勇者の姉ですが、弟が世界を救う前にブラック職場を潰します
弟が勇者に選ばれた日、王都の広場は歓声に包まれていた。
「聖剣が応えたぞ!」
「勇者様だ!」
「これで魔王を討てる!」
人々は口々に叫び、白い花びらを空へ投げた。
その中心に立っていたのは、私の弟、レオン。
まだ十六歳になったばかりの、少し寝癖の残る男の子だった。
聖剣を握ったレオンは、呆然とした顔で私を見た。
「姉さん……」
不安そうな声だった。
当然だ。
昨日まで畑で芋を掘っていた弟が、今日から世界を救えと言われているのだから。
王国の大臣は、そんな弟の肩に手を置き、満面の笑みで言った。
「勇者レオンよ。君にはただちに魔王討伐の旅へ出てもらう」
「ただちに、ですか?」
「ああ。一刻の猶予もない」
「でも、準備が」
「心配はいらない。王国が全面的に支援する」
私は、その言葉を聞いた瞬間、眉をひそめた。
全面的に支援する。
そう言う人間ほど、たいてい支援の内容を具体的に言わない。
「大臣閣下」
私は一歩前に出た。
「勇者の姉、ミナ・ラウレルと申します。弟の旅程、予算、装備、同行者、医療体制について確認させてください」
大臣は、初めて私の存在に気づいたようにこちらを見た。
「君は?」
「勇者の姉です」
「ふむ。家族として心配なのはわかるが、これは王国の重大な使命だ。細かなことは我々に任せなさい」
「細かなこと、ですか」
私は弟が握る聖剣を見た。
弟の手は、少し震えていた。
「十六歳の少年を魔王討伐に向かわせるための食料、寝床、護衛、治療、休息日、撤退基準、そして後遺症が残った場合の療養費と生活保障は、細かなことでしょうか」
広場が静まり返った。
大臣の笑顔が、ほんの少し引きつった。
「……君はなかなか口が達者なようだ」
「弟の人生がかかっていますので」
「だが、勇者には使命がある」
「使命があれば、帰ってきた後の人生を考えなくてよいのですか?」
「帰ってきた後?」
大臣は、まるで考えたこともなかったような顔をした。
私は弟が握る聖剣をもう一度見た。
その手は、まだ震えている。
「魔王を倒しても、弟の人生はそこで終わりません。腕が動かなくなったら。歩けなくなったら。剣を握れなくなったら。その後の暮らしを、王国はどう支えるおつもりですか」
大臣は答えなかった。
「勇者を称える銅像を建てる前に、生きて帰った勇者が温かい家で眠れるようにしてください」
弟が、小さく息を呑んだ。
私はその横顔を見て、胸の奥が痛くなった。
世界中の人が、この子に魔王を倒してほしいと願っている。
けれど、魔王を倒した後のこの子が、ちゃんと帰ってきて、ちゃんと食べて、ちゃんと笑って暮らせるかどうかを考えている人は、どれほどいるのだろう。
少なくとも、ここにいる大臣は考えていない。
ならば、私が考えるしかない。
「王国が全面的に支援してくださるとのことですので」
私はにっこり笑った。
「まずは契約書を拝見します」
*
結論から言うと、契約書は最悪だった。
『勇者は王国の命に従い、魔王討伐まで任務を継続するものとする』
『旅費は任務完了後に精算する』
『傷病による離脱は原則として認めない』
『任務中の装備破損は自己責任とする』
『任務により後遺症が残った場合の補償は、王国の判断に委ねる』
『勇者の家族への生活支援は、任務完了後に協議する』
私は思わず、契約書を二度見した。
いや、三度見した。
何度見ても、ひどかった。
「大臣閣下」
「何か問題が?」
「問題しかありません」
私は契約書を机に置いた。
「まず、旅費が任務完了後に精算というのは無理です。道中の宿代、食費、薬代、馬の世話代を十六歳の少年に立て替えさせるおつもりですか?」
