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四章

 ホテルに戻ってから、皆、他人が居ないかのように読書に熱中している。本は立ち寄った本屋で何冊か盗んできた。

 暇と言える程余裕の有る状況ではないが、やる事がないので仕方がない。

 何時間もこうして、だらだらと過ごしていると、時間の感覚が狂って来る。前後の出来事など存在せず、ひよっとしたら自分は今までもこれからもずっとこうしているのではないか。

 この時間が永遠で、

この部屋の外の世界など存在しない。

 だが、自分は自分だけがずっとこうしていられない事を知っている。ここを離れなければ。

 また、奴が来る。本当は徘徊者と自分の間に関係が有ると聞いた時に、皆から自分を遠ざけるべきだった。それを長い間、気付かない振りをして、先延ばしにしてきた。

 皆がその事を知らないのか、知った上で言わないでおいてくれているのか。そして、知った上で黙っているとしたら、それは気を使ってのことなのか、側に居ても良いと思ってくれているからなのか。それを知る手段はない。そして、あまり重要でも無いがする。

 だが、皆がどう思っていようと、俺が本当に皆の事を考えるなら、出来るだけ早くここを去るべきなのだ。

 時計が進むのが遅く感じる。少し本の文字を眺めて、そして、また時計を見る振りをして、皆の顔を眺める。

 目が合った金山が微笑む。呆けた顔をしていたので、不思議に思われたかもしれない。

 口の端を片側だけ上げて、異常が無い事を表情で報告する。

 再び本に視線を落として、ただひたすらに字を追う。理解できても、内容が入って来ない。

 気づきたくない何かに気付かないように本を読む。


2【徘徊者の記憶】

  子供の頃、俺はいつも皆の輪の外にいた。一緒になって遊んでいるのは、変わり者呼ばわりされる奴ばかりだった。

 二、三人の少ない人数で遊ぶ事が多く、人数が多くなっても五人を越える事は無かった。

 中でも良く遊んでいたのは、カイという名の少年だ。

 正直に言って、カイは虐められていた。変わり者なのだから、変わり者らしく自由にやれば良いものを、人に好かれたいが為に何をされても軽い笑いを浮かべていたし、気に入った人には誰にでも付いて回っていた。

 そんな風に他人を信用して、自分の弱みを見せて歩けば、虐めの格好の的になるのは、目に見えている。

 しかし、俺は疎まれ、蔑まされても、人懐っこい性格のままでいるカイのそういう世間擦れしてない所が気に入っていた。

 数人の狭い人間関係の中でお互いに身を寄せ合い、最終的には殆ど依存していたと言って良いだろう。

 だが、ひょんなことから、カイと俺は喧嘩になり、カイと他の数人の仲間に俺は虐められる事になった。

 カイはある意味、そうやって虐める側に立っている時でさえ純粋だった。だが、純粋で真っ直ぐな力が猟奇的な方向に働けば脅威となる。俺はカイを憎む所か、恐れるようになった。

