松。俺は素早く視線を逸らし教科書に没頭するふりをする。しばらく若松は不審そうに俺を見ていたが、また自分の持っている教科書に視線を移した。
『…おい、怒るぞ』
『ぼ〜っとしているそっちが悪い』
教師にばれないようにヒソヒソと会話をする。
『ねえねえ見てこれ、血。英語で言うとぶら〜〜っど。わかる?ぶら〜〜っど。血が出てるの。凄く痛いの』
『だから何?ちょっと血が出ているだけじゃない。そんなの男子にとっては掠り傷でしょ』
『ノンノン。違いま〜す、掠り傷なんかじゃありませ〜ん。致命傷ですー、死にかけてますー』
『うざいなあ』
再び振り下ろされるシャーペン。しかし、三度も同じ手をくらう俺では無い。俺は華麗にシャーペンを躱し、そのうえそのシャーペンを奪ってやった。
『ふっ、甘いな。そんな手が何度も俺に通じるとでも…って、危な!』
驚いた。奴め、筆箱に入っていたシャーペン、ボールペン、三角定規。全て俺の腕目掛けて突き刺してきた。
だが甘い。某狩猟ゲームで鍛えた俺の反射神経は伊達じゃない。委員長の全ての猛攻を躱し、そして全ての武器を奪いとってやった。
俺はクルクルと奪いとったペンを回しながら、自分の中で最もうざいと思われる笑みを浮かべる。
『くくっ、もう武器は無いようだな!どうする委員長、消しゴムか、それとも分度器でも使うか?さあ、どうする!』
無表情の委員長。その内心を想像すると自然と笑みが浮かぶ。
委員長にはもう攻撃手段は残されていない。筆箱には使える得物は何一つ無い。今の奴は牙を無くした狼、刀を無くした侍、そして動けなくなったナル…
ぶしゅ
「あぐぅっ!」
「………八柱」
「すいません!持病の発作が…」
必死で謝る。クラスのまたかよ、という視線をこれでもかと浴びた。若松は、はあっとため息をつくと俺を無視して授業を進めた。
『お、お前それは無いんじゃないか…』
『あたしを怒らせた八柱君が悪い』
俺は痛みに堪えながら必死で非難するが委員長は笑いながらサラリと受け流す。
委員長の手にある物。それは隠し刃であり、最強の得物。
そう、コンパスだった。
『…まさか、そうくるとは思わなかったよ』
『これは破壊力が強すぎるの、だから使うのは止めようかと思ってたんだけどね…』
あんまりにも八柱君がうざいから使っちゃった、と舌を出して委員長は笑った。
その笑顔はあまりにも邪気が無く綺麗なもので、だからこそ俺はイラッときた。
『…絶対返さん』
『あら、そんな事するんだ』
俺は委員長のシャーペンやらボールペンをわしづかみにして、手の届かない机の隅に置いた。
『せめてもの復讐だ。この一時間、黒板の文字が板書出来ないイライラを味わうが良い!』
『やる事がちっさいね』
『なんとでも言うがいいさ!どんな手段を使ったとしても勝てばいいんだよ!勝てば!』
何が勝利の定義になるのかさっぱりわからないが、とりあえず俺は勝利の喜びに満ち溢れていた。
そんなわけわからん俺を委員長はしばらく見ていたが、コクりと頷いた。
『なるほど、確かに一理あるね』
『だろう!納得したなら大人しく、悔しさに身を震わせながら、指をくわえて授業をうけるが良いさ!その様子次第じゃ、後でノートを見せてやらん事も無い、クククク…』
『わかった。わかったよ、八柱君』
委員長はそう言いながら微笑み、すっと手を挙げた。
そして、形の良い桜色の唇をそっと開いた。
「先生、八柱君が…」
「どうした、千葉」
こ…
こいつ…
こいつ、先生にチクりやがった!!
(…ま、まじかよ)
ダラダラと流れる汗。やられた。まさか、そんな手を使ってくるとは。
ちらっと委員長の姿を見る。すぼめた背中、悲しそうな顔つき、だが少し赤くなった顔。クラスで注目を浴びて恥ずかしいけど、ノートが書けなくて困っているから、勇気を出して手を挙げてみました。そんなシチュエーションを上手く醸し出していやがる!こいつ、手足れだ…
俺が戦慄していると俯き気味の委員長と目があった。委員長は目があうと、俺にしか見えないように軽くウインクした。
(どんな手段を使っても勝てば良いんでしょ?)
委員長の目は、そんな事を俺に言っていた。
ゆっくりと歩みよってくる若松。委員長は消え入りそうな、庇護欲を誘う声で呟いた。
「八柱君にシャーペンが盗られて…、ノートが書けないんです」
「八柱!お前、そんな事までしていたのか!」
(だ、駄目だ。今ここで俺の無実を証明しようとしても話すら聞いてもらえるかどうかも怪しい)
腕に負った傷を見せても、この雰囲気じゃ信じてもらえるはずが無い。何より俺は委員長の文房具を持っている。物的証拠まであるんだ。勝ち目が無い。
先生に庇われる様に座っている委員長。その時の顔を見た瞬間、俺は委員長を少し理解した。
委員長は、小悪魔系だ。
俺はくどくどと説教する先生の前でうなだれながら、そんな事を思った。