「勇者には聖剣がある」
「聖剣で宿代は払えません」
「人々は勇者に協力するだろう」
「つまり、民に無償奉仕を求めるのですか?」
大臣が黙った。
私は続けた。
「傷病離脱不可も論外です。熱が出ても骨が折れても戦えということですか?」
「勇者とは、そういうものだ」
「それは勇者ではなく消耗品です」
隣に座っていた若い神官が、思わず口元を押さえた。
大臣が鋭く睨む。
神官は咳払いをして、何もなかったふりをした。
「そして、後遺症が残った場合の補償を王国の判断に委ねるとは何ですか。弟が歩けなくなった後で、王国が『想定外でした』と言えば終わりということですか?」
「そのようなことは」
「では、契約書に明記してください。療養費、生活費、家族への支援、復帰できない場合の職の保障。すべてです」
「そこまで求めるのか」
「そこまで考えずに、弟を魔王討伐へ出すおつもりだったのですか」
大臣は不快そうに眉を寄せた。
「勇者の姉というだけで、ずいぶん強気に出るのだな」
「姉だからです」
私は即答した。
「勇者である前に、レオンは私の弟です。朝は寝癖をつけて起きてきますし、芋の皮むきは少し雑ですし、雨の日は古傷でもないのに膝が痛いと言って畑仕事をさぼろうとします」
「姉さん!」
弟が真っ赤になって叫んだ。
私はかまわず続けた。
「そんな普通の子どもを、王国は勇者として送り出すのです。ならば、英雄として称える前に、一人の人間として守る責任があるはずです」
大臣は、しばらく私を睨んでいた。
けれど、広場でのやり取りを聞いていた者たちの視線もある。
彼は渋々、契約書の修正を認めた。
ただし、私はそこで安心しなかった。
こういう人間は、紙の上では約束しても、実際の運用でどうにでもごまかすものだ。
*
その日のうちに、私は勇者一行への同行を決めた。
弟は驚いていた。
「姉さん、本当に来るの?」
「来るわよ」
「でも、魔王討伐だよ?」
「だから行くの」
私は荷物をまとめながら答えた。
「あなた一人で行かせたら、三日で路銀が尽きて、五日で野宿して風邪をひいて、七日目には大臣に『勇者とは苦難を乗り越えるもの』とか言われるに決まっているわ」
「否定できない」
「でしょう」
勇者一行は、弟のほかに三人いた。
聖女候補のアリア。
魔術師のノクト。
騎士見習いのガレス。
全員、若かった。
アリアは十七歳。
ノクトは十八歳。
ガレスは十九歳。
世界を救うには若すぎて、王国に使い潰されるにはちょうどいい年齢だった。
「ミナさんは、何を担当されるのですか?」
聖女アリアが、おずおずと尋ねた。
「補給、会計、交渉、旅程管理、宿の手配、薬の在庫、休息日の確保、食事の栄養管理、報告書の作成。それから、必要なら大人を叱る係です」
「最後の比重が大きそうですね」
魔術師ノクトがぼそりと言った。
「わかっているじゃない」
騎士見習いのガレスは、真面目な顔で頭を下げた。
「よろしくお願いします。正直、契約書の内容はよくわからなかったので助かります」
「わからない契約書には、絶対に署名してはだめ」
「はい」
「特に王宮が出してくる契約書は、笑顔で人を削るから気をつけて」
「はい」
弟が小声で言った。
「姉さん、王宮相手に強すぎない?」
「レオン」
「うん」
「世界を救う前に、自分の命と、その後の人生を守りなさい」
弟は少しだけ目を見開いた。
それから、聖剣を抱きしめるようにして頷いた。
「うん。わかった」
*
旅は、想像以上にひどかった。
もちろん、魔物は危険だった。
けれど、それ以上に危険だったのは、王国からの無茶な指示だった。
『三日以内に黒森を抜けよ』
