寄り道しないでまっすぐ帰りましょう
下校時。柳田といっしょに帰っていると、一匹の野良犬が道路の真ん中にいるのを発見した。
同時に、俺はゆっくりと頬を冷たい汗が伝っていくのを感じた。
「…どうする、柳田」
「いや、そんなシリアスな顔になられてもだな…。ただの柴犬じゃないか。しかも子犬」
「馬鹿野郎!子犬だからといって甘く見るなよ、野良犬ってのは残忍で狡猾なんだ。あんなにも可愛らしい姿は俺達を騙す為の罠だ!油断したら喉笛を食いちぎられるぞ!」
「お、おう。そうか」
柳田と話しながらも俺は奴から視線を離せなかった。フワフワの茶色い体、つぶらな黒い瞳、小さな肉球。…危険だ。絶対隙を見せてはならない。
俺は注意深く奴の行動を観察しながらも柳田に声をかける。
「…柳田。隙を見せては駄目だ、奴の目を見ながらゆっくり後ずさるんだ。目線を逸らしてもいけないぞ」
「熊かよ」
「…っ!くるぞ、気をつけろ!」
「はいはい」
ゆっくり近づいてくる子犬、いや、ここはフェンリルと呼ぶべきか。フェンリルは鋭い牙が覗く口を開き吠えた。
「わんわん」
「ぎゃあああああああっ!」
「おお〜、可愛いな」
恐ろしきバウンドボイス。そして吹き出る威圧感。これは某ゲームにでてくる轟竜並だ。あまりの破壊力に立ってられず俺は思わず膝をついた。
「はあっ、はあっ。…くそ、なんて奴なんだ!」
「いや、ただ単に吠えただけだろ」
「柳田、ここは俺に任せて先に行け!お前が敵う相手じゃない!」
「相手をするなら、明らかに俺のほうが適任だよな」
「言い争ってる場合じゃない!早く逃げろ!」
「いや、逃げろって言っても無理だろ」
「なぜだ!まだ間に合うぞ!」
「だって後ろにもう一匹いるぜ」
ぞわっと背筋をはしる悪寒。そしてようやく気づいた、この道路一体を覆っている濃密な殺気に。
なぜ俺は今まで気づけなかったのか。後悔先に立たず、もう遅い。殺気に気づいた瞬間、俺の全身から汗が吹き出し体がガタガタと震えだす。俺は狂ったように脈打つ心臓を感じながら、硬直した体に鞭うって振り向いた。
そこにいたのは地獄からの使い。
気高く上げられた顔。真っすぐに俺をみつめる黒い眼差し。口元から除く白銀の牙。茶色と白の毛並みはどこか気品を表していて、皇室の犬っていうのは本当なのかもしれないと恐怖で麻痺した頭でそんな事を思った。
俺は恐れと畏怖を込めて呟く。
「…こいつが、ケルベロス」
「うん、コーギだな。こいつもなかなか可愛い」
なんという事だろうか。気がつけば俺達は恐るべき二匹の魔犬に挟まれてしまっていた。逃げ道は封じられている。絶体絶命の大ピンチ。勝てっこない。
自然と力が抜け、膝から崩れ落ちる。路上についた手は冗談みたいに震えていた。柳田が何か言っていたがまったく耳に入ってこない。
思わず茜色の空を仰ぎ見て、己の境遇を俺は嘆いた。
俺達には大人しく奴らの腹に収まる道しか残されていないのか。
「ーーーいや、そんな訳無い」
「八柱?」
思わず零れでた弱音を全力で否定する。
手を見れば震えは止まっていた。立てる。俺は立ち上がり、前と後ろの魔犬を目を逸らさず見つめた。
諦めたらそこで終わりだ。いかなる道も諦めた瞬間、跡形も無く消え去る。どんな時も、諦めの悪い奴に女神は仕方なく微笑んでくれるのだ。だから諦めちゃ駄目なんだ。
「…諦めるな。諦めなければ必ず道はある」
じりじりと迫る二匹を感じながら己を鼓舞するように呟く。迫りくる恐怖に負けないように、自分自身に言い聞かせるように、俺は呟いた。
そして女神は俺に微笑んだ。
「…そうだ、壁ダッシュだ」
壁ダッシュ。それは地面の上を全力疾走して壁を上がり、そのまま勢いを殺さず壁を走り続けるという技だ。普通に走ればに捕まってしまうが、この技を使えば手を出される事無く奴らの包囲網から逃れる事ができる。
この技は小、中と鬼ごっこの際に鬼役に追い詰められた時に使用される奥義の一つだった。しかし、これを使った使用者は必ずことごとく失敗する。成功例は無かった。所詮は机上の空論なのだ。そして無様に床に叩きつけられ嘲笑と共に鬼にタッチされるのだ。
恐ろしく難しい技。話によれば生み出されたその日から成功したものは誰一人としていないという。そして今回、失敗すれば待っているのは鬼からのタッチでは無い、もっと恐ろしいもの。これはもう子供の遊びでは無いのだ。
分が悪すぎる賭けだった。しかし、もうこれしか方法が無かった。
「柳田、少し聞いてくれないか」
「どうした」
「俺は今から壁ダッシュをして奴らの包囲網から抜け出す。奴らのマークが俺に移った瞬間、お前も抜け出すんだ」
「壁ダッシュ!?…大きくでたな。だが、覚悟のうえみたいだな。俺は止めはしないぜ」
そう言ってニヤリと笑う。俺もニヤリと笑い返した。
気力、体力、共に万全。準備は万端だ。俺は近づいてくるフェンリルを睨みつけ、走り出す。
アスファルトを蹴り飛ばし加速する。全力の勢いで行かなければ壁ダッシュは成功しない。俺は体を屈め、出来る限り腕を振って走った。
壁に足がかかった。壁を蹴り飛ばし体を前に送ろうとする。
だが重力は、地球の法則は俺に冷たかった。
必死で前に送った体は重力に負け、無様に道路に転がった。
「八柱!」
俺の名を呼ぶ声。全身にはしる激痛に堪えながらも、俺はそれに答えようとしたが声は出なかった。
「なっ…」
俺の眼前。ピンク色の肉球のついた茶色い足。微かに感じる獣の匂い。そして俺を見詰める黒い瞳。
フェンリルがそこにいた。
「…フェンリル」
消え入りそうな声でその名を呟くと、フェンリルはそれに呼応するの様に僅かに口を開いた。小さく開かれた口の中には濡れた赤い舌と鋭い牙が覗いていた。
失敗の代償はその命。俺は覚悟を決め、目をそっと閉じた。
暗闇の中、俺は襲い掛かる痛みを覚悟していたが予想に反してその痛みはいつまでたっても来る事は無かった。
…一体、何が起こっている。
そう思った矢先、生暖かいザラザラとしたものが頬にあたる感覚がした。
驚いて目を開けると、そこにいたのはフェンリル。一瞬だけ俺と目があうと奴は俺に背を向け去っていった。
「…や、八柱、大丈夫か」
「…柳田。今のあいつの目をみたか?」
「いや、見てないが…」
「…あいつは、あいつは俺に情けを掛けていきやがったんだ!」
「あ、そうなの」
身を焦がす激情に任せアスファルトの道路を殴りつけた。傷つく拳。たが、俺の傷ついたプライドに比べれば些細な傷だった。
気がつけば辺りは暗くなっていた。空は満天の星空で月が真珠みたいに綺麗だった。俺は空を見上げ泣いた。
馬鹿みたいに泣いたのだ。