「何であんなに仲良くしてたのに、急に俺を馬鹿にするんだよ!」

 やっとの事で勇気を出して、一度、そう抗議してみた事が有った。

「うるさい! お前が自分勝手な奴だから、皆が離れて行ってるだけだよ!」

 カイは吐き捨てるように言い返して、逃げて行ってしまった。

 そして、虐めも終わり、関わりを持たなくなった中学進学の時期、俺は地域の多くの子供が行く学校に行かず、別の中学校に進学した。

 あれから、時間が経って、俺はあの時失った全てを別の場所で作り直す事に成功した。それだけで満足だ。地味だが、友達も多い方だ。

 高校生になって、俺は毎日、町を放浪している。

 受験勉強はしていない。

 元から、勉強は苦手だったし、そんな事で俺の能力を証明する必要は無い。働き口も見つけてある。

 それよりも、今は誰かと一緒に遊んでいたい。カラオケやゲームセンターの喧騒が恋しい。

 顔には、自信がある。遊び相手の女はいくらでも調達出来るのだ。友人だって、そうである。呼べば、来る奴は沢山いる。

 クラスで仲の良い女子の瑠璃に電話をかける。

「もしもし」

「あ、唯君?」

「うん。今から、遊ばない」

「ああ、御免。今日ちょっと用事あるわ」

 大して残念そうでもなさそうに瑠璃は残念がった。ついこの間まで、嫌と言う程纏わり付いてきた人間でも、自分から離れられると、やはり良い気分ではない。

「そっか。じゃあね」

「うん。じゃあ」

 周りには、受験勉強を始めた奴らもいて、付き合いが悪くなっている。

 他に誰に連絡しようと考えながら、高速道路の下の道を歩いていると、向かいの遠くから、黒い制服の学生が並んで歩いて来る。楽しそうな談笑がここからでも聞こえる。

 学生が集まる時の悪い風習だが、皆、周りが見えなくなっている。

 交通妨害も良い所だが、喧嘩になるのは面倒なので、何も言わず、自分の歩く軌道をずらした。

 だが、気にしなければ良いのに、その集団が近付いて来ると、何か嫌な予感がして、視線を向けてしまう。

 段々と、距離が狭まり、それに伴って心臓の鼓動が早くなる。

 嫌な予感は、確信に近い物になっている。学生の方を見ないように、何とか目を閉じて、歩き続けた。

 しかし、その集団とすれ違う時、不幸な事に、その中の一人と肩がぶつかってしまった。

「あ、すんません」

 相手が謝って来た。

 良かった。肩がぶつかったぐらいで他人に喧嘩を売るような輩ではないらしい。自分も謝まろうと、目を開ける。

 だが、安心した次の瞬間には、俺は自分の運命を呪った。

 目の前に立っている自分よりやや背の高いその青年はカイだった。

「あ、お前、唯?」

 足が震える。挨拶を返さなければ。変な奴だと思われる。あれから、努力して、今では普通の高校生になったのだ。

 久しぶりに会った友人と話すぐらいの事が何だと言うのだろう。

 そう思って、頭の中で何度も自分を説得したが、口は開こうとしない。それ所か、足が急に動いて、何処かへ駆け出す。

「え、おい!」

 カイの声を無視して、しばらく走って、後ろを見ると、仲間の中に戻って行くカイが見えた。

 もう除け物にされていない。仲間として受け入れられている。

 自分の中に恥ずかしさと嫉妬が沸き上がって来た。

 自分も同じ物を別の場所に持っているはずだ。なのに何故、こんな感情が自分の中に生まれるのだろうか。

 いや、本当はその理由も解っている。

 俺の一部はあの時、消えてしまったのだ。

 中学校に入ってから、もう虐められまいとして、自分で自分の不都合な部分を削り取った。

 だが、そうやって新たに作り出した自分が皆に受け入れられても、俺は嬉しいとは思えなかった。

 いつも笑顔は引き攣っていたし、声を出して大笑いすることも無くなっていた。

 ただ、自分の神経を擦り減らし、皆から浮かないように、必死になって自分を演じていた。

 カイは、今、そのままの自分を仲間に受け入れられている。明確な根拠は無いが、何となくそれは解った。

 堪えられなくなって、人目も気にせず、大声で叫んで、人のいない路地へ走って行く。目を閉じたまま。

 不意に、体が勢い良く何かに吹き飛ばされた。

 それからどれくらいの時間がたったのか解らないが、気が付くと、体に激痛が走った。車に衝突したらしい。

 助けを呼んだほうが良いのだろうが、体を動かす気が起きないので、しばらくそのまま横になっていた。

「死ぬの? 助け呼ぶ?」

 道端に倒れている自分の横に、自分と同じくらいの歳の女の子が立っている。大人しそうで優しい感じだが、儚くて芯の強さというものが感じられない。そんな第一印象だった。

「いや、良いんだ。それより、今から一緒に遊ばない?」

 俺は、何を言っているのだろうか。このままでは死んでしまうのに、女の子を遊びに誘うなんて。

「良いよ」

 自分で誘っておいて何だが、不思議な子だ。

「何歳?」

「23」

 段々、意識が薄れて行く。

「そういうの良いって。本当は?」

「18」

「そっか。同い年。でも、何で泣いてんの?」

 少女は笑顔で涙を流していた。

「男に捨てられたの」

「俺が慰めよっか?」

「良いよ。君、浮気しそうだし」

「しないのに」

 何だか笑えてくる。悲しさと爽快さとも言えるような感情が心の中で混ざり合っていく。

 頭の血が目に流れ出して、目の前が赤色になる。何も見えていない。

「君、目が真っ赤だよ」

「良いよ。これで。綺麗だし」

 何も見たくない。何も見なくていい。

「ふーん。そう」

 少女の立ち去る足音が聞こえたかと思うと、意識が途切れた。


3【カイ】


 目を覚ますと、相変わらず皆が読書を続けていた。結構な時間寝ていた気がするのに、皆の位置が変わっていない。

 間中と竹田は並んで姿勢を崩して、二人で一つの雑誌を読んでいる。

 誰かの視点を辿る様な夢だった。今のは唯の記憶だったのだろうか。

 唯との事は俺にとって忘れてしまいたい出来事の一つだ。虐められた唯にとっては自分勝手な話であろうが、誰にも知られたくない秘密であったのだ。

 その記憶は俺に罪悪感よりも、何かに追われ続けているような恐怖を引き起こさせる。

 俺は十分反省したではないか。今になってまで俺を責める奴が居る訳がない。

「ああぁ!」

 意図しない叫びが口から漏れる。

 尋常ではないように感じたのだろう。皆がこちらを見る。

「俺、あの化け物に追っ掛けられてる臭い。明日出てく。皆に迷惑掛けたくないわ」

 箇条書きの文面を読み上げるように、区切りながらも素早くそれだけ伝える。何を思ったか、急に自分のこれからの予定を話しす気になったのだ。

 ここを出る事を皆に報告するのは、別に今じゃなくても良いだろう。そう思ったが、話しておかないと、次の機会が無い気がしたのだ。

「へ……え?」

 鈴木が仰向けの姿勢のまま上を向いて、こちらを見ている。

 肯定も否定もせずに皆が沈黙する。何を言っているのか解らないという反応ではない。間中から、話は聞いていたのだろう。

「化け物から逃げ回るついでに皆が助かる方法も探して来るよ」

 このままでは皆が俺を追い出しているように見えてしまう。威勢の良いことでも言っておけば、送る側としても気持ちが良い。

「何で?」

 竹田が不満を通り越して怖い物を見るような目でこちらを見ている。

「色々行動してた方が結果的に呪いを解く手掛りを見つけ易いだろ。このまま死ぬ気は無い」

 心の中では、諦めかけている自分自身に言い聞かせる様に、大きな声で宣言する。

 間中が感情的に頭を掻いて、寝返りを打つと、体をベットの上で大きく跳ねさせて、反動で体を起こした。

「そうするしかないね。がんばれよ」

 適当に面倒な事柄を処理するように言うと、そのまま女子の部屋に戻って行く。

 それを見届けて、自分もベットに突っ伏した。

 夢の続きを見てしまうだろうか。それがいい。きっと、そうあるべきなのだ。


4

「お前、いちいち格好つけるよな。気まずくなると、すぐ笑うし」

 早朝に出発しようとして、間中がホテルのロビーで立っているのを見た時には、励ましの言葉でもくれるのかと期待したが、そういうつもりは無いらしい。この期に及んで何の用だ。

「いきなり何だよ。俺、もう出発するから。じ」

「見栄張ったせいで、死ぬ事になるよ」

 間中がわざと俺の言葉に被せて、喋り出す。前にもやられたが、俺の話は聞きたくないということなのか。

 元々、殊に俺に対しては不吉で消極的な事ばかり言う奴だ。

 しかし、どうも様子がおかしい。直球に辛辣な言葉を投げかけてくる割に、その奥に何かをはぐらかそうとする意図を感じる。俺に何か求めている事が有るのか。

「格好つけてねぇよ。てか、どっちにしろ死ぬんだろ?」

 喋りながら歩いて、ホテルの外に出る。

 一応、見送りはするらしい。間中もゆっくりとではあるが、付いてくる。

「怖くないっつうか。わかんないんでしょ」

 主体、客体を省いた面倒臭がりな間中らしい物言いだ。だが、何となくその意味がわかる気がした。

「でも……お前に聞いても解る訳じゃないし」

 通じていたのか、意味が解らなかったのか、俺の発言が的外れだったのか、間中は黙って斜め下を向いている。

「俺が徘徊者とか死ぬ事を怖がってるかっつう話でしょ? 俺、本当に皆の為に出て行くわけじゃないから。だからさ、頼みがあるんだよ。俺が何か解った時に金山さんを呼ぶかもしれない。そしたら、金山さんを守りながら皆で来て」