『北砦へ寄り、負傷兵を回復させよ』
『補給は現地調達とする』
『魔王軍の斥候を発見次第、即時討伐せよ』
私は伝令から受け取った指示書を読み、即座に返書を書いた。
『黒森は毒沼を含むため、三日での通過は不可能。最低七日を要する』
『聖女候補は回復魔法を無限に使えるわけではない。北砦の負傷兵全員の治療を求めるなら、別途神官団を派遣されたし』
『現地調達とは、現地住民への負担を意味する。王国名義で補給代を支払うこと』
『斥候の即時討伐は危険。情報収集後、必要に応じて対応する』
伝令の少年は、青ざめた顔で私を見た。
「あの、これを本当に大臣閣下へ?」
「ええ」
「怒られませんか?」
「怒るでしょうね」
「では」
「怒るほうが悪いのです」
私は笑顔で封をした。
勇者一行の仲間たちは、最初こそ戸惑っていた。
けれど一週間も経つ頃には、全員が私の作った予定表を手放さなくなった。
「ミナさん、今日は休息日ですよね」
アリアが期待に満ちた目で聞く。
「そうです。午前は洗濯と装備点検。午後は完全休養」
「祈りの訓練は?」
「二時間まで」
「やった」
ノクトは、焚き火のそばで魔導書を閉じた。
「徹夜の魔力解析は禁止ですか」
「禁止です」
「一時間だけ」
「禁止です」
「半分だけ」
「寝なさい」
ガレスは真面目に剣を磨きながら言った。
「ミナさん、明日の行軍距離ですが、予定より短いのでは?」
「昨日、あなたは足首を少しひねりました」
「気づいていたのですか」
「歩き方を見ればわかります。明日は短めにします」
「……ありがとうございます」
そして弟は、毎晩きちんと食べ、きちんと寝るようになった。
これは非常に重要だった。
勇者は希望の象徴かもしれない。
けれど、希望の象徴も寝不足だと判断を誤る。
*
旅を続けるうちに、私は奇妙なことに気づいた。
王国から届く補給品が、少しずつ質を落としている。
保存食は古い。
薬草は量が足りない。
送られてくるはずの防寒具は、半数しかない。
一方で、帳簿上は十分な費用が計上されていた。
私は補給箱の納品書を集め、商人たちに聞き取りをした。
すると、王都の補給局で中抜きが起きていることがわかった。
しかも、それを指示しているのは、大臣の側近だった。
「やっぱりね」
私は納品書を整理しながら呟いた。
ノクトが横からのぞき込む。
「ミナさん、何か企んでいますね」
「失礼ね。正しい報告書を書いているだけよ」
「その顔で言われると、報告書を受け取る側に同情したくなります」
私はにっこり笑った。
「弟たちの命綱から金を抜いた人間には、それ相応の報告を受け取ってもらわないと」
ノクトは一瞬黙り、それから深く頷いた。
「手伝います」
「助かるわ」
それから数日、私とノクトは夜ごとに納品書を照合した。
アリアは薬草の不足分を記録し、ガレスは補給箱の封印が途中で開けられた形跡を調べた。
弟は難しい顔で帳簿を覗き込み、三分で寝落ちした。
「レオン様は?」
アリアが小声で聞く。
「寝かせておいて」
私は弟の肩に毛布を掛けた。
「勇者の仕事は、明日きちんと起きることです」
ノクトが笑いをこらえた。
「過保護ですね」
「いいえ。適正管理です」
*
決定的な事件が起きたのは、北の廃砦でのことだった。
魔王軍の幹部が潜んでいるという情報が入り、王国から討伐命令が届いた。
『勇者一行は即時突入し、魔王軍幹部を討伐せよ』
私は地図を広げた。
廃砦は崖沿いにあり、退路が少ない。
さらに周囲には濃い霧が出る。
斥候も出さずに突入すれば、罠にかかる可能性が高かった。
「却下」
私は即答した。
「でも、命令だよ」
弟が不安そうに言う。
