【短編】「雑草令嬢」と追放された私ですが、辺境の荒れ地を楽園に変えたら辺境伯に溺愛されています ~「種さえあればいい」と言った家族は、品質低下と収穫遅延で破滅寸前です~
「ふぅ、今日もこれで仕事は終わりかな」
私、ミレイユ・ルーヴェルがぽつりと呟いた声は、夜の温室の中に淡く溶けていった。
ルーヴェル伯爵領にある、ルーヴェル商会所有の大温室。
薬草、香草、高級茶葉に使う若葉、貴族向けに売る花、染料に使う草花。
どれもこれも、ルーヴェル商会の商品だ。
そして、どれもこれも――私が魔法で整えている。
「こっちは葉の色が少し薄いわね。明日は水を少し減らして……こっちは魔力を入れすぎると香りが強くなりすぎるから、今日はこれくらい」
私はしゃがみ込み、鉢植えの葉を指先でそっと撫でた。
葉脈に沿って薄く魔力を流すと、しおれかけていた葉が、ほんの少しだけ張りを取り戻す。
うん、いい子ね。
声に出すと誰かに笑われるので言わないけれど、植物に触れている時の私は、たぶん少しだけ顔が緩んでいる。
だって、可愛いのだ。花も、葉も、根も、種も。
同じ種類でも、日当たりや水の量や土の質で顔が違う。
ちょっとした魔力の流し方で香りも変わるし、根の張り方も違ってくる。
毎日見ていても飽きない。
もっと見たい。もっと試したい。
もっといろんな植物を育ててみたい。
……まあ、そんなことを言ったら父に怒鳴られるのだけれど。
『売れないものを育てる暇があるなら、金になる薬草を増やせ』
いつもの声が頭の中に蘇って、私は小さく息を吐いた。
ここで許されているのは、商会の利益になる植物だけ。
植物に価値があるかどうかを決めるのは、父や母や姉にとっては、どれだけ高く売れるかだけなのだ。
立ち上がると腰が少し痛い。
さすがに朝から夜遅くまで温室や畑で作業をしていると疲れが出る。
でも屋敷に戻って、疲れが取れる茶葉を少し煎じれば大丈夫だろう。
あれも、本当は自分用に改良したものだ。
父に見つかったら、きっと商品にされる。
だから今のところ、私の部屋に少しだけ隠してある。
最後に向かうのは、温室の奥にある小部屋だ。
頑丈な扉の向こうには、商会で扱う植物の種が保管されている。
棚に並ぶ小瓶。布袋に入れられた種。箱に分けられた希少な種子。
これらは、ルーヴェル商会の財産だ。
「今日の分、入れておくわね」
私は両手を胸の前で重ね、ゆっくりと魔力を広げた。
「『健やかなれ』」
淡い緑の光が指先から零れ、部屋の中に満ちていく。
種は眠っているようでいて、生きている。
私はその眠りが濁らないように、ひとつひとつに魔力を通す。
発芽しやすいように。病に弱くならないように。
育った時に、葉も実も香りも落ちないように。
そうして、ようやく全部の種に魔法をかけ終えた。
「……よし」
戸締まりを確認し、温室の鍵を閉める。
屋敷に戻ると、食堂のほうから楽しそうな声が聞こえた。
「あら、そうなの? それは素敵ね」
「ええ、ダニエル様もきっと喜んでくださるわ」
「モニカ、お前は本当に商会の顔として申し分ないな」
父と母と、姉の声。
私は足を止めた。
別に、盗み聞きするつもりはない。
けれど、その声の輪の中に自分がいないことは、あまりにも自然で。
今さら傷つくことでもないはずなのに、胸の奥が少しだけ冷えた。
食堂の扉は半分開いている。
中には、父のダリウスと母のオルガ。そして姉のモニカがいた。
姉は、艶のある赤みがかった茶髪を綺麗に結い上げている。
華やかで、目を引く美貌。明るい場所にいると、本当に絵画みたいに映える人だ。
その笑顔が私に向けられることは、ほとんどないけれど。
ふと、モニカがこちらを見た。笑みが、すっと薄くなる。
「あら、なんか雑草の匂いがすると思ったら帰ってたのね」
……まあ、草の匂いがするのは否定しない。
温室にずっといたし、葉にも土にも触ったし。
(でも、臭いのは否定したい)
「臭いから早く部屋に戻ってくれる?」
モニカは扇で口元を隠し、目だけで私を追い払う。
父も母も、特に何も言わない。その沈黙が答えだった。
「……失礼します」
私は軽く頭を下げて、その場を離れた。
反論したら面倒なことになる。それはもう、何度も学んだ。
廊下を歩きながら、袖口をそっと鼻に近づける。
草の匂いはする。でも、私は嫌いじゃない。むしろ落ち着く。
「臭くは、ないと思うんだけどなぁ……」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
自室に戻ると、私は燭台に火を入れた。
部屋は質素だ。本棚と小さな机と、窓辺に置いた鉢植えがある。
それだけで、私には十分だった。
棚から小瓶を取り出し、茶葉を少しだけ茶器に入れる。
湯を注ぐと、ふわりと柔らかな香りが広がった。
疲れを取るために、いくつかの薬草を調整して作ったお茶だ。
「……はぁ」
一口飲むと、肩の力が少し抜けた。
今日も終わった。
そう思った瞬間、ふと考える。
いつから、こんな生活をしているんだろう。
朝起きて、温室へ行って、商会の商品になる植物の世話をして。
夜遅くに戻って、家族の輪には入れず、自分でお茶を淹れて眠る。
「……三年、か」
十五歳で学園を卒業した後、私は家で植物魔法を活かして働くようになった。
活かして、というと聞こえはいい。
実際は、強制的にやらされているだけだ。
私の植物魔法は、植物の成長を促したり、品質を整えたり、種を改良したりするもの。
学園では、華やかな攻撃魔法や治癒魔法に比べれば地味だった。
だからよく笑われた。
草ばかりいじっている令嬢。雑草令嬢。
その呼び名は、卒業するまでずっと私について回った。
そして卒業後も、家族は私を温室に閉じ込めるように働かせている。
売れる植物を育てろ。高く売れる薬草を増やせ。余計なものを育てるな。
確かに、それも大事だとは思う。
商会をやっている以上、利益は必要だ。
それはわかる……わかるけれど。
「もっと、いろいろ育てたい年頃なのよ」
年頃……いや、年は関係ないかもしれない。
たぶん私は、おばあさんになっても同じことを言っている。