 目の前に立っているこのふてぶてしい態度の女に伝言を託して、ちゃんと皆に伝わるだろうか。

 間中は手で首の裏を摩っているが、相変わらず何も言わない。

 しかし、何も言わないという事は承諾したと取っても大丈夫ということだろう。こいつは嫌な事なら、その場で嫌と言う。

「古矢さんがさ、呪う相手を追い掛ける事自体が徘徊者の呪いの儀式の一部なのかもしれないってさ。だから、徘徊者に追い掛けられてるお前はもう死亡確定かも」

 それが本題か。元々、そんなような感じの話だったではないか。俺が呪われているという事実がより確定的な事項になっただけだ。

 それ以上は口を開かないことにして、出発する。

 しばらく歩いてから、後ろを振り返ると、驚いた事に間中がホテルの入り口に居るのが見えた。

 不思議に思って見ていると、左手を放り上げる様に高く上げた。数秒すると、気だるそうに重力に任せて腕を落とす。

 別れの挨拶のつもりか。

 言葉を掛け合うことも無く、間中はホテルの中に戻り、俺は前を向く。こういう別れ方をすると、次に会う時が恥ずかしい気もするが。

「いつまで付いて来てんだよ」

 そして、もう一人余計な事をしている奴がいる。俺がホテルと建物を一戸挟んだ路地を通り過ぎると、そこから急に飛び出したのだ。

「俺も行くよ」

「徘徊者が俺を追っ掛けてるから、お前ら置いて来たんだけど」

「別に怖くない」

 勇敢なのか馬鹿なのか。怖かろうと怖くなかろうと徘徊者に会ったら、死んでしまうのだ。

「帰れよ、バカ」

 突き放すように言ってみるが、鈴木は機嫌が悪そうな顔をするだけで帰ろうとしない。

「は? やだ。ていうか、カイ電話もってないじゃん。連絡できないと困るし。別に皆を守る為に出て行くわけじゃないっつってたじゃん」

 間中との会話を聞いていたのか。

 確かに携帯が無いと、金山を呼び出すことが出来ない。

「それだけが理由じゃないって話だよ! 携帯よこして、さっさと帰りなさい」

 受け入れ難い命令であることは承知で言ってみる。急いで、家まで携帯を取りに行くべきか。

「嫌、無理無理」

 予想通りの反応を見せた鈴木が長い手足を大きく振りながら、勝手に進んで行く。

 諦念。普段使わない妙に気難しい言葉が頭をよぎった。もう勝手にすれば良い。

 折角、自分を奮い立たせて出発したのに、出鼻を挫かれた。それに、朝から何だか疲れる奴の相手をさせられてばかりいる気がする。

 鈴木は皆に一緒に来ることは言ってあるのか。

 とりあえずは、テレビ局に向かおう。イザナギが信用できるかどうかは別にしても、今は彼と彼に関する僅かな手掛りを辿って行くしかない。

 堂々と大通りを行こうとする鈴木を止めて、地理を確認する。結果的に遠回りになっても、池袋の中心街を行くのは無理だ。あっという間に死体に囲まれるのが目に見えている。

 そうして、数分も歩かぬ内に駅の近くまで来た。

「犬?」

 近くの建物から、獣の咆哮が聞こえる。小さな商店が入っていた様なビルだ。鈴木が立ち止まって、建物を見上げた。

「犬がゾンビに襲われてるのか?」 

「人の悲鳴も聞こえるよ!」

「じゃあ、人と犬が襲われてるんだろ!」

 声は建物の中から、聞こえる。久しぶりに人間に会えるかもしれない。

「行ってみるぞ」

 建物に近づいていくと、中で反響した人やら犬やらの声が段々、大きくなって行く。中に居る人は一人ではないようだ。

「騒々しいな。なんか、ただ事じゃない感じだぞ」

 壁に沿って、忍び足で入り口まで歩く。入ってすぐの所に階段がある。

 視線を会談の上に向けた。

「で、でけえ!」

 巨大な犬。テレビでしか見たことのないような恐ろしい大きさの大型犬が人を襲っている。

 押し倒された女性が必死に襲い掛かる犬の頭を抑えて、その牙を避けている。

「人と犬が襲われてんじゃなくて、人が犬に襲われてんのか!」

 突然、何かがカランカランと音と共に地面に落ちた。

 驚いて見ると、鈴木の腰から木刀が滑り落ちている。

 犬がこちらに気付き、吠える。

「馬鹿野郎!」

 咄嗟に胸から刀を取り出して、構える。

「ゴ、ゴメン!」

 鈴木があたふたしながら、木刀を拾う。

 犬がこちらに向かって来るまでの僅かな時間で何か策を練らなくては。だが、敵は思った以上のスピードでこちらに向かって来る。

 口を大きく開き、真っ赤な歯茎を見せつけ、階段の上から飛び掛ってくる。犬とは、こんなにも力の強い生き物だったのか。

 なす術なく、地面に体を叩き付けられる。

「えや!」

 鈴木が怯えながら、武器で犬の頭部を殴る。

 しっかりと木刀が当たる音もして、だらりと血が流れているのに、犬はびくともしない。

 明らかに異常である。木刀で殴られて何ともないというのは、生物の耐久力という話で片付けられない防御力だ。

 しかも、先程から、刀の刃を押し付けられているのに、力を弱めることなく、全体重をかけてのしかかって来ている。

 犬の目から、血が流れ、目に入る。

「うわ!」

 力が抜けて、犬の牙が更にこちらに近づく。

 息を震わせながら、よろよろと立ち上がり、襲われていた女性が急に叫んだ。

「その犬、ゾンビです!」 

 もう笑うしかない。お手上げだ。

 徘徊者に殺されて、死ぬのではなく、ここで犬に噛み殺されるのか。

 そんな事を考えていたら、本当に笑いが込み上げて来た。

「ゾンビです! って・・・・・・もう解ってるよ。そんな事」

 鈴木は突いたり 叩いたりして、何とか犬を倒そうとしているが、どんなに犬の体を破壊しても、すぐに修復されてしまう。

 だが、今まで遭遇したゾンビには、痛覚は有ったし、復活はしても、その場で体を作り直すような芸当は出来なかったはずだ。

 いや、そもそも犬も人間と同じようにゾンビになるのか。

 この犬はあの巨大な女と同じ様に、ゾンビとはまた違う別の何かなのだろうか。

「はあ!」

 突然、鈴木のものでない野太い低い声がして、犬の体が揺れる。

 声のした方を見ると、声の主であろう無精髭を生やした男が立っている。

 歳は中年の手前ぐらいに見えるが、強い生命力を感じさせる力強さがある。

 木刀で叩かれてもびくともしない巨体を揺らすのだから、何を使ったのだろうと思っていたが、男の手には何も握られていない。

 まさか素手でやったのか。

 犬が驚いて、男の方へ向き直る。だが、次の瞬間には、男が犬の口が開かぬように脇で、その頭を挟み込む。

「全員で殴れば、すぐ終わる! 協力してくれ!」

 それ自体に説得力が篭っているような声で男にそう言われ、慌てて自分も刀を握る。

「ええい!」

 先程の女性が何処からともなく持って来た包丁を持って、犬に飛び掛かる。

 俺は、ここで死ぬ訳には、いかない。東京から皆が出る方法を知るためにも。

 手首や肩に意識を集中させて、出来るだけ速く、出来るだけ垂直に刀を引きながら振り下ろす。

 刃がほとんど抵抗無く、犬の体に食い込んでいった。これは上手く刀を扱えているという事なのだろうか。

 体を直すのにも、ある程度は時間が掛かるらしい。集中攻撃を受けている犬の体は、段々とだが、修復が間に合わなくなっている。

「後、少しだ!」

 男が犬の頭を押さえながら、叫ぶ。ピンチに陥った事を理解したのか、犬が男を振り払おうとして、頭を激しく振った。

 男が宙に投げ出されて、壁に体を打ち付けられる。

 危険な状況だが、犬が攻撃に転じるまでに、後一太刀でも入れられれば、倒せそうだ。

 だが、犬は、予想に反して、自由になった途端に、女性の頭上を大きく跳躍して、包囲から飛び出す。

 人と駅の低い天井の僅かな隙間をぶつからずに、しなやかにすり抜ける身のこなしは、見ていて、惚れ惚れさせられる程だ。

「後、ちょっとなのに!」

 犬は、駅の構内から逃げ出して、あっという間に遠くの点になる。

 鈴木と共に追い掛けようとすると、男に怒鳴られる。

「無駄だ。止めろ!」

 語気に押されて、後ろを見る。何故だろう。この声で命令されて、逆らえる気がしない。相手を支配する威圧感と言うよりは、従いたいと思わせるような魅力がある。

 男は、自分の背中を叩いて、何か異常が無いか、調べている。

 何ともない事が解ると、険しい表情のまま、声の調子だけ和らげて、 こちらの緊張を解くように親しげに話し掛けて来る。

「大丈夫だったか? 君等、ここに潜伏している人間じゃないな。あの犬は何度、倒しても、またすぐにここに攻め込んで来るから、無理に倒そうとするのは、体力の浪費だぞ」

 刀を胸にしまって、頭を下げる。

 鈴木は何も言わずに、男の方を見ている。こいつも、こう見えて人見知りだったりするから、余計に面倒だ。

「つい今朝まで、近くのホテルに居ました。ずっと立て篭もって生活してたんで、外がどうなってるのか良く解ってないんです。あの犬は良くここに来るんですか?」

 女性が近寄って来る。誰もが美人と認めるかは解らないが、はっきりとした目鼻立ちをしていて、厚い唇と短めの髪をカチューシャで後ろに纏めた髪型が、サバサバとして気の強そうな印象をより強めている。

 何にせよ、血の付いた包丁を持っているから、近付かれると、ぎょっとせずにはいられない。

「何回か倒してるんだけどね。中々、諦めない。最近、何故かああいう強いゾンビが増えてるのよ。ゾンビもある程度ダメージを与えると、光になってどっか行っちゃうのは知ってる?」