「命令でも、無謀に突っ込む必要はない」
「勇者なのに?」
「勇者だからこそよ」
私は弟の肩に手を置いた。
「あなたが大怪我をして動けなくなったら、誰が世界を救うの?」
弟は黙った。
私は代案を出した。
まず、周辺の村から霧の出る時間帯を聞く。
次に、ガレスが二人の兵を連れて偵察する。
ノクトが遠見の魔法で砦の内部を確認し、アリアは結界を準備する。
突入は翌朝、霧が晴れてから。
それが最も安全だった。
けれど、その夜。
王国軍の指揮官が怒鳴り込んできた。
「勇者一行が命令に逆らうとは何事だ!」
「命令内容が危険すぎます」
私が答えると、指揮官は鼻で笑った。
「女の世話係が口を出すな」
その瞬間、弟が立ち上がった。
「姉さんは世話係じゃない」
「勇者様?」
「姉さんがいなかったら、僕たちはここまで来られなかった」
アリアも立ち上がる。
「ミナさんは、私たちの体調を管理してくれています」
ノクトが眼鏡を押し上げる。
「補給計画と危険評価も、彼女がいなければ破綻しています」
ガレスが剣に手を置く。
「命令だからと無謀に突入するのは、騎士道ではありません」
指揮官は顔を赤くした。
「黙れ! 勇者は王国の命に従えばよいのだ。たとえ腕の一本や足の一本が使えなくなろうと、それは名誉の負傷だろう!」
弟の顔から、血の気が引いた。
私は静かに立ち上がった。
「名誉の負傷」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「今、そうおっしゃいましたか?」
「そ、それは」
「弟が腕を失っても、足が動かなくなっても、あなたは名誉だと言って終わらせるおつもりですか?」
「勇者には、それだけの覚悟が」
「覚悟を求めるなら、支える側にも覚悟が必要です」
私は指揮官の目を見た。
「その後の療養費は? 住む家は? 働けなくなった場合の生活は? 夜に痛みで眠れない時、誰がそばにいるのですか? 銅像でも勲章でもなく、温かい布団と食事と家族との時間を、あなたは用意できるのですか?」
指揮官は答えられなかった。
「できないなら、弟の未来を軽々しく名誉などと呼ばないでください」
私は鞄から書類を取り出した。
「これは、王国補給局の不正に関する報告書です。勇者一行への補給費が中抜きされ、後遺症が残った場合の保障も曖昧なまま、危険な命令で損耗を前提に運用されている証拠があります。写しは、すでに王妃陛下の側近へ送っています」
指揮官の顔が凍りついた。
「な……」
「弟が世界を救う前に、まず王国のブラック職場を潰します」
*
翌朝、王妃陛下の使者が廃砦へ到着した。
大臣と補給局の側近たちは、王都へ召喚された。
あの指揮官も、勇者一行への不適切な命令と暴言の件で更迭された。
王妃陛下は、もともと勇者制度に疑問を持っていたらしい。
けれど、大臣たちが「現場は順調です」と報告していたため、実態を知らなかったのだという。
「ミナ・ラウレル殿」
王妃陛下からの書状には、丁寧な文字でこう書かれていた。
『勇者一行の安全管理、補給不正の告発、ならびに無謀な命令の阻止に感謝します。今後、勇者一行の行動計画は、貴殿の確認を経るものとします』
私は書状を読んで、深く頷いた。
「よし」
弟が恐る恐る聞いた。
「姉さん、何がよしなの?」
「正式に権限を得たわ」
「何が正式になったの?」
「今後、勇者一行に無茶な命令を出す時は、私の確認を通すことになるわ」
「それ、姉さんを怒らせた人たち、大丈夫?」
「大丈夫かどうかは、その人たちの反省次第ね」
アリアが小さく笑った。
「ミナさんらしいです」
ノクトは肩をすくめた。