もっといろいろ育てたい。見たことのない種を植えてみたい。
……なのに、現実の私はこの部屋と温室の往復だ。
家を出たら自由になれるのかもしれない。
でも、婚約者もいない私が家を出るのは難しい。
学園を卒業する十五歳までは、婚約者がいた。
ダニエル・ベルフォード。
侯爵家の令息で、金髪に青い瞳の、いかにも物語に出てきそうな人だった。
親同士が決めた婚約だから、恋愛感情があったかと聞かれると困る。
ただ婚約者なのだから、それなりに仲良くできたらいいなとは思っていた。
でも、その婚約は三年前に終わった。
『侯爵家の令息は、あんたなんかじゃもったいないわ』
モニカはそう言って笑った。
その少し後、ダニエルは私との婚約を破棄し、姉のモニカと婚約した。
まあ、姉は華やかだし、社交も得意だし、父と母のお気に入りだ。
私よりずっと侯爵家の令息にふさわしい、と言われればそうなのかもしれない。
『雑草令嬢とか言われている君と婚約していたのが嫌だったんだ。隣にいると臭いし。婚約破棄できて清々しているよ』
でも、ダニエルにそう言われた時は、さすがに少しだけ傷ついた。
恋愛感情はなかったけど、婚約者だった相手にそんなふうに思われていたとは知らなかった。
「いつまで、こんな生活を続けるんだろうなぁ……」
呟いても、答えはない。
私は残りのお茶を飲み干し、明かりを落とした。
明日もまた温室や畑で仕事だ。
そう思いながら、眠りについた。
――そして、翌日。
朝から父の執務室へ呼ばれた。
「ミレイユ」
「はい」
「お前には、グレイハルト辺境伯家に嫁いでもらう」
「……えっ?」
本当に、声が漏れた。
グレイハルト辺境伯家に、嫁ぐ……私が?
「何だ、その不満そうな声は」
父の眉間に皺が寄る。
待ってほしい。
今の「えっ?」は不満ではなく、ただの驚きだ。
「い、いえ。急な話でしたので」
「急も何もない。お前も十八歳だ。貰い手もいない娘を、いつまでも家に置いておくわけにはいかん」
父は書類を机に置き、私を見た。
「相手を見つけてやっただけ感謝しろ」
「……はい」
父の隣にいた母が茶器を置き、微笑む。
その微笑みは柔らかいのに、言葉は冷たい。
「グレイハルト辺境伯家なら、家格としても悪くないわ。まあ、辺境ですけれど」
グレイハルト辺境伯領。
王国の端にある、魔物が多く出る土地。
その影響で作物が育ちにくく、荒れ地も多いと聞いたことがある。
当主のカイン・グレイハルト様は二十五歳。
領地の危険さや忙しさもあって、婚姻から遠のいていたと噂で聞いた。
「だが、向こうは辺境伯だ。お前のような女でも、妻として引き取ると言っている」
「……私のような」
「婚約者もおらず、家で居座っている娘だろう」
胸の奥が少しだけ冷えた。私は思わず口を開いていた。
「私は、仕事をしていますけど」
「仕事?」
「温室や畑の管理を――」
「ただの植物の管理だろう。誰でもできる」
即答だった。あまりにも迷いなく言われて、私は一瞬、言葉を失った。
私が三年、毎日魔力を使って整えてきたことを。
種の状態を見て、土を変えて、水を変えて、魔力の流れを調整してきたことを。
この人たちは、本当に何も見ていない。
いや、見ようとしなかったのだ。
「そう、ですか」
「数日後には出立してもらいます。準備しておきなさい」
「……承知しました」
「ならいい。下がれ」
「失礼します」
執務室を出る。
グレイハルト辺境伯領。
魔物が多い。荒れ地が多く、作物が育ちにくい。
それは、とても大変な場所なのだろう。
普通の令嬢なら、きっと泣くのかもしれない。
でも私は、ふと思ってしまった。
荒れ地。作物が育ちにくい土地。
つまり、まだ何も試されていない土地。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな火が灯る。
いや、だめだ。嫁ぎ先に歓迎されるとは限らない。
でも……もし、少しでも自由に植物を育てられるなら。
それは――。
「ミレイユ?」
考え込んでいた私は、呼び止められて顔を上げた。
廊下の先に、モニカとダニエルがいた。
モニカは赤みがかった茶髪を肩に流し、薄桃色のドレスを纏っている。
隣のダニエルは金髪を綺麗に整え、いかにも貴公子らしい笑みを浮かべていた。
「ああ、聞いたわよ」
モニカが扇を開く。
「あんな死地のような辺境伯領に嫁ぐんですって? あんたもついてないわね」
「……」
「まあ、せいぜい死なないでね。葬儀をするのも面倒だから」
私は何か返そうとして、やめた。
ダニエルが一歩前に出る。
「正直、君が商会からいなくなってくれて助かるよ」
「……助かる?」
「ああ。元婚約者がいつまでも近くにいると、周りの目が気になっていたからね。モニカにも余計な気を遣わせる」
「ダニエル様ったら、お優しいんだから」
モニカが甘えるようにダニエルの腕に触れる。
「本当のことだよ。ミレイユ、君には悪いけれど、これでようやくすっきりする」
悪いけれど。その言葉に、悪いと思っている響きはなかった。
誰も私のことを大事にしていない。
それは知っていた。
でもここまではっきり嫌われていたのだと思うと、胸の奥がじわりと痛む。
「……そうですか。では、私は仕事に行きます」
「まだ仕事をする気なの?」
モニカが呆れたように眉を上げる。
「数日後には出ていくのに?」
「引き継ぎがありますので」
「そんなもの必要ないわよ。種は山ほどあるもの」
扇の向こうで、モニカが笑う。
「あなたがいなくても、商会は困らないわ」
その言葉を聞いた瞬間、私は温室の種保管室を思い出した。
私がいなくなれば、品質は維持できない。
今までも、何度も伝えようとした。
種はただ保管すればいいものではない。
でも父は聞かなかった。母も、モニカも、ダニエルも。
誰も、私の言葉をまともに受け取らなかった。
なら、もういい。
「そうですね。困らないといいですね」
思ったよりも、穏やかな声が出た。
モニカが一瞬だけ目を細める。
「……何よ、その言い方」
「いえ、失礼します」
私は頭を下げ、二人の横を通り過ぎた。