 鈴木は自分に向けて言われているのに、黙ったままでいる。答えるどころか、こちらに目を向けて、俺に答えるよう頼んで来る。

 人との会話に難があるのはお前だけじゃない。こんな時に人見知りを発動させないでくれ。

「一度、見た事あります」

 変に思われないように、代わりに答えた。

 尋ねられていない俺の方が答えた事に驚いて、女性がこちらを見る。

「あ、え、そう」 

 話を遮り、男が割って入る。

「良ければ、一緒にこの駅に居てくれないか? ここは子供とかも含めて、沢山人がいるから、若い人達がいると、助かる」

「すいません。それは、出来ないんです。俺、何か幽霊に追われてるらしくて、ここに居ると、そいつが来ちゃうかもしれないんで。でも、こいつなら」 

 鈴木の肩を叩く。

 安全な場所で過ごしていれば、助かる可能性は高くなるのだ。何とか鈴木は、ここに置いて行ってしまいたい。

 男が鈴木を見て、意思確認しようとする。

 自分に白羽の矢が立った事で、鈴木は驚いたような怒ったような顔をして、慌てて喋り出す。

「いや、俺もすいません。テレビ局に行かなきゃならないんです」

 さっきまで黙りこくっていたのに、どうして今になって、急に話し出すのか。しかも、余計な事まで。

「テレビ局?」

 また、面倒で長い説明をしなければならない。質問の嵐が来るのを予感したので、仕方なく説明を始める。

「鳥居の中で会った伊弉諾って人に言われたんです。テレビ局に行くように」

 男が目を丸くする。

「君等、あの中に入ったのか!」

「いや、俺は入ってないっす」 

 鈴木が慌てて、否定した。

 今度は、女性が話に割って入る。

「伊弉諾って、あの神様の伊弉諾? テレビ局ってどこのテレビ局?」

 以前、どこかで聞かれた事のある質問だ。相手が違うのだから、仕方がないが、中々うんざりさせられる。

「伊弉諾が何者なのかは、解りません。テレビ局だって、何処の事なのか解ってる訳じゃないです。でも、今、テレビ局といったら、放送を続けてるあの局しかないと思います」

 男は女性の方を見て、首を傾げる。

「向井。お前、携帯テレビ持ってたな。どこの局の事か解るか?」

「九条テレビの事じゃない? ていうか、私が持ってるのは、ワンセグ機能付きの携帯で携帯テレビじゃないよ」

 男は、女性の話の半分を無視して、「テレビ局か」と呟いた。

 しばらく考えてから何かを決めたように、また、話を続ける。

「今日、一日で良い。ここで過ごしてくれないか?」

 今日、一日。今が何時だと思っているのだろうか。

 今の時刻は、ようやく、朝になって、七時過ぎだ。今から、明日になるまでここに過ごしていては、何時間も時間を無駄にする事になる。

「あの僕等、さっきまだホテルを出たばかりです。こんなにすぐに休んでいたら、テレビ局に着くまで何日掛かるか解んないですし。食料だって限りが有るんです」

 男はバリケードになっている荷物の山を指差す。

「ここに居る間の食料なら、俺達が出す。それに少しなら今持っている食料に足してあげても良い」

 意図が掴めず、困惑しているのこちらを見て、男が頬を綻ばす。先程までとは対照的に表情が和らぐと人が良さそうにも見える。

 食料が一日二食で、せいぜい三日分しかない今の状況を考えると、有り難い申し出だ。

 だが、冷静に考えれば、どうだろう。持久戦になるであろうこの状況で二つも大食いの若い口が増えるのを喜ぶ人間がいるだろうか。何か他の目的が有るのかもしれない。

 先程の強いゾンビ達がそれ程までの脅威であるという事か。

 しかし、女性は、既に何度も倒しているとも言っていたし、そこまで焦るそぶりも見せていなかった。

 疑わしいと思うのなら、どこまでも疑わしく取れる話だが、もし、彼らに別の目的が有ったとして、ここで無理に抵抗するのも危険だ。

「じゃあ。今日一日だけ」

 強く勧めた割には特に喜ぶでもなく、男は頷いた。

「そうか。ありがとう」

 バリケードを退かして、何とか人一人が抜けられるくらいの隙間を作る。

「俺達は、この中で暮らしてるんだ」

 男に促されて、中に入る。

 奥の方で遊んでいる小さな男の子と目が合った。

 小さな足を一生懸命に動かして、こちらに走って来る。

「お兄ちゃん、誰?」

 子供と目の高さが同じになるまで、しゃがむ。

「俺は、カイ。こっちの兄ちゃんは、鈴木」

 他にも子供がちらほらと居て、端で寝ている老人も居る。ここで沢山の人が協力しあって生活しているというのは、本当らしい。

「カイ、鈴木!」

 男の子は、嬉しそうに教えられた名前を呼びながら、こちらを指差した。

「うん」 

 鈴木が照れ臭そうに笑った。

 男の子が鈴木の腰の木刀を取って、鈴木に振りかざす。

「バトル! 戦い!」

「あ! 木刀!」

 男と女性がバリケードの中へ入って来る。

 女性が男の子を呼び付ける。

「コウ!」

 男の子は女の声に驚いて、肩を大きく震わせた。

 恐る恐る、目を伏せながら、女性の方へ歩いて行く。

 叱り付けようとする女性を男が止める。

「怒鳴る事ないだろう。遊び相手がいないから、退屈してるんだ。鈴木君も怪我しない程度に相手してやってくれ」

 女性は反論こそしなかったが、コウの頭を軽く叩いた。それを見た武蔵野が苦笑いをする。

 コウは木刀を手加減無しに思い切り振りかぶって、暴れている。

 小さい子供相手に、こちらから手を出すことが出来ない鈴木は、防戦一方だ。顔を引き攣らせながら、相手の剣を捌いている。

「皆、食事が終わった頃だ。手が空いてるなら、皆の皿集めて貰って良いか?」 

 ラジオを弄りながら、男が指示を出して来る。九条テレビのように放送を続けているラジオ局が有るのだろうか。

 雰囲気からの判断だが、やはり男がここに潜伏している人々のリーダーのようだ。

「はい」

 端の方にいる老人の所へ行き、皿を見る。

 クッキーの袋が一つ残っている。

「すいません。お食事はお済みですか?」

 丁寧な態度でに接しようとして、逆に変な敬語になってしまった。自分でも何か間違った日本語だと思う。

 老人が初めて見る若者に話し掛けられて、驚いている。

「あ、これはコウ君に上げようと思って」

 事態を把握して、慌てて、クッキーを皿から取る。

 別に奪って食べてしまう気は無いのだが、老人は必要以上に怯えている。

「そうでしたか。お皿は下げてしまっても?」

 怖がらせないように、また丁寧な口調でそう言うと、老人は安心した笑顔で微笑んだ。こちらへの警戒心は、解けたようだ。

「あ、お願いします。君は新しく入って来た方?」

 どうなのだろう。ここに長居するつもりの無い俺が新入りという扱いで良いのだろうか。 

「まあ……はい」

 話し相手がいるのが嬉しいのか、老人は先程までと打って変わって、雄弁になる。

「あの男、無愛想でおっかないだろう」

 急に敬語でなくなった上、誰の事を言っているのか解らないので混乱する。

 おそらくは、あのリーダーの男の事だろう。

「そうですね。軍人みたいな感じです」

「あぁ、正にそんな感じだな」

 老人が頷く。

 老人は男を嫌っていて、悪口を言っているのかと思ったが、そうではないようだ。

 老人の口調は、友達同士がふざけあって言う悪口のような感じだ。いや、むしろ父親が自慢の息子を謙遜して、敢えて悪く言っているという比喩の方が近いかもしれない。

「あいつ、武蔵野って言うんだけどよ、異変の後、二日と掛からずに、今のこの避難所を作ったんだよ。やっぱり男は行動力だよなぁ」

 老人が自分の事のように誇らしげな顔をする。どうやら男は本当に人望が有るらしい。

「そうですよね。俺も頑張らなくちゃ」

 残りの人々の皿も集めなくてはいけない。どこかで話を区切らないと、老人とずっと話し込む事になってしまうので、老人が自慢げな顔をしている内にその場を立ち去る。

 老人と俺のやり取りを見ていた他の人達は状況を理解して、すぐに皿を渡してくれた。

 最後に一人の青年の皿を貰いに行く。

「これ、良いですか?」

 皿を指差して、尋ねる。

 青年は、手元で何か機械を操作していて、こちらを見ようとしない。

 作業が一段落すると、こちらを見て、如何にも興味が無さそうに返事をする。

「あ、はい」

 一応、丁寧語の返事だが、こんな態度を取られると傷付く。

「ありがとう」

 こちらも無愛想に礼を言って、皿を受け取った。

 武蔵野に皿を届ける。

「ご苦労様だ。暇潰しと言ってもすること無いだろうが、自由に過ごしてくれて構わない」

 黙って頷く。

 本当に暇になってしまったので、鈴木とコウに交じって、遊ぶ。

 コウは、子供と言っても、本当に小さな子供だ。聞いてみれば、まだ四歳だそうだ。

 ここで出来る遊びは、オセロ、お絵描き、チャンバラ程度だ。危険なので、鬼ごっこやかくれんぼのようなスペースを大きく使う遊びは、勿論、出来ない。

 小さいコウにはこの退屈な状態がずっと続いているのだ。

 可哀相になって、一緒に遊んでいると、先程の青年に手招きされた。

 あんな態度を取っておきながら、今頃、何の用だろう。本格的に喧嘩を売るつもりだろうか。

 青年はニヤついて、手に何かを渡して来る。

 何だろうと思って、ほんの少し重くなった手を見る。

「え?」

 携帯電話だ。先程は、これを弄っていたのか。

「化け物が持ってたのを直して、使えるようにしてみた。持っておきなよ」

「俺が携帯持ってないって何で解ったの?」

「細かい事は気にするなよ。勇者なんだから!」

 青年に背中を叩かれた。

 勇者とは何の事なのだろう。青年の顔を見て、尋ねようとすると、突然、外から人の話し声が聞こえて来た。

「お、帰って来た」

 武蔵野がバリケードの方を見て、言う。

「誰がですか?」

「調査隊。食料の調達とか、東京からの脱出の方法を調べる役割を若い奴らでローテーションしてるんだ」 

 先程通って来たバリケードの穴をさらに広げて、人が男女入り混じって、五人程入って来る。

 武蔵野が手を挙げて、合図すると、五人が武蔵野の周りに集まった。

「どうだった?」

 ジャージを来た短髪の若者がこちらを見る。ジャージはお洒落で着るようなタイプの物ではなく、スポーツマンらしいシンプルな物だ。

「えっと」

「あ、俺は、佐藤カイって言います」

 はにかみながら、お互いに頭を下げる。

「食料も段々、遠くに行かないと手に入らなくなって来ましたね。相変わらず脱出の方法は手掛かりすら無いし」

 もう一人の青年が武蔵野に話し掛けた。

 武蔵野は髭を撫でて、溜め息をつく。

「そうか。いや、それよりも、どうせ夕飯前だ。皆を集めてくれ」

 鈴木がコウを抱き上げて、近寄って来る。

「二人はコウの相手で疲れてるだろ。この辺で少し休んでてくれ」

 確かに疲れてはいたが、コウと遊ぶのは意外に楽しかった。手放しでとはいかなくとも、こんなに思い切り遊んだのは、異変の前も含めて、久しぶりだった。

「いや、俺大丈夫ですよ」

 鈴木と一緒に調査隊のメンバーに協力して、自分も皆に声を掛ける。しばらくすると、人が中心に集まって来る。

 向井が皿に、缶詰やクッキーやチョコレート、ジュースなどを載せて、列になって待っている皆に配る。

 ホテルの皆と居た時の方が人数が少なかったので、一人当たりの食料は多かったが、こんだけの人数が居る割には、豪華ではないか。

 鈴木と共に最後尾の少女の後ろに並ぶと、ジャージの青年が更にその後ろに並んだ。

「二人は、今日来たんでしょ?」

 人懐こそうな笑顔で話し掛けて来る。

「ああ、今朝ここに立ち寄った。明日には、すぐに行っちゃうけど」

 鈴木も少しは慣れたようで、普通に青年に応対している。

「え、何で?」 

「俺達も一応調査隊みたいな感じで、色々手がかり探して見てる途中だから」

 話していると、自分が皿を貰う番になっていた。

 皿を受け取ると、向井に頭を撫でられた。

 スペースを取って、皆で輪になって、食事をする。

「向井さんに気に入られたなお前」

 先程頭を撫でられた事を言って居るのだろう。嬉しくなかった訳ではないが、子供扱いされているようで恥ずかしかった。

「ユウゴ!」

 コウが青年の肩に飛び付き、自分も皿を持って、青年と俺の間に入る。

「あ、そうそう俺の名前、豊島勇悟ね。そっちは、名前何?」

 鈴木の方を見て、ユウゴが尋ねる。

「鈴木進一」

「じゃあ、よろしく。進一」

 楽しげに会話を交わすユウゴの隣で、自分の皿を空っぽにしたコウが俺の皿をじっと見る。

 チョコレートが一個残っているのだ。後に残して置いただけで、食べない訳ではないが仕方ないだろう。

「食べる?」

 コウが目を輝かせて頷く。

 ユウゴがコウを叱る。

「コウ、人の食べ物をじろじろ見るな」

 コウは叱られているのに、何ともない表情でチョコレートを平らげた。

 二人の様子がおかしくて、思わず笑ってしまう。

 そうして、食事を楽しんでいると、急に武蔵野が立ち上がって、輪の中心に入る。

「ええとだな。皆、突然だが、俺はこの二人とここを出る」

 誰もが驚いて、騒ぎ出す。

 誰にも相談せずにそんな事を決めて言いのか。

「ちょっと武蔵野さん! 誰にも相談しないで急にそんな事決めないでよ」

 俺の思った通りの事を向井が言った。

「だから、今、相談してるだろ。このカイ君は、あの鳥居の中に入って、テレビ局に行けと中で出会った男に言われたらしい。不確かな上、不可解なメッセージだが、今、唯一手掛かりと言えるのは、その男のメッセージだ。それを追っている二人を助けて、上手く行くなら、東京から出る方法を見つける」

