第5章 思い
僕はギイーンの笑顔を最後にまた意識が遠くなるのを感じた。
目を覚ますとギイーンを追って入って行った神社の石碑の前だった。
夕日がオレンジ色に石碑を染め葉の揺れる風のやさしい音色が聞こえていた。
僕は石碑に手を当ててみた。石碑はひんやりとしていた。
今までの出来事は夢だったのか。
僕は現実の世界で夕日に染まっていく木々を見つめていた。
しばらくすると、砂利の上を歩く足音が聞こえてきた。
僕が目をやると向こうのほうから一人の男の人が近づいて来た。
「お父さん?」
僕は驚いた。まだ夢でも見ているかと思った。
「光、こんな所にいたのか。朝からいないって聞いて心配してたんだぞ。」
そう言って上から僕を見下ろした。
「ごめんなさい。」
僕はうつむく事しか出来なかった。久しぶりにお父さんの声を聞いた。
いつもすれ違いの生活をしていたせいかここに居るのが不思議な気分だった。
「どうしてここにいるってわかったの?」
「伯父さんがお前がこっちに方に走って行くのを見たって言うから探しに来たんだ。朝から何してたんだ。」
「…。」
「帰るぞ。」
そう言って後ろを向いたお父さんは、何かに気を取られるように動きを止めた。
お父さんの目線の先には今にも朽ちそうな木で出来たベンチが置いてあった。
「どうしたの?」
「まだ、あったのか。」
お父さんは独り言のように呟くと、懐かしそうにその木のベンチを触りながらゆっくり腰を下ろした。
「?」
僕が黙って見ているとお父さんは何かを思い出している様に宙を仰いだ。お父さんはゆっくり口を開いた。
「ここで、お母さんに初めて会ったんだ。」
「えっ?」
僕はお父さんの言葉にびっくりした。お母さんが亡くなってから一度もお母さんの事を口にした事がなかったからだ。
「まだ、大学生の頃、合宿でこの近くに来ていて、練習がきつくてよくサボってここで涼んでいたら、お母さんがこの先の図書館に通っていて、いつも目が合ってね。そのうち話すようになんたんだ。」
お父さんは照れ笑いをした。お父さんの笑った顔を見たのは久しぶりだった。
「それで、お母さんの事好きになったの?」
「ああ、そうだな。」
「じゃあどうしてもっと大切にしてあげなかったの?」
お父さんは目を細くして遠くを見つめた。
「仕事が忙しくて、いつのまにかお母さんを放っておいてしまった。病気になっても見舞いにもたいして行ってやれなかった。悪い事をしたと思っている。」
「お母さんはいつも一人で病気と戦っていたんだよ。」
「父さんが殺したようなもんだな。光も俺のこと憎んでいるだろう?」
「…。」
僕は下を向いた。返事が出来なかった。
「父さんがもっと母さんの病気に早く気づいてあげれば、死なずに済んだかもしれないな。光にも寂しい思いさせてしまった。あの時の気持ちのままいられればよかったのに…。」
お父さんはお母さんの最後も仕事で看取ってやれなかった。
「お母さんも恨んでいるだろうな。何もしてやれなかった。家族の為と思ってきた仕事がお母さんをを失わせる事になってしまった。」
お父さんはそのまま黙ってしまった。お父さんはお父さんなりにお母さんの事を思っていたのかもしれない。
お母さんと出会ったこの場所がお父さんのカラカラの心を甦らせたのか。
今まで僕が知らないお父さんがここにいた。
こんなにも自分の気持ちを話してくれた事は一度もなかった。
僕の中で存在しなかったお父さんが初めて見えた気がした。
お母さんが好きになったお父さんだ。
僕はずっと許せなかったけど、今なら少しお父さんの事情も理解してあげられるかもしれない。
きっとお父さんとお母さんの間には僕には分からない絆があるんだね。だって僕の知っているお母さんはいつも笑っていた。それは幸せだからお父さんに向けているからだよね。ギイーンも竜樹の前で最高の笑顔をしていた。幸せでなければそんな笑顔しないよね。僕の意識の中に出て来たお母さんも笑っていた。
「お母さんは、お父さんといれて幸せだって、それに僕はお父さんと仲良くするようにって。」
僕はにっこり笑った。
僕の言葉にお父さんは戸惑った表情をした。
それがお母さんの願いだから。僕はお父さんを嫌うだけでお父さんと向き合おうとしなかった。
「光?」
「帰ろうよ、お父さん。」
僕とお父さんは並んでゆっくりとその神社を後にした。
オレンジ色の夕日がいつまでも僕達の背中をやさしく押してくれた。