数日後には、私はここを出る。
この温室も、屋敷も、家族も。
それが怖くないと言えば嘘になる。
でも、もし。今より自由に植物をいじれるなら。
好きな種を植えていい場所があるなら。
荒れた土地に、何かを芽吹かせることができるなら。
「……それだけで、十分かもしれない」
私は温室の扉の前で立ち止まり、鍵を握りしめた。
「自由に、育てられますように」
祈るように呟いて、私は温室の扉を開けた。
数日後、私はルーヴェル伯爵領を出た。
荷物は最低限。衣装箱も小さなものがひとつだけで、侍女もつかない。
伯爵家の令嬢が嫁ぐにしては、ずいぶん寂しい出立だったと思う。
まあ、見送りに来たのも使用人が数人だけだったし、父も母もモニカも、ダニエルも来なかったのだけれど。
……うん。そこはもう、気にしない。
私は馬車の窓から流れていく景色を眺めながら、小さく息を吐いた。
膝の上には小さな革袋がある。中身は、私がこっそり持ってきた種だ。
商会の財産になるような希少な種ではない。
私が自分で少しずつ集めていた、野菜や香草や、いくつかの薬草の種。
本当なら、もっとたくさん持ってきたかった。
でも大荷物にすれば怪しまれるし、出立前に父に見つかったら没収されていただろう。
だから、これだけ。これだけでも十分。
種は少なくても、増やせばいい。育てればいい。
……そのための場所が、あればだけれど。
馬車は何日かかけて、王国の端へ向かった。
森が深くなり、岩場が増え、遠くに黒い山並みが見えた頃。
馬車の外から、馬の蹄の音が近づいてきた。
「ルーヴェル伯爵家よりお越しのミレイユ様でいらっしゃいますか」
窓の外にいたのは、鎧を身につけた兵士たちだった。
「はい。ミレイユ・ルーヴェルです」
「グレイハルト辺境伯家より、お迎えに参りました。ここから先は魔物の出没もございますので、我々が護衛いたします」
「ありがとうございます」
私は慌てて頭を下げた。
ちゃんと迎えが来た。それだけで、少し安心する。
兵士たちに守られながら進んだおかげで、馬車は無事に辺境伯領の街へ到着した。
最初に見えたのは、大きな城壁だった。
「……すごい」
城門をくぐると、中には想像以上に大きな街が広がっていた。
家も多い。商店らしき建物もある。
馬車の窓から外を見ていると、家々の間に畑が見えた。
けれど、土の色があまりよくない。
畝は作られているけれど、葉の伸びは弱い。
(何を植えているのかしら。麦? 根菜? それとも豆?)
気になる。あの葉の色だと、土の栄養が足りていないのかもしれない。
ああ、少し土を触りたい。
……いけない。まずは辺境伯家にご挨拶だ。
そんなことを考えていると、一際目立つ屋敷に到着した。
そこが、グレイハルト辺境伯家の屋敷だった。
屋敷、というより要塞。
目立つ装飾はほとんどない。美しさよりも、守ることを優先している。
屋敷の裏手のほうには、広い空き地が見えた。
草がまばらに生え、土がむき出しになっている。
(あそこ、土を整えたら畑にできそう……)
いけない、いけない。
カイン様に会うのが先でしょう。
案内の使用人に導かれて、私は屋敷の中へ入った。
中も華美ではない。けれど清潔で、無駄がなく、手入れが行き届いている。
応接室に通されると、そこにはすでに一人の男性がいた。
黒髪に、鋭い灰色の瞳。長身で、引き締まった体格。
立っているだけで、場の空気が少し冷えるような人だった。
この方が、カイン・グレイハルト様。
真顔だと冷たい印象だ。
噂では冷酷だとか言われていたが、噂というのは本当に好き勝手だ。
私も雑草令嬢と言われていたし。
うん、あまり当てにしないでおこう。
「ミレイユ・ルーヴェルと申します。本日よりお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
私は姿勢を正し、深く礼をした。
カイン様も、短く頷く。
「カイン・グレイハルトだ。遠路はるばる、よく来てくれた」
声は低い。けれど、思っていたより乱暴ではない。
「座ってくれ」
「失礼いたします」
向かい合って座ると、カイン様は静かに口を開いた。
「今回の婚姻は政略によるものだ。こちらから君に多くを求めるつもりはない」
「はい」
「ただ、グレイハルト辺境伯家の夫人として、問題のある行動は避けてほしい。領民や使用人に無理を言わないこと。外に出る時は必ず護衛をつけること。それだけ守ってくれればいい」
思ったより、条件が少ない。
妻として期待していない、という意味でもあるのだろうけれど。
でも実家で毎日温室に閉じ込められていた私からすれば、これくらいは全然問題ない。
「かしこまりました。ご迷惑をおかけしないようにいたします」
「ああ、こちらも君が不自由なく過ごせるように努めよう」
「ご配慮ありがとうございます」
そこで会話が終わりそうになった。
いけない、大事なことを聞いていない。
「あの、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「畑などで、植物を育ててもよろしいでしょうか」
「……植物?」
カイン様の眉が、ほんの少し動いた。
ですよね。嫁いできて最初に聞くことがそれなのは、たぶん普通ではない。
でも、私には一番大事なことだった。
「はい。もしご迷惑でなければ、空いている土地や畑の一部をお借りできればと」
カイン様はしばらく考えるようにして私を見た。
「そうか。君は植物が好きだと聞いていたが……」
あっ、雑草令嬢というのを思い出されているような顔だ。
でも彼は一瞬だけ咳払いをして続ける。
「屋敷の裏にある空き地は、もともとは畑だ。ただ、土が悪いからか、あまり育たない。何度か試したが、収穫量は少なかった」
「そうなのですね」
「あそこなら自由に使ってもらって構わない。まあ、できれば食べられるものがいいな」
「領内では、作物が足りていないのですか?」
「自給自足できるほどには育たない。食料の多くは他領から買っている」
やはり、街の畑を見た時の印象は間違っていなかったらしい。