 リーダーが欠けたら、ここの人達はどうなってしまうか解らない。

 増して、その理由が俺達では申し訳が無い。

「あんたが居なくなったら、俺達どうすれば良い? 他の若い奴らに行かせるんじゃ駄目なのか。」

 老人が武蔵野に言う。武蔵野はその場に座って話を続ける。

「若い奴らはそれこそ大事な労力だ。足手まといにならなくて、それでいて、居なくても、問題無いのは俺なんだよ」

 そういう問題ではない気がする。この男がここでどんな役割を果たしているのか知らないが、男は具体的に何の役に立っているというよりは、皆の精神的支柱になっている。自覚がないのか。

「武蔵野さん。俺達、二人だけでも大丈夫です。ここに居て下さい」

 武蔵野が最初に会った時のような険しい表情をする。

「君達が俺を必要としているかどうかじゃないんだよ。唯一の希望であるそのテレビ局にある脱出の手掛かりを掴む為にも、出来るだけ沢山の人間が動いた方がたどり着く可能性が高くなる」

 理詰めで押し込められて、反論出来なくなってしまった。

 皆が諦めた顔で黙ってしまう。

 話を理解しているのかは解らないが、コウさえもが場の空気を読んで、静かになっている。

「異論が無いようなら、それで良いな」

 誰の返答も聞かないまま、武蔵野が元居た席に戻って行く。

 コウがあぐらをかいている俺の膝に手を乗せて、揺する。

「おじちゃんどっか行っちゃうの?」

 不安げにコウがそう尋ねて来た。その大きな目がこちらを向いたまま動かない。

 どう答えて良いのか解らない。

「どうだろう。解んないや。本気で言ってんのかな」

 自分の言葉に自信が持てず、独り言のようにそう呟いて、周りの人を見る。

「お兄ちゃん達も?」

 立ち上がって、俺の肩に手を置いて、コウが続けて尋ねた。

「え?」

 コウは本当に状況が解っていないらしい。

 子供らしい勘違いだが、コウは俺達を新しく来たここの住人だと思っているのだ。

 本当の事をコウは聞かせて、コウが黙ってはいないだろうが、先延ばしにしても意味が無い。

「んー。でも、早ければ、一日とちょっとぐらいで帰って来れるかもだし」

 地理音痴丸出しだ。

 だが、徒歩とは言え、九条テレビも同じ都内に有るのだ。何局かテレビ局を回る事になる可能性を考えず、伊弉諾が言っていたテレビ局が九条テレビであるとするなら、本当に一日二日で戻ってこれるはずだ。

「ええー! いやだ! 鈴木、行かないよね!」

 コウが鈴木の肩にしがみつく。鈴木が笑って、コウの頭を撫でる。

「絶対すぐ帰って来るよ。東京から出る方法も見つけて」

「ヤアーダー!」

 コウが泣き出して、鈴木の服を引っ張る。

 ユウゴは先程のように怒る事なく、コウを膝の上に座らせて、動かないよう抱きしめる。コウは、それでも、じたばたと体を動かして、鈴木や俺の腕を掴もうとする。

「私、ちょっとコウあやして来るよ」

 向井がコウを抱き抱えて、駅のホームの方へ、歩いて行く。

 二人の姿が見えなくなり、コウの泣き声だけが建物の中で反響する。

「あんまり二人だけで、遠くに行かせない方が良いんじゃないですか?」

 隣の青年は視線で二人を見送ってから、答える。

「バリケード作って有るから、普通のゾンビは入って来れないし、この辺にはワンコぐらいしか強いゾンビは居ないから大丈夫だと思うよ」

「そう」

 皆が食器を一つに重ねて、集める。

 食後しばらくして、タオルケットとクッションが配られた。

 皆が壁に寄って、寝る体制を作り始める。

 膝下だけタオルケットに足を突っ込んで、貰った携帯をいじる。

 検索サイトで今回の異変の事について調べると掲示板やらブログ、ニュースの記事が大量にリストアップされる。

 掲示板は全部見ていると時間が掛かりそうなので、後に回し、ニュースサイトを覗いてみた。

 これといって特に新しい情報は無い。ブログも同じような感じである。

 東京の外の女の子がしたり顔で同情を寄せる日記を書いていたり、宗教関連の団体やオカルト趣味の人々が色々な憶測やら訓戒を書いたりしている。

 後は、自分も東京に行ってみたいなどと虚勢を張って、ブログを炎上させている学生が居るとか、そんな話ばっかりだ。

 まあ、いちいちそんな話に過剰反応する事もない気もするが。

 何だか情けない気分になって、携帯の電源を切って、枕代わりのクッションの横に置く。

 先程の携帯をくれた青年がタオルケットを引きずって、歩いて来る。

 一緒に並んで寝るつもりだろうか。ぜひ遠慮願いたい。

「気に入った? 勇者君」

「さっきから言ってますけど、勇者って何の事なんですか?」

 青年が壁に寄り掛かって、座る。

 少しやにくさいのは、煙草を吸っているからか。

「俺、関田信と知り合いなんだよ」

 関田信。シンの名前だ。

「あいつと連絡取り合ってたら、今朝、あいつの仲間の中で二人行方不明になった奴が居るって言ってたから、多分君の事だろうと思ったんだ。シンが言ってた背格好とも一致したしね」 

 成る程。そういう事か。だが、それはそれで問題が有る。

「ひょっとして、連絡しちゃいましたか?」

 俺が居なくなっても、何も言わなければ、皆、徘徊者に襲われたのだと諦めてくれる。そう思って、ホテルを出たのに、知らせてしまったら、話がややこしくなる。

「いや、大丈夫。それくらいの気は効かせてるから」

 焦る俺の顔を見て、青年が笑う。

 安堵して、溜め息を漏らす。

 慌てた反動で、思った程、親しみ難くもなかったこの青年に親近感が沸いて来た。

 砕けた態度で話し掛けてみる。

「シンとは、どういう知り合いなんですか」

「ネットで知り合った友達ってだけだよ。シンは鳥居の中に入った人がいるって話もしてたけど、君の話だった訳ね」

 何だかちょっとした有名人ではないか。

 照れ臭くて、顔が綻ぶ。

「ところで、関係ない話なんだけどさ」

 少しの間が開けた後、青年が続ける。

「君には君の考えが有るんだろうからさ、俺の口から勝手に言うって事はしなかったけど、シン達に連絡しといた方が良いと俺は思うよ。君が徘徊者って奴に追われてるのも、解った上で皆、君を探そうとしてるし」

 皆に心配掛けているのは承知の上のはずだったが、まさか探しているとは。

 結局、俺は他人に迷惑を掛けていたらしい。

 青年がまたタオルケットを引きずって、その場を去ろうとする。どうやら彼の為の物ではないらしい。

 考える。どうするのが最善なのか。


5

 いつの間にか、うとうとしていて、喉の乾きで目が覚めた。

 口の奥が粉っぽくて、気持ち悪い。リュックサックから取り出した水を飲む。

 皆、眠りに付いている。どうやら、寝ている内に、身ぐるみ剥がされるという事にはならなかったようだ。

 向井とコウの姿が見えない。どこで寝ているのだろう。

 不思議に思って、向井が歩いて行った方に歩いていくと、コウを抱いた向井が寝ていた。

 向井は母親にしては、歳が若かいが、本物の親子のように見える。

「お兄ちゃん?」

 安心して、戻ろうとすると、コウに声を掛けられた。

「起きてたの?」

「うん。もう行っちゃう?」

「ううん。まだ。コウも、もうちょっと寝てて」

 話し声で向井が目を覚ます。

「カイ君?」

「ごめんなさい。起こしちゃいました」

「大丈夫。でも……」

 何か言いかけた向井が急に後ろを向く。

 静かにコウをこちらに押し付けて、起き上がる。

「カイ君、コウ連れて逃げて。何かど偉いのが来てるわ」 

 奇妙な生き物が初めからそこに居たかのように、しゃがんでいた。

 体は、大人の男性と同じ形をしているが、大きさが人より一回り大きい。

 頭からは、シュモクザメのように突起が飛び出していて、先端に大きな目玉がついている。左右の目は、ただ出鱈目に忙しなくあらゆる方向を向いて、動く向きが一致する事はない。