「王国の大臣たちも、ようやく相手を間違えたと気づくでしょうね」
私はにっこり笑った。
「気づいてくれるなら、まだ優しいほうよ」
*
それから勇者一行の旅は、大きく変わった。
休息日は正式に認められた。
旅費は前払いになった。
装備破損は王国負担。
傷病時は一時離脱可能。
後遺症が残った場合の療養費と生活保障も、契約書に明記された。
家族への支援も、任務完了後の曖昧な協議ではなく、具体的な額と期間が定められた。
さらに、勇者一行に同行する支援職にも報酬と権限が与えられることになった。
王国史上初の「勇者支援監督官」。
それが、私に与えられた役職だった。
「姉さん、監督官って何をするの?」
「勇者が無事に魔王城へたどり着き、無事に帰ってきて、その後もちゃんと暮らせるようにする人」
「僕、帰ってきていいんだ」
弟の声は、小さく震えていた。
私は胸が痛くなった。
そんな当たり前のことすら、この子は言われてこなかったのだ。
「当たり前でしょう」
私は弟の額を指で弾いた。
「世界を救って終わりじゃない。帰ってきて、温かいご飯を食べて、昼まで寝て、また芋を掘るの」
「勇者なのに芋を?」
「勇者でも芋は掘るわ」
弟はしばらく目を丸くして、それから笑った。
「うん。帰ってきたら、姉さんと芋掘る」
「約束よ」
*
魔王城へ向かう道のりは、決して楽ではなかった。
それでも、私たちは誰一人欠けなかった。
アリアは無理な回復魔法を使わなくなったことで、以前より精度の高い結界を張れるようになった。
ノクトは睡眠を取るようになったことで、魔力暴走を起こさなくなった。
ガレスは足首の怪我を悪化させずに済み、最終決戦で弟の背を守った。
そして弟は、きちんと食べ、眠り、仲間を信じ、自分の命も大切にしながら戦った。
魔王との戦いは、三日三晩続いた。
私は戦闘の中心には立たなかった。
けれど、後方で薬を配り、撤退路を確保し、補給を切らさず、倒れた兵を運んだ。
世界を救うのは、聖剣だけではない。
水袋を運ぶ手も、包帯を巻く手も、眠る場所を確保する仕事も、全部必要なのだ。
最後に弟の聖剣が魔王の核を砕いた時、空を覆っていた黒雲が割れた。
光が差し込む。
誰かが泣きながら叫んだ。
「魔王が倒れたぞ!」
歓声が広がる。
弟はふらふらとこちらを振り返った。
「姉さん」
「レオン」
「帰っていい?」
私は笑った。
「もちろん」
弟はその場に座り込んだ。
「よかった」
勇者の第一声が「勝った」でも「世界を救った」でもなく、「帰っていい?」だったことに、私は少し泣きそうになった。
帰っていい。
その一言を、私はこの子にちゃんと渡せたのだと思った。
*
王都へ帰還した日、広場には以前よりも大勢の人が集まっていた。
花びらが舞い、鐘が鳴り、勇者一行を称える声が響く。
王妃陛下は、弟に勲章を授けた。
アリア、ノクト、ガレスにも、それぞれ功績に応じた褒賞が与えられた。
そして最後に、私の名前が呼ばれた。
「ミナ・ラウレル。前へ」
私は驚いて顔を上げた。
王妃陛下は、微笑みながら言った。
「勇者一行を支え、補給不正を正し、無謀な命令から仲間を守り、全員を生還させた功績を称えます」
広場が静かになる。
「あなたが守ったのは、勇者だけではありません。勇者を、ただ消費される存在ではなく、生きて帰り、その後の人生を歩むべき一人の人間として扱う仕組みそのものです」
胸の奥が熱くなった。
「よって、あなたを王国勇者支援局の初代局長に任じます」
「……局長?」
思わず聞き返してしまった。
王妃陛下は笑った。
「今後、勇者や聖女や討伐隊がブラックな条件で使い潰されないよう、監督する機関です。あなた以外に適任はいないでしょう」