「だから屋敷の裏庭を畑にしてでも、少しは足しになればと思ったのだが、上手くいかなかった」
カイン様の声は淡々としていた。
でもその言葉の中には、領地への責任があった。
辺境伯家の屋敷の裏庭を畑にする。普通の貴族なら、体面を気にして嫌がるかもしれない。
でもこの人は、領地のためならそうするのだ。
(領民想いの方なのかもしれない)
そう思った瞬間、少しだけ緊張が解けた。
「ありがとうございます。では、早速見てもよろしいでしょうか」
「早速?」
「はい。まだ昼過ぎですので」
しまった、さすがに早すぎただろうか。
嫁いできた初日で、挨拶のすぐ後に畑へ行きたいと言う令嬢。
……普通ではないだろう。
でも、畑は気になる。非常に気になる。
「疲れていないのか」
「馬車で座っていただけですので」
「そうか」
するとカイン様は使用人を呼び、裏の畑へ案内するように言ってくれた。
「ありがとうございます、カイン様」
「問題ない」
そして使用人に案内されて裏庭に行き近くで見ると、空き地は思っていたより広かった。
私はしゃがみ込み、土を指で掬った。
乾いている。少し硬い。栄養も足りない。
でも、最悪ではない。これならいける。
「……大丈夫そう」
「奥様?」
案内してくれた使用人が、不思議そうに私を見る。
奥様……今、奥様と言われた。
私はもう、ここではグレイハルト辺境伯夫人になるのだ。
まだ全然実感はない。
「この畑に、種を植えてもよろしいですか?」
「もちろんでございます。ただ……ここでは、ほとんど育たないと思いますが」
使用人の声は申し訳なさそうだった。
馬鹿にしているわけではない。
本当に、これまで上手くいかなかったのだろう。
「大丈夫です」
私は笑顔で答えた。
それから、持ってきた革袋を開く。
根菜。葉物野菜。豆。少しだけ麦。あとは香草。
本当は土をもう少し整えてからがいい。
でも、まずは試したい。この土地に、私の魔法がどれくらい通るのか。
「あの、他に食べ物の種はありますか?」
「倉庫に少しならございますが……」
「片っ端から植えましょう」
「片っ端から、ですか?」
「はい。片っ端からです」
使用人は戸惑いながらも、倉庫から種を持ってきてくれた。
私は畝に沿って種を植えていく。
「本当に、よろしいのでしょうか」
「はい」
「これだけ植えて、もし芽が出なかったら……」
「大丈夫ですよ」
植え終えた畑の前に立ち、両手を重ねる。
「『健やかなれ』」
小さく呟いて、魔力を流した。
淡い緑の光が、足元から畑へ広がっていく。
土の中に眠る種へ。その奥にある、まだ小さな命へ。
少しずつ、少しずつ、魔力を馴染ませる。
「……うん。これで、問題なし」
私は額の汗を拭った。
使用人がぽかんとこちらを見ている。
「今のは……」
「植物魔法です。あとは水をあげましょう」
「は、はい」
使用人はまだ疑っているようだった。
けれど、手伝ってくれた。
井戸から水を汲み、畑に少しずつかけていく。
私も一緒に水を撒いた。
土に触れる。種を植える。水をかける。
それだけで、胸の奥がふわふわする。
実家でやっていた時とは違う。誰かに命じられているわけではない。
この土地に必要なものを、私が選んで育てていい。
それが、こんなに嬉しいなんて。
気づけば夕方になっていた。
最低限の身支度を整えた後、私は夕食の席へ向かった。
食堂には、カイン様がいた。
運ばれてきた食事は、貴族の食卓としてはかなり質素だった。
「すまないな」
カイン様が静かに言った。
「え?」
「食事ではあまり、ここでは贅沢はさせられないかもしれない」
私は慌てて首を振る。
「全然問題ありません。美味しいです」
本当にそう思った。
実家では、仕事で忙しくて食事も最低限だった。
こうして温かい料理を、誰かと同じ席で落ち着いて食べる。
それだけで、十分ご馳走だ。
「はい。スープが温かいです」
「温かいだけでいいのか」
「温かいのは大事です」
「……ふっ、そうだな」
カイン様はそう言って、スープを口に運んだ。
食事の途中、私はふと気づいた。
カイン様が時々、目頭を押さえている。
「あの、どこか悪いのですか?」
「いや……最近、忙しくてな。眠りが浅いだけだ」
「不眠症ですか?」
「そこまで大げさなものではない。疲れているのに眠れない日が続いているだけだ」
それは、十分大変なのでは。
「それでしたら、よく眠れるようになるハーブティーがありますよ」
「ハーブティー?」
「はい。いくつかの薬草を調整したものです。体が温まって、眠りやすくなると思います。あとで寝室にお持ちしますね」
「君が淹れてくれるのか?」
「はい。よく実家ではやっていました」
自分で淹れるしかなかったので、とは言わないでおく。
「そうか。じゃあ、頼む」
「はい」
食後、私は厨房を借りてハーブティーを用意した。
持ってきた茶葉と、屋敷にあった香草を少しだけ合わせる。
香りを確かめながら、湯を注ぐ。
うん、いい感じ。これなら、飲みやすいはず。
私は盆に茶器を乗せ、案内されたカイン様の寝室へ向かった。
扉を叩くと、中から低い声がする。
「入ってくれ」
「失礼します」
部屋に入ると、カイン様はすでに寝る準備を終えているようだった。
シャツの上にガウンを羽織っている。
昼間や食事の時よりも、少しだけ雰囲気が柔らかい。
黒髪が少し乱れていて、灰色の瞳も昼間ほど鋭くない。
その姿に、なぜか少しだけ胸が跳ねた。
……いや、落ち着いて。ハーブティーを届けに来ただけ。
「こちらです」
私は茶器を差し出した。
カイン様は受け取り、香りを確かめるように少しだけ顔を近づける。
「いい匂いだな」
「眠りを妨げないように、香りは柔らかめにしてあります」
彼は一口飲んだ。少し間が空く。
私は妙に緊張して、その反応を待った。
「……美味い」
「よかったです」
思わず笑みがこぼれた。
自分の育てたものや調整したものを褒められるのは、やっぱり嬉しい。
実家では、商品が売れても褒められるのはモニカや父だったから。
「意外と苦味がないんだな」
「少しだけ甘みのある香草を足しました。それも安眠効果がある香草です」