 恐ろしい姿をしているのに、何かを怖がる子供のように、手の指を口に突っ込んで、歯をガタガタと震わせている。

 咄嗟にコウの顔を覆い隠して、抱きしめる。

 暴れて、離れようとするコウを力ずくで抑えつけ、角に隠れる。力加減も考えず、ただ必死にコウの動きを止める。

 向井は仰向けの姿勢のまま、手と足を動かして逃げ出そうとする。

「こ、こいつ……ゾンビじゃない。目が覚めてすぐの時に、私の近くに現れた奴だ。取り付いてたんだ!」

 向井が逃げ出そうとして、背を向けると、化け物が、手をカメレオンの舌のような速さで伸ばして、向井を掴む。

「イヤアアアアアア!」

 化け物が向井の頭を口に入れて、首から上をかみ砕こうとする。骨が歯に当たり、石が擦り合うような音がした。

「アガあああああ!」

 向井の悲鳴が響く。

 コウが口を押さえられたまま、何か叫ぶ。

 しばらくすると、必死に抵抗していた向井の体の動きが虚しく止まって、悲鳴も止む。

 化け物が、陰から覗いていたこちらに視界を向ける。

 恐怖で足が動かない。まるで、地面に張り付いたようだ。

「アヤアイイ!」

 突然、悲鳴を上げて、化け物が逃げ出す。

 一体、何を怖がっているのだろうか。

 自分達も逃げ出そうとして後ろを見る。

 一瞬、時間が止まったように錯覚した。三歩離れない場所に女が居る。

 徘徊者だ。白い顔にニタニタと嫌な笑顔を浮かべて、立っている。

 何故、今ここに居るのだ。俺に取り付いていたのか。コウだけでも逃がさなければ。

「た、助けて!」 

 女のように、叫んだ。自分の悲鳴が自分の中の小さな誇りや体裁みたいな物が吹き飛ぶ音のように聞こえた。

 声を聞いた武蔵野達が集まる。

 人の声が聞こえた途端、徘徊者は透明になって、姿を消す。

「どうしたんだ!」

 駆け付けた武蔵野が向井の胴体を見つける。

「何が起きた?」

 腕の中のコウを解放する。体の力が抜けていく。

 阿呆のように、口が開きっ放しになるだけで言葉は、出て来ない。

 生死の恐怖を前にした人間の信念や勇気の何と無意味なことか。他人を見捨てないぐらいの気概が、敵に立ち向かう勇気が、自分には有ると思っていた。

 下らない。

「お母さん! お母さん!」 

 そして、コウは再び母を失った。

 気が狂った訳ではないが、言葉が浮かんで来ない。喋れない。

 黙ったまま、誰かと目を合わせることもせず、朝まで過ごした。

 出発の時刻が近付く。

 向井が死んでも、計画に変更は無い。

 葬式も出来ず、ただ早朝に、駅の前で向井の遺体を焼いた。光が空に飛んでいく。

「え」

 周りに皆は特に驚くこともなく光を見送っている。あの光は、向井なのか。向井も死体になって、ここを襲いにくるのか。

「どんな形であれ、東京の中で死んだ人間は、ゾンビになる。動き出す時間に差はあるが、動き出す前に燃やしても関係ないんだよ。それより、君たちもそろそろ準備してくれ」

 こちらが驚いた様子でいるのを見て、武蔵野が説明をした。

「そ、そうなんですか」

 口に出さなかったが、それは、さらに憂鬱になる知らせであることに違いなかった。

 武蔵野に言われたとおり、準備を済ませ、出発前に、トイレに鏡の前に立つ。

「誰だよ、これ」

 目の下にくっきりと紺色の線が出ている。

「隈って、こんなにはっきり出るもんなのか」

 感情の伴わない渇いた笑い声が出た。


6

 泣き疲れて、明け方になって、ようやく睡眠についたコウは、出発の時間には、まだ眠っていたが、船津という中年の女性がコウを抱いて、一応、ホームまで出て来た。

「じゃあね。コウ」

 頭を撫でて、声を掛けると、コウが薄目を開けて、こちらを見る。

「お兄ちゃん達、行っちゃうよ」

 船津に言われると、頷いて、手を伸ばして来る。

 向井を助けられなかった事でコウに恨まれているかと思っていたので、少し安心した。

「行ってきます」

 小さな暖かい手を握り、別れを言う。

「そろそろ出るぞ」

 武蔵野がかばんに何か容器を詰め込んでいる。食料だろうか。

 鈴木は、もう線路に下りている。

 飛び降りて、靴の踵を直し、もう一度、コウの方を見て、出発した。

 しばらく心を無にして歩いた。一日中、歩き通すのだから、楽しく陽気になんて言っている場合ではないし、そういう気分でもなかった。

 歩きながら、線路に何度も躓いて、転んだ。

 一度目、二度目は、笑っていたが、三度目になって、武蔵野が寄って来た。

「大丈夫か? 少し休もう。顔色が悪い」

 眉に皴を寄せて、武蔵野が顔を見て来る。目を逸らして、歩き出す。

「いや、のんびりしてたら、今日中に着かなくなっちゃいますよ」

「九条テレビの中には、既にゾンビが入り込んでる。着いたって、休める訳じゃない。休むなら、何処で休むのも一緒だ」

 ようやく一つ目の駅に着いた所で、武蔵野に線路の脇に座らされた。

 休めと言われても、中々、心が落ち着かない。

 もっと節約するつもりだったが、仕方なくチョコレートをかじる。

 糖分が、体に吸収されるのが実感出来る。日頃、健康に問題が出るほど疲れるような事も無かったので解らなかったが、疲れている時に甘い物を食べるというのは、本当に効果が有るらしい。