弟が横で小声で言った。
「姉さん、出世したね」
「あなたが勇者に選ばれたせいでね」
「ごめん」
「許すわ」
私は膝を折り、王妃陛下に礼をした。
「謹んでお受けいたします。ただし、局員の労働条件は最初に確認させていただきます」
王妃陛下は声を立てて笑った。
「もちろんです」
*
その後、勇者一行は解散した。
アリアは神殿に戻ったが、週に二日は必ず休むようになった。
ノクトは王立魔術院で研究職に就き、徹夜禁止の誓約書に署名させられた。
ガレスは正式な騎士となり、若い兵士に「休むのも任務だ」と教えるようになった。
弟は、一度は王都に残るよう勧められた。
けれど、彼は首を横に振った。
「僕、村に帰ります」
「勇者様、本当に?」
「はい。畑を手伝いたいので」
貴族たちは驚いていたが、私は誇らしかった。
世界を救った勇者が、畑に帰る。
それの何が悪いのだろう。
帰る場所があるから、人は戦える。
帰る場所を守るために、勇者は剣を取ったのだから。
*
数か月後。
私は王都の新しい執務室で、分厚い書類の山と向き合っていた。
『聖女派遣契約書』
『竜討伐隊の危険手当申請』
『魔術師の魔力過労に関する調査報告』
『騎士団夜勤規定の見直し案』
『遠征後に手が震える兵士の療養申請』
どれもこれも、放っておけば誰かが倒れそうな内容ばかりだった。
私はため息をつき、羽根ペンを手に取る。
扉が控えめに叩かれた。
「ミナ局長、勇者レオン様がお見えです」
「通して」
入ってきた弟は、籠いっぱいの芋を抱えていた。
「姉さん、持ってきた」
「多いわね」
「今年は豊作だったんだ」
弟は少し背が伸びていた。
けれど笑うと、やっぱり昔のままだった。
「王都は大変?」
「大変よ。世界を救った後も、世の中には直すべき仕組みが多すぎる」
「姉さんらしいね」
「あなたは?」
「畑、楽しいよ。たまに剣の稽古もしてる。あと、村の子どもたちに旅の話をしてる」
「怖い話は控えめにね」
「うん。でも、ちゃんと言ってるよ」
「何を?」
弟は少し照れたように笑った。
「勇者になっても、ちゃんとご飯を食べて、寝て、帰ってきていいんだって。怪我をしたら休んでいいし、つらい時は誰かに言っていいんだって」
私は一瞬、言葉に詰まった。
それから、そっと弟の頭を撫でた。
「よくできました」
「もう子どもじゃないんだけど」
「私にとっては、ずっと弟よ」
弟は困ったように笑いながらも、逃げなかった。
*
その日の夕方。
私は執務室の窓から、夕焼けに染まる王都を見下ろしていた。
世界は救われた。
けれど、それで終わりではない。
救われた世界で、誰かがまた無理を強いられ、使い潰されるのなら、それは本当の平和ではない。
勇者も、聖女も、騎士も、魔術師も。
そして、名前も残らない支援係たちも。
誰かの使命のために、誰かの人生が安く扱われていいはずがない。
机の上には、新しい木札が置かれている。
局の入口に掲げるために、私が注文したものだ。
『世界を救う者にも、休息と報酬と帰る場所を』
私はその文字を指でなぞり、静かに笑った。
弟が勇者に選ばれた時、世界中の人が「これで魔王を討てる」と喜んだ。
けれど私は、あの時ただ一つだけ思っていた。
この子を、絶対に使い潰させない。
その願いは、今も変わらない。
だから私は今日も、羽根ペンを取る。
魔王はもういない。
けれど、理不尽な命令書も、不当な契約書も、穴だらけの補給計画も、まだ山ほど残っている。
勇者の姉として。
そして、勇者支援局の初代局長として。
弟が世界を救った後の世界を、少しだけまともにするために。
私は今日も、ブラック職場を潰していく。