「詳しいんだな」
「植物のことだけは自信があります」
ここで熱く語り始めたら引かれる気がする。
薬草の香りの違いとか、収穫する時間帯による効能の差とか、土の質で後味が変わる話とか。
語りたいことはたくさんある。
でも初日からそれはやめておこう。
カイン様は茶器を見下ろし、静かに言った。
「ありがとう。助かる」
「いえ。少しでも眠れるといいのですが」
私は軽く礼をして、部屋を出た。
扉が閉まった後、廊下で小さく息を吐く。
緊張した。でも、嫌な緊張ではなかった。
用意された自室へ戻ると、私は荷物を少しだけ整理した。
部屋は実家の部屋より広いくらいだった。
派手ではないけれど、清潔で、窓も大きい。
それから、窓辺に鉢を置けそうな場所もある。
私は革袋から、自分用に残しておいたハーブティーを取り出した。
湯を注ぐと、見慣れた香りが部屋に広がる。
今日一日のことを思い返す。
まだ初日なのに、胸の奥が少し軽い。
ここでは、実家の頃のように無理やり働かされることはないのかもしれない。
もちろん、辺境伯夫人としての役目はある。
それはちゃんとしなければいけない。
でも、植物を育ててもいい。自由に植えてもいい。
この土地に必要なものを、自分で考えていい。
「明日、芽が出ているかしら」
普通なら、明日すぐに芽が出るはずがない。
でも、私の魔法をかけた。あの土も、きっと応えてくれる。
私はハーブティーを一口飲んだ。
温かさが体に広がっていく。
「……明日が、少し楽しみね」
そう呟いて、私は灯りを落とした。
久しぶりに、眠る前に明日のことを楽しみだと思えた気がした。
翌朝、目が覚めた瞬間、私はしばらく天井を見つめていた。
見慣れない天井。見慣れない部屋。
「……そうだ。私、辺境伯家に嫁いだんだった」
ぽつりと呟いて、ゆっくり体を起こす。
昨夜、自分で淹れたハーブティーのおかげか、思ったよりよく眠れた。
馬車移動の疲れもあったのだろうけれど、身体的には問題ない。
身支度を整えて食堂へ向かうと、朝食が用意されていた。
席は、私一人分。
「あの、カイン様は……?」
給仕をしてくれていた執事の方に尋ねると、彼は少しだけ困ったように眉を下げた。
「いつもは朝食を召し上がるのですが、今朝はまだお起きになっておりません」
「そうなのですね」
「そろそろお声がけをしようかと思っているのですが……」
そう言いながらも、執事の方は少し迷っているようだった。
昨日、カイン様は眠れない日が続いていると言っていた。
執事の方も、それを知っているのだろう。
起こすべきか、寝かせておくべきか。その間で悩んでいる顔だった。
「それでしたら、起こさないほうがいいと思います」
「よろしいのでしょうか」
「はい。昨日、よく眠れるようにハーブティーをお出ししたので……眠れているなら、そのまま寝かせて差し上げたほうがいいかと」
私がそう言うと、執事の方はほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとうございます、奥様。では、そのようにいたします」
奥様、またそう呼ばれた。
昨日も思ったけれど、まだ慣れない。
でも、嫌な感じはしない。
「いえ。少しでもお休みになれるといいですね」
「ええ。本当に」
執事の方の声には、心からの安堵が滲んでいた。
カイン様は、きっと使用人たちに慕われているのだろう。
そう思うと、昨日感じた「領民想いの方なのかもしれない」という印象が、少しだけ確かなものになった。
朝食を終えると、私はすぐに裏庭へ向かった。
もちろん、畑を見るためだ。
昨日植えたばかりだから、普通なら何も変化はない。
でも、私の魔法をかけた。
あの土がどれくらい応えてくれたのか、どうしても気になったのだ。
裏庭に近づくにつれて、胸が少しずつ高鳴る。
角を曲がって、畑が見えた瞬間。
「……あ」
思わず声が漏れた。
昨日は土だけだった畝に、緑が広がっていた。
小さな芽どころではない。
葉が伸び、茎が立ち、いくつかの野菜はもう実をつけている。
根菜の葉はしっかりと茂り、豆は支えもないのに器用に絡まりながら伸びていた。
香草も、朝露を受けてみずみずしい香りを放っている。
「嘘……」
後ろからついて来ていたメイドの一人が、小さく呟いた。
その気持ちはわかる。普通ではない。
けれど私にとっては、驚き半分、確認半分だった。
私は畑の前にしゃがみ込み、葉の色を見て、茎の太さを確かめる。
それから、根菜をひとつだけ抜いてみた。
土から現れた根は、思ったより太い。
白くて、傷も少ない。
「うん……最初にしては十分ね」
「これで、十分……なのですか?」
メイドが少し震えた声で聞いてくる。
私は首を傾げた。
「土がまだ痩せていますし、魔力の馴染みも少し浅いので。もう少し調整すれば、もっとよくなると思います」
「もっと……」
メイドの方が遠い目をした。
あれ……何か変なことを言っただろうか。
でも本当に、まだ納得の出来ではない。
実家の温室なら、もっと葉の色も揃えられたし、実も大きく安定させられた。
ただ、この土地で初めて育てたものとしては悪くない。
むしろ、思っていたより素直に育ってくれた。
「この子たち、頑張ってくれたのね」
思わず葉を撫でる。
葉先が朝日に透けて、薄く光った。
うん、可愛い。
やっぱり植物は可愛い。
しばらく畑を確認してから、私は使用人の方々を呼んでもらうことにした。
収穫しなければ、いくつかは育ちすぎて味が落ちる。
野菜は、良い時に採るのが大事だ。
集まった使用人たちは、畑を見るなり固まった。
「これが、昨日の……?」
「まさか一晩で……?」
「奥様が植えていたものですよね?」
ざわざわと声が広がる。
私は少し照れながら頷いた。
「はい。食べ頃のものから採りましょう。まだ全部ではないですが、今日使う分には十分だと思います」
そう言って収穫を始めたのだけれど。
十分どころではなかった。
葉物野菜を籠に入れる。
根菜を抜く。
豆を摘む。
香草を少し分ける。
採っても採っても、まだある。