「何か不思議な感じだね。線路の中ってのも」 

 鈴木が話し掛けて来た。携帯で撮った写真を見せて来る。

 確かに、普通に生活していて、見られる景色ではない。普段、見ているような町並みが違う物に見えてしまう。

「確かに。ちょっと面白いかも」 

 十分ぐらいで出発するつもりだったのに、ふと気付くと三十分近く経っていた。

「良く寝てたな。三十分で足りないかもしれないが、我慢してくれ」

 本当に申し訳無さそうな顔をして、武蔵野が言ったが、むしろ申し訳無いのはこちらだ。

「いえ、すいません。いつの間にか寝ちゃったみたいで」

 再び線路に降りて、線路を歩く。

 二人を心配させないように溌剌と喋りながら、進む事にした。これ以上、到着を遅らせたくない。自分が二人の足を引っ張るのは御免だ。

「武蔵野さんは、仕事何されてたんですか?」

 武蔵野の年代の人と通じる話題が解らない。誰にでも通じる世間話をするしかないだろう。

「普通に会社員やってたな」

 高校生に仕事のことは想像出来ないが、武蔵野は部下から信頼される上司だったに違いない。

「二人は、高校生だよな?」

 質問に答えようとすると、突然、何かが後ろから頭を掠った。

 鈴木が後ろから何か投げて、悪戯をしているのか。

「おい、止めろって。鈴木!」

「カイ! 前見て!」

 前を指差して、鈴木が叫んだ。

「は?」

 前を見ると、黒い影が向こうから迫って来る。

「うおあ!」

 反射的に横に飛んで頭を押さえた。

 振り返ると、足元から少し離れた位置に黒い塊があった。良く見ると、毛が集まっている物だと解る。

 何かの生き物なのか。

 鈴木が武器を構えて、擦り足で寄っていく。

 物体が何やらうごめいて、浮き上がったかと思うと、夜の闇の様な黒の中から真っ白な部分が現れた。

 人間の顔だ。

「う!」

 驚いて、体を肩から引っ張り上げられたように飛び上がる。

 首から下が無い女の顔が宙に浮いているのだ。

 死体達とは違い、完全な白であるが、目からは、やはり死体達の様に血を流している。

 そして、余りの衝撃に最初、その恐ろしい印象を与える物の正体に気付かなかったのだが、目の白目と黒目の色が逆転している。

 口で説明し難いのだが、簡単でも絵にして見れば解るだろう。目の白黒を反転させただけで、こうまでも印象が変わるのだ。

 化け物は髪の毛を足の様にして、さらに高く浮かび上がると、こちらを観察するように少し目を細めた。だが、そうする時も俯き気味の無表情は動かない

「ミエナイ。ミエナイ」

 死体達と同じ言葉を淡々と呪文の様に唱えると、さらに一人一人の顔を凝視してくる。

 近付いて来る鈴木を特に警戒する様子でもない。

 しばらくすると、化け物は、何かの確認を済ましたのか、投げられたボールの様に線路の鉄柵を越えて行った。

「今の……何か偵察に来たっぽくないか?」

 鈴木が言った。

 状況を理解できず、騒ぐ事も出来ない。

 だが、良くない事が起きようとしているという予感だけは三人に共通しているらしい。

 武蔵野があくまで冷静に、それでいて忙しなく周囲を見渡した。

「とりあえず、ここから離れよう。大きな駅の近くにでは、どっちにしろ線路から離れなきゃいかんしな」

 言われるままに線路とその横の広い道を抜けて、民家が立ち並ぶ狭い路地に入って行く。

 年月を感じさせる背の低く、古い木造住宅の間の道とも言えない道を方向感覚を頼りに線路と出来るだけ平行に進む。

 そんな道であるからして、当然たまに行き止まりに会い、大きく迂回しなければならなくなる。

 迂回を強いられる度に、先程の女が再び背後に現れる妄想が頭をよぎり、次第に恐怖と焦りが積み上がって行く。

 早く、出来るだけ遠くへ行きたい。

「もう線路に戻るの止めた方が良さげじゃないかなぁ」

 緊張感が限界を超え、はち切れそうになった頃、喋って自分の恐怖を逃がすためか、本当にただそう思ったのか、鈴木が口を開いた。

「か」

 かもな、と返答しようとして、口が止まる。引いていく波の音がする。

「何の音だ?」

 勿論、ここは、海ではない。

 突然、進行方向の地面から黒い毛が這い出して来る。

 音が別の方角からもしたので、振り返ると、やはり黒い物が地面から吹き出している。

「こ……れ、は!」

 三人が同時に全速力で道の分岐点まで走り出す。

 今までの経験値が教えてくれる。何かを見て、不審に思った時には、もう遅い。何かを見た時に逃げ出さなければ。

 だが、それでも助かる事が保証されている訳ではない。

 左右の道には既に髪の毛が吹き出している。

「んああ!」 

 忽ち、コンクリートの地面が髪の毛に覆われた。

 毛の吹き出して来る場所が僅かに盛り上がる。

 そして、そのつむじと思われる部分がこちらが恐怖に押し潰されるのを待つように、わざとらしい程ゆっくりと浮かび上がり、あの白い顔が現れた。

 武器を手にして、鈴木と武蔵野と背中合わせに立つ。

「仲間を呼んで来た訳ですね」

 軽い口調で強がってみるが、自分の背中が明らかに震えている。

 化け物が上から吊られる操り人形の様な妙にかくかくとした動きで、髪を振り乱す。

「うわあ」

 恐怖に耐え切れなくなった鈴木が一気に間合いを詰めて、木刀を叩き付けようとした。

 足元の髪の毛がうねり出し、両方の手足が搦め捕られる。

 化け物の傍まで引きずられて、首元に噛み付かれそうになった。

「ふあ!」

 手で何とか防ぐも、化け物は今度は防いだ手を噛みちぎろうとして来る。

 手足は思うように動かず、この間合いでは刀も振れない。

 今の状況で出来る事は何だ。

 胴に押し付けて、離そうともがく。

 だが、化け物はびくともしない上に、下手に力を入れると、自分の腕が痛い。

 肘打ち。不意に頭に、その言葉が浮かぶ。

 体全体を縮めるようにして、肘を化け物に打ち込む。 

「アギ」

 腕に激痛が走り、化け物がこめかみから血を流し体から離れた。

「ああ!」

 続けて、片手で何かを素早く持ち上げるようにして、下から肘を入れる。

 僅かに緩んだ髪の毛から手足を抜き、化け物の背後に逃げ込む。

「カイ君、逃げろ!」

 武蔵野の声が響いた。

 別の路地に走り、出鱈目に道を曲がり続ける。

「うおあ!」

 何度目かの角を曲がるると、また目の前に女が踊り出た。

 姿勢を低くして、走っている勢いのままに敵の下をくぐり抜ける。

 奴らは、こちらの位置が解っているのではあるまいか。

 恐ろしい仮定をしながら、走りつづけると、いつの間にか敵は現れなくなっていた。

 今教われても、もう逃げる体力は残っていない。

 おぼつかない足取りで歩いていると、同じ様な大きさの民家が碁の目のように並ぶ住宅街の中に、突然小さな公園が現れた。

 大抵の遊具は塗装が禿げているが、花壇には鮮やかなチューリップが咲いていて、異変の前までは、人の手が加わっていたのが解る。

 周りの塀には、上品とは言葉や呪いの言葉のような物が落書きされている。

 中にはセンスの良い絵のようなものも有るが、こういう物を描いて行く人間は一体いつ描いていくのだろうか。

 水道が有るのが見える。傷口を洗った方が良いだろう。

 起こった出来事に呆然としながら、蛇口を捻ると、恐ろしく勢いが無いが、一応水が出た。

「いっつ! ちー」

 冷たい水が傷口の上を流れると、電流の如く痛みが走る。

 ふと携帯が振動しているのに気付き、ポケットに手を突っ込む。

 鈴木かもしれない。そう思って、開くと、画面に金山の名前が表示された。

「もしもし、カイ君?」

 金山の声を聞いて、おっとりとした声に何かが途切れそうになる。

「あ、ああ、俺、どうしよう。化け物に襲われて、鈴木達置いて来ちゃった」

 金山が戸惑っているのが解る。驚かせてしまったか。

「私、何でもないんだけどさ。カイ君が鈴木君が何か解ったら、私に来て欲しいって言ってたって聞いたから電話したんだけど」

 何でもあるではないか。

 間中の馬鹿は言った通りのまま金山に伝えたのか。不審に思われても仕方が無い。

「え。いや、皆で来て欲しいな、と思って言ったんだよ。ちょうど、その時、金山さんの話題出てたから、金山さんの名前出したんだと思うよ。良く覚えてないけど」

 言い訳にしては苦しいか。いや、そもそも間中に伝える時に、俺が気を付けるべきだった。

 金山に何か有ると感づいているのは、男だけだった。間中は、本気で気付いていない可能性が有る。

「そう……。後は、じゃあ、鈴木君はそっちに居るんだよね」

 金山が皆に報告しているのが聞こえる。鈴木は皆に言わずに出て来たのか。

「何やってんだよ。あいつは」

 刈谷が怒鳴るのが聞こえた。

 金山が電話口に戻って来る。

「カイ君、今何処か解る?」

「いや」

「電信柱に何か書いてない?」

 公園の入り口に有る電信柱に寄ると、現在地が書かれた青い板が貼って有るのが見えた。

「市谷?」

 俺が言った地名を金山が読み上げる。シンに調べてもらっているらしい。

「日仏学院って所が近いみたい。鈴木君にもメールで知らせとく。きっと生きてるよ」

 金山の機転に感謝する。

 間抜けな自分にも、うんざりするが。迷った時に、目立つ建物や場所か何かに集まるのは、常識ではないか。

「そうか。ありがと。またかけるね」

 どちらにしろ、二人が危機を脱して、生きていないと仕方が無いのだ。

 道の記憶が曖昧でも元の場所に戻れない事は無いだろうが、戻った所で化け物をどうにかしないと、繰り返し所か、今より酷い状況に成り兼ねない。

「?」

 そこに行ってみよう。

 現実逃避にも近い希望に賭けて、大通りに出る。

 看板に大きく案内が出ているのを頼りに、歩いていくと、目の前に背の高い木々に囲まれた建物が現れた。日光が無いので、ぼんやりしているが、芝生の緑が目に気持ちいい。

 学院というくらいなのだから、何かを勉強するところなのだろうが、こじゃれた感じに作られている。

 東京がどうなろうと、力強く立ち続ける死と対称の生の象徴としての木が心の不安を和らげる。手の平を押し当てれば、その鼓動を感じる気さえした。

 しばらくここに居よう。

「カイ!」 

 三分も経たない内に、鈴木の声が聞こえた時、目の前の光景を信じられず、逆に警戒してしまった。

 むさ苦しいのも忘れて、二人に飛び付こうとする。

「鈴木、武蔵野さん、どうやって」

 その時だった。

 突然、三人が集まった地点の周囲のアスファルトの裂け目から、髪の毛が這い出して来る。

「敵が付けてきたのか!」 鈴木が上擦った声でうろたえて、首を振る。

「いや、一回は巻いたよ!」

「じゃ、待ち伏せか?」

 三人が挟み撃ちされるのを避けるために、陣形から逃げ出す。

 武蔵野の鞄から酒の瓶が転がり落ちる。

 髪の毛が諦めず、同じ方向に逃げ出した俺と武蔵野に向かって来る。

「鈴木君」

 武蔵野が視線で酒の瓶を示して、鈴木を呼ぶ。

 こんな時に、本気で酒の心配をしている訳ではあるまい。何の考えがあるのだろうか。

「自分に絶対に掛からないようにしろ!」

 武蔵野は、さらにそう続けて、ライターを放った。

 燃やす気か。

 鈴木が震える手で、髪が密集している地帯に瓶を叩き付ける。

 敵がこちらの行動に気付いた。意図を理解しているのか解らないが、鈴木を警戒し始めているようだ。

 瓶の中身を髪の毛が吸い上げて行ったのを確認すると、あっという間に火回った。

 巨大な赤い花にも見える。

 焼け爛れて、さらに恐ろしい姿になった化け物は、しばらく鼠花火のように跳ね回ると、息絶えた。

 その体から赤い光が浮かび上がる。

 損傷が酷くなると、赤い光になると言う事はこれも死体と同じ種類の化け物と言う事か。だが、そもそも損傷する前から、姿が元の生物の原形から、あそこまで大きく変化している死体は今まで居なかった。死体たちと違って、幽霊と同じような超能力のような力で体を動かしていたのも気になる。