裏庭は広いし昨日片っ端から植えたので、当然といえば当然なのだけれど、それにしても多い。
屋敷の使用人全員の食事に使っても、十日分くらいはあるかもしれない。
「……どうしましょう」
私は籠いっぱいの野菜を見下ろして、少し悩んだ。
嬉しい。嬉しいけれど、保存の準備をしないといけない。
干せるものは干す。漬けられるものは漬ける。
根菜は土つきのまま保存すれば少し持つ。
でも葉物は早く食べたほうがいい。
考えていると、メイドの一人が、おずおずと手を上げた。
「あの、奥様」
「はい?」
「少しだけ、私の家に分けていただくことはできないでしょうか。もちろん、お金は支払います!」
「えっ?」
私は思わず瞬きをした。
「野菜、必要なのですか?」
「はい。辺境伯領では野菜が貴重でして……他領から仕入れてはいるのですが、日持ちしませんし、量も多くはありません。家族にも食べさせてあげられたらと……」
メイドは慌てて頭を下げた。
「勝手なことを申し上げて、申し訳ございません」
「いえ、もちろん大丈夫ですよ。ぜひ食べさせてあげてください」
「本当ですか?」
「はい。お金もいりませんから、好きなだけ持っていってください」
私がそう言うと、メイドの目が丸くなった。
「よ、よろしいのですか?」
「はい。たくさん採れましたし、食べてもらえるほうが嬉しいです」
そう答えると、周りにいた使用人たちが顔を見合わせた。
「あの、奥様。私も、少しいただいても……?」
「うちにも幼い弟がおりまして……」
「年老いた母に、柔らかい葉物を食べさせてやりたくて……」
次々と声が上がる。
私は少し驚いて、それから頷いた。
「もちろんです。皆さんも持っていってください。食べきれないより、必要な方に食べてもらえるほうがいいですから」
その瞬間、使用人たちが一斉に頭を下げた。
「ありがとうございます、奥様!」
「本当に助かります!」
「こんな立派な野菜、久しぶりです……!」
……こんなに感謝されるのは、いつぶりだろうか。
今までの人生でも数えきれるくらいにしかないかもしれない。
私は両手を少し浮かせたまま、どう反応していいかわからなくなった。
実家では、植物を育てるのは当然だった。
品質が良くても、それは商会の商品。
褒められるのは父やモニカで、私はただ温室に戻るだけ。
だから、こうして真正面から感謝されることに慣れていない。
「あ、あの……そんなに頭を下げなくても」
声が少し上ずった。
恥ずかしい。嬉しいけれど、恥ずかしい。
胸の奥がふわふわして、どうにも落ち着かない。
野菜を使用人たちに分けても、まだかなり余った。
そこで、昼食にすぐ使うことになった。
「あの、もしよろしければ、私に少し料理をさせていただけませんか?」
厨房でそう言うと、料理人の方が驚いた顔をした。
「奥様が、でございますか?」
「実家では自分で食事を用意することもありましたし、野菜を使った料理は得意なんです」
言ってから、少しだけしまったと思った。
伯爵家の令嬢が自分で食事を作ることは、たぶん普通ではない。
でも料理人の方は、詮索するような顔はしなかった。
「では、お願いいたします。私どももお手伝いいたします」
「ありがとうございます」
私は採れた野菜を洗い、根菜を薄く切り、葉物をざくざく刻んだ。
香草は最後に少しだけ。
鍋に水を張り、根菜から火を通していく。
立ち上る湯気に、野菜の甘い香りが混ざった。
うん、良い香り。
塩を少し。
肉の切れ端も少し。
最後に葉物と香草を入れると、鮮やかな緑が鍋の中に広がった。
「すごく、いい匂いですね」
若いメイドがぽつりと呟く。
「野菜が元気なので、香りも出やすいんです」
「野菜が元気……」
「あ、変な言い方でしたね」
「いえ、奥様らしいなと」
奥様らしい。
昨日来たばかりなのに、もうそう言われるのは少し不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
スープは大きな鍋いっぱいに作った。
使用人たちにも食べてもらえるように。
料理人の方々にも味見をしてもらうと、皆、目を丸くした。
「これは野菜の味が出てて良いですね」
「甘みがあります。とても美味しいです」
「よかったです」
また褒められた。
今日だけで、今までの一生分くらい褒められている気がする。
いや、一生分はさすがに言い過ぎかもしれないけれど、実家の三年分よりは多い。
昼食の時間を少し過ぎた頃、私は食堂へ向かった。
すると、そこにはカイン様がいた。
昨日よりも少し髪が乱れていて、まだ眠気が残っているような顔をしている。
けれど、目の下の影は薄くなっていた。
「おはようございます、カイン様。よく眠れましたか?」
私がそう言うと、カイン様は少しだけ苦笑した。
「……ああ、おはよう。本当によく眠れたよ」
寝起きだからだろうか、声が昨日より柔らかく聞こえる。
二人で席に着くと、カイン様は額に手を当てた。
「あのハーブティーのおかげで、こんな時間まで眠ってしまった」
「それはよかったです」
「よかった、のか?」
「眠れなかったのでしょう? なら、よかったです」
私がそう言うと、カイン様は小さく息を吐いた。
「……一応確認するが、あれは睡眠薬の類を盛っているわけではないよな?」
「違います」
即答した。
「安眠効果を増幅させるだけですよ。眠りにつきやすくして、体を休ませる薬草を合わせています。起きた時も、すっきりしたでしょう?」
カイン様は少し考えるように目を伏せた。
「……ああ、とてもな。何日も眠って起きたかのようだった」
「それはよかったです」
「よくはあるが……効きすぎではないか?」
「カイン様がそれだけ疲れていたのだと思います」
私が真面目に言うと、カイン様は言葉に詰まった。
そして、少しだけ視線を逸らす。
「……否定はできないな」
そこへ、料理が運ばれてきた。
今日の昼食は、野菜のスープ。
それから採れたばかりの葉物を軽く和えたもの。
根菜を焼いたもの、などなど。
昨日の夕食より、明らかに野菜が多い。
カイン様もすぐに気づいたようで、目を瞬いた。
「これは……」
「裏庭で採れた野菜です」
「裏庭?」
「はい。昨日、植えたものが育ちまして。いっぱい採れたんですよ」
カイン様が、ぴたりと止まった。
「昨日、植えたものが?」
「はい」
「……昨日?」
「はい。昨日です」
カイン様は私を見た。
それから、目の前のスープを見る。
もう一度、私を見る。
「まさか、あそこでこれだけの野菜が……」
「まだ一部です」
「一部?」
「はい。あとでご覧になりますか?」
そう言うと、カイン様の顔に珍しくはっきりとした驚きが浮かんだ。
少し面白い。いや、失礼かもしれない。
「とりあえず、冷める前にどうぞ」
「あ、ああ」
カイン様は匙でスープを掬い、口に運んだ。
そして、動きを止めた。
「……美味い」
「よかったです」
「野菜がかなり甘いな」
「採れたてですから」
「いや、それだけではないだろう」
カイン様はもう一口、また一口とスープを食べる。
その速度が、だんだん早くなった。
葉物にも手を伸ばし、焼いた根菜も口にする。
「これは……本当に美味いな」
低い声なのに、どこか素直な響きがあった。
昨日までの冷たい印象が、少しだけ薄れる。
食べている時の顔が、思ったより子どもっぽい。
おいしいものを見つけた時の、ほんの少し目が明るくなる感じ。
……可愛い。
いや、辺境伯様に可愛いは失礼かもしれない。
でも、可愛いものは可愛い。
私は口元が緩みそうになるのを、慌ててスープで誤魔化した。
「どうかしたか?」
「いえ。美味しそうに召し上がってくださるので、嬉しくて」
「……そうか」
カイン様は少し気まずそうに咳払いをした。
でも、手は止まらない。
あっという間にスープの皿が空になった。
「おかわりもありますよ」
「……あるのか」
「はい。たくさん作りました。使用人の方々にも食べていただこうと思って」
「そうか。では、少しだけ」
少しだけ、と言いながら、カイン様はしっかり二杯目も食べた。
その姿を見るだけで、胸の奥が温かくなる。
自分が育てたものを、誰かが美味しそうに食べてくれる。
それは、こんなに嬉しいことだったのか。
食事が一段落した頃、カイン様が改めて私を見た。
「それで、裏庭にはまだ野菜があると言っていたな」
「はい」
「どれくらいだ?」
「ええと……今食べた量の、十数倍くらいでしょうか」
カイン様が固まった。
今度こそ、完全に。
「十数倍?」
「はい。使用人の方々にも分けたのですが、それでもまだ余っています。保存方法を考えないといけませんね」
「昨日、植えたんだよな」
「はい」
「昨日、来たばかりで」
「はい」
「あの痩せた畑で」
「はい」
カイン様は片手で額を押さえた。
頭痛ではなさそうだ。
たぶん、驚きすぎている。
「……ミレイユ」
「はい」
「君は、何をした?」
その問いに、私は少し考えた。
何をしたか。
種を植えた。魔力を流した。水をあげた。
植物が育ちやすいようにした。
それだけだ。
「植物が育ちやすいように、少し手伝っただけです」
「少し」
「はい、少し」
カイン様は、何か言いたげに私を見た。
けれど結局、深く息を吐くだけだった。
「……そうか」
「はい」
私はにこりと笑った。
明日は、もっと土を整えてみよう。
そうしたら、今日よりきっとよくなる。
そう思うと、また胸が少し弾んだ。
◇
ミレイユ・ルーヴェルが、グレイハルト辺境伯領へ嫁いでから二週間ほどが経った。
ルーヴェル商会では、少しずつ異変が起き始めていた。
最初の一週間は、まだよかった。
温室の奥に保管されていた種は十分にあったし、ミレイユが管理していた薬草や香草、高級茶葉も残っていた。
だから、誰も困らなかった。
誰も、ミレイユがいなくなった影響など考えもしなかった。
むしろ、温室からあの地味な妹が消えたことで、屋敷の空気がよくなったとすら思っていた。
けれど――。
「どういうことだ、これは!」
温室に、ダリウスの怒鳴り声が響いた。
棚に並んだ鉢植えはどれも小さく、葉はまだ頼りない。
納品用に育てている薬草も、香草も、高級茶葉に使う若葉も、商品として出せる状態にはほど遠かった。
ダリウスは鉢のひとつを乱暴に指差す。
「なぜ、まだこの程度しか育っていない!」
新しく雇われた管理人の男は、青ざめた顔で頭を下げた。
「申し訳ございません」
「申し訳ないで済むか! この薬草は三日後に納める予定だったものだぞ!」
「ですが旦那様、これは……」
「言い訳をするな!」
ダリウスの怒声に、管理人は肩を震わせた。
少し離れた場所では、妻のオルガが眉を寄せて扇を広げている。
「本当に嫌だわ。こんな草臭いところに来なければならないなんて」
その隣で、モニカも不満そうに唇を尖らせる。
足元が土で汚れないよう、ずっと裾を気にしている。
「お父様、このままだと今週の納品に間に合わないのではなくて?」
「だからこうして確認に来たんだ!」
ダリウスは苛立たしげに言った。
その後ろには、ダニエルもいた。
金髪を整え、上質な外套を羽織っている。
彼もまた、温室の中にいること自体が不快だと言わんばかりに、眉間に皺を寄せていた。
「まったく……モニカが心配していたから来てみれば、この有様か」
「申し訳ございません!」
管理人はもう一度頭を下げる。
しかし、その顔には困惑もあった。
彼は植物の扱いを知らないわけではない。
むしろ、この辺りでは腕がいいと言われて雇われた者だ。
だからこそ、わかっていた。
今の成長速度は、遅いわけではない。
むしろ普通だ。
問題なのは、ルーヴェル家の者たちが『普通』を知らないことだった。
「あの、旦那様」
管理人は恐る恐る口を開いた。
「こちらの薬草は発芽から収穫まで、本来であれば最低でも二か月は必要な種類でございます」
「……は?」
ダリウスの声が低くなった。
管理人は喉を鳴らし、それでも続ける。
「香草も、茶葉も同様です。種類によって差はございますが、数日で商品にできるものではありません」
「何を馬鹿なことを言っている」
ダリウスが吐き捨てた。
「今までうちは、それでやってきたんだ」