 鈴木が走り出すと同時に自分達も逃げ出す。

「線路に戻らず、進むぞ」

 奴らが再び追い掛けて来るのではないか。

 無限に続くように感じるマラソンが終わった頃、ようやく俺達は敵が追っ手来ないことに気付いた。


7

 小走りしていた足の感覚が鈍くなっていって、速度が歩くのと変わらないぐらいになる。

 息が切れて、脇腹が痛い。おまけに酸素不足のせいで、頭まで痛くなってきた。

 だが、もしここで俺のために二人が脚を止めて、敵に襲われたりすれば、申し訳ない、では済まされない。

「カイ」

 後ろで二人が立ち止まった。さすがに疲れが出てきたか。

「どうした?」

「どこかで休めない?」

 鈴木が掠れた声で言った。

 周りは、相変わらず住宅街だ。うまく紛れてしまえば、死体達からは、しばらく姿を隠せそうだが、幽霊が出そうで怖い。

 怖い、と感じる場所には近づくな、と古矢も言っていたではないか。

 間中を連れて繰ればよかった。考えてみれば、あいつに気を遣ってやるような義理は、こちらにはないのだ。

「最悪どれかの建物に入ることになっても、明るい雰囲気の建物がいいよなぁ」

 不意に、空から何か降ってきて、鈴木の肩に止まった。先程の化け物か。

 一瞬、目をふさいで飛び退く。

「鳥?」 

 黒いつやのある体をしたカラスだ。

 首を回して、こちらの顔を見ると、鳴き声を上げた。カラスの表情など知る由もないのだが、笑っているように見える。

「真右の建物なら、幽霊はいないし、生存者がいるぞ」

 鳥が喋った。

「うお! 鳥が喋った!」

 鈴木が叫んだ。きょとんとして、鈴木の肩のカラスと顔を見合わせた。

 理由は解らないが、聞こえてくる声は確かにカラスから発せられている。

 怖いのは、こいつ自体が何か呪いに関する物かもしれないということだ。

「お前、何者だ?」

 刀を向けるが、カラスは特におびえる様子もない。羽の間に肉食獣の掻き爪のような嘴を突っ込んでいる。

「良いから、従え。殺す気なら、とっくのとうにそうしてる」

 男性とも女性とも老人とも若者とも判断し難い独特の声だ。

 鈴木の喉元に嘴をあてがっている。脅しのつもりだろうか。嘴で人間の喉を裂けるのだろうか。

 だが、喋るカラスである。それができても不思議ではない。とりあえずは、従うしかないか。

 仕方なく、ドアの前でインターホンを押す。

 物が落ちるような音がした後に、慌てた様子で本当に女性が出て来た。

 本当に生存者がいたのだ。

「助けに来てくださったんですか? 助かります!」

 救助の軍隊か何かだと思われたらしい。

 年をとっている様子でもないのに、酷く疲弊していて、老けて見える。

 すがりつくような視線が心に痛い。

「すいません。違うんです。しばらく、ここで休ませてもらえませんか?」

 ゆっくる話し手結論を先延ばしにすると、余計に相手を落胆させる気がしたので、一息に言い切ってしまう。

 相手はぼんやりとした顔で、こちらを見ると、やはりがっかりした表情になった。

「そうですか……。でも、あの、食料とかは」

 露骨にいやな顔をされて戸惑う。

 しかし、食料が貧窮している状況で急に見ず知らずの男三人にたかられるのは誰でもいやだろう。

「大丈夫です。食料はあるので」

 大人気無かったと思ったのか、申し訳なさそうな顔になって女性が笑った。こちらに悪意や敵意が無いことが伝わったのかもしれない。

「そうですか。狭いですけど、男の人が居てくれると心強いです」

 ようやく何とか玄関まで通してもらえた。

 女性は鈴木の肩のカラスを見てぎょっとしている。

「すいません。こいつすぐ何とかするんで」

 何とかって何だ、自分で言いながら思った。

 鈴木も頭を下げる。

 家の中は押し入っておいてなんだが、確かに凄い広いとは言えない。

 明かりの付いている奥の部屋から女の子が顔を出す。歳はコウより少し上ぐらいだろうか。

「ビデオ終わったー」

「うーん。次何みよっか……」

 母親の顔になって、女性が微笑んだ。親子二人でここにずっと居たのか。心細かったろうに。俺達を助けに来た救助だと思いたくなる気持ちにも合点がいく。

「あ、良ければ、皆さんも居間までどうぞ。お茶ぐらいは出せますから」

「申し訳ないです」

 居間に通してもらうと、キッチンテーブルのパソコンの前に、髪を左右で結んだ先程の女の子が座っている。

 ビデオというのは、インターネットの動画サイトのことらしい。

 なるほど、一般家庭で買ってあるビデオなどは、全部見たとしても、せいぜい二三日で見終わってしまうだろうが、動画サイトに揚げられているアニメーションなどなら、もう少し持つ。

 母親がパソコンを触ると、アニメーションの続きが流れる。

「こんにちは」

 目線の高さを合わせて、女の子に話しかけてみる。

 女の子はこちらを一瞬見て、助けを求めるような視線で母親を見た後、すぐに画面に視線を戻した。

「みぃちゃん。お兄ちゃん、こんにちは、だって」

 母親に言われて、しぶしぶこちらを向く。

「こんにちは……」

 人見知りだからか。俺が変なやつだと思われているのか。いや、実際変な奴なのだが、コウのように積極的に構ってはくれないか。

 何か上げられるお菓子でも有ればいいのだが。

 ジーンズの尻のポケットに、ミルク飴のごろごろとした感触が有る。

「お母さん。みぃちゃん。飴って大丈夫ですかね?」

 お茶を入れていた母親が笑った。大丈夫ということか。

「大丈夫です。みぃちゃん、良かったね。お兄ちゃん、飴くれるって」

 みぃと言う名前ではないだろうが、ここではみぃと呼ぶことにしよう。

 みぃが差し出した手の中の飴を見つめる。

「どうぞ」

 受け取ってくれない。好きな飴ではなかったのだろうか。

「ふくろ」

 ふくろ。袋が開けられないのか。

 恥を掴んで袋を破り、みぃの小さな手の上に、飴を転がす。

 みぃが口の中で飴を転がして笑った。

 子供が天使に見えるというのは、ただの比喩ではないな、とふとそんな事を思った。

 パソコンの画面では食べ物がモチーフになっていると思われる二頭身キャラクター達が何やら騒いでいる。

 ちゃぶ台の方に座っていた鈴木の肩には相変わらずカラスが居座っている。

 本当に何が目的なんだ。

 鈴木の隣に座る。

「で、お前はいったい何者なんだよ」

 いざなぎと関係が有るのかもしれない。直感で、そう感じた。

 人間以外で、言葉が通じるのは、イザナギとその関係者の特徴のように思える。

「こういうことが言いたいのか?」

 カラスが小馬鹿にした態度でそう言うと、胸の辺りから足がもう一本生えて来る。

 その通りだ。イザなぎに関係していると考えた最大の理由は、このカラスを日本神話の八咫烏と重ねて考えたからだ。

「やっぱり、そうなのか!」

「足なんか、いくらでも増やせる。これはお前の想像に合わせただけだ」

 鳥に馬鹿にされたような気がして、プライドが傷つく。

 みぃが不思議そうな目でこちらを見ている。

「これは、そういう類のものではないな」

 真ん中に生えていた足が炎に包まれて焼き尽くされた。カラスは遠い目をして窓の外を見ている。

 窓は完全に締め切られている。多少暑くても、命は代え難いだろう。

 母親までやってきて、こちらの様子を見ているが、構わずに武蔵野が強い調子で問い詰める。

「お前の目的は何だ? どうやったら、東京から出られるのか知っているのか?」

 カラスが質問した武蔵野の方ではなく、鈴木と俺のほうを向く。

「大体の筋についてはお前達の想像が合っている部分もあれば、ずれている部分もある。そんなに面白い話でもないが、ここで全て話してしまうのはもっと詰まらないだろうな」

 更に数泊置いて、視線を俺のほうに向ける。

「むしろ……むしろ、これから、お前の身に起こることの方が面白いぞ。どんでん返しだ」

 脅かす意図は見えないが、一体何のことを言っているのだろうか。

 カラスがまた笑うように鳴き声を上げる。

「似ているようで、似ていないなお前は」

 カラスの全身が火に包まれて、今度は完全に姿を消してしまった。

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