「ですが、それは……」
「何だ」
「以前保管されていた種は、明らかに状態が異常でした。発芽が早く、根の張りもよく、成長の速度も普通ではございませんでした。一日、二日で葉が揃うなど、本来ならありえないことです」
「ありえない?」
モニカが不機嫌そうに目を細めた。
「でも、今までは育っていたわ」
「はい。ですから、以前の状態が異常だったのです」
「異常ですって?」
モニカの声が鋭くなる。
管理人は慌てて頭を下げた。
「失礼な意味ではございません。ただ、植物としてはあまりにも成長が早すぎたと……」
「それなら、あなたも同じように育てればいいだけでしょう?」
「それができれば、もちろんいたします。ですが、種そのものの質が違います。今ある新しい種は、普通の種でして……」
「普通の種?」
ダニエルが鼻で笑った。
「言い訳にしては苦しいな」
「ですが、事実でございます」
「君の管理が悪いだけではないのか?」
「ですが、問題は――」
「問題はお前の腕だろう!」
ダリウスが机代わりの作業台を叩いた。
「申し訳ございません。ですが、これらが育つのは最低でも二か月先で……」
「二か月?」
オルガが顔色を変えた。
「二か月も先では、納期に間に合わないではありませんか」
「ええ。ですから、最初からその前提で栽培計画を――」
「今さらそんなことを言われても困るわ!」
モニカが声を荒げた。
「今週、侯爵家へ納める香草があるのよ? 来週には王都の貴族から茶葉の注文も入っているわ。全部、契約済みなの」
「それは存じております。ですが、植物は急には育ちません」
「育っていたじゃない!」
モニカの声が温室の中に響いた。
「今までは育っていたの! 一日か二日で芽が出て、数日で売れるくらいになっていたでしょう!」
「それが、普通ではないのです」
「そんなわけがないわ!」
モニカは顔を歪めた。
「雑草令嬢が適当にいじっていただけの温室よ。あなたは専門家なのでしょう? だったら、あの子と同じくらいできて当然じゃない」
管理人は一瞬、言葉を失った。
その雑草令嬢が何をしていたのか。
彼にはもう、薄々わかり始めていた。
この温室の棚。土の配合。種の保存状態。残っていた魔力の気配。
どれも、ただの管理ではない。
植物を深く理解している者が、毎日、細かく手を入れていた痕跡だった。
だが、それをここで言ったところで、目の前の者たちが聞き入れるとは思えない。
「……申し訳ございません。できる限りのことはいたします」
その言葉に、ダリウスはなおも不満そうだった。
だが、ダニエルが一歩前に出る。
「まあ、今は責めても仕方ありません」
「ダニエル様……」
モニカが不安げに彼を見上げる。
ダニエルは、彼女を安心させるように微笑んだ。
「ここは私が何とかしましょう。いずれ、この商会は私とモニカが中心となって運営することになるのですから」
「まあ……!」
モニカの表情がぱっと明るくなる。
ダリウスも少しだけ表情を和らげた。
「ダニエル殿、何か考えが?」
「我が侯爵家の伝手を使います。足りない分の薬草や香草は、他所から買い集めればいい」
「なるほど」
「少々値は張るでしょうが、納期に遅れるよりはましです。契約を切られるより、損をしてでも信用を守るべきでしょう」
「さすがダニエル様ですわ」
モニカがうっとりとした声で言う。
「頼りになります」
「君のためだからね、モニカ」
ダニエルは微笑む。
その横で、管理人は言葉を飲み込んだ。
他所から買い集める。
確かに、一時しのぎにはなるだろう。
だが、ルーヴェル商会の商品が評価されていたのは、品質の高さだ。
他所の品で、それを満たせるのか。
同じ香草でも香りが違う。
同じ薬草でも効きが違う。
高級茶葉など、味と香りのわずかな差で評価が変わる。
だが、それを言えばまた怒鳴られるだけだ。
管理人は黙って頭を下げた。
「では、ひとまずそれでいこう。まったく、使えない者ばかりだ」
ダリウスは吐き捨てるように言った。
オルガは温室の空気を嫌がるように身を引く。
「もうよろしいでしょう? 私、これ以上ここにいたくありませんわ。服に匂いがつきます」
「私もですわ」
モニカもすぐに同意した。
「こんな雑草臭いところに長居したら、気分が悪くなってしまうもの」
「行こう、モニカ。君にはこんな場所は似合わない」
「ええ、ダニエル様」
四人は温室を出ていく。
温室を出たモニカは、廊下を歩きながら扇で鼻先を仰いでいた。
「本当に嫌な匂い。ミレイユはよく毎日あんなところにいられたわね」
「彼女には似合っていただろう」
ダニエルが笑う。
「雑草令嬢には、温室の土と草の匂いがお似合いだ」
「ふふ、そうですわね」
モニカも笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなる。
なぜか、胸の奥がざわついていた。
管理人の言葉が頭に残っている。
『以前の状態が異常だったのです』
そんなはずはない。
ミレイユは雑草令嬢だ。
自分より地味で、社交もできず、ただ温室にこもっていただけの妹。
モニカのほうが美しく、社交的で、商会の顔として相応しい。
そう言われてきた。そう思ってきた。
なのに……ふいに、数日前のミレイユの声が蘇った。
『そうですね。困らないといいですね』
あの時の穏やかな顔。
怒るでも、泣くでもなく、ただ静かにそう言った妹。
モニカは思わず足を止めた。
「モニカ?」
ダニエルが振り返る。
「どうしたんだい?」
「……いえ」
モニカはすぐに微笑みを作った。
「少し、匂いに酔っただけですわ」
「かわいそうに。早く部屋に戻ろう」
「ええ」
ダニエルに手を取られながら、モニカはもう一度だけ温室のほうを振り返った。
嫌な予感がする。
そんなはずはない。
あの子がいなくなったくらいで、ルーヴェル商会が困るはずがない。
そう思うのに。
胸の奥に落ちた小さな不安は、どうしても消えてくれなかった。
◇
私がグレイハルト辺境伯領に来てから、二週間ほどが経った。
最初は、屋敷の裏庭だけだった。
でも今では、領都のあちこちで、私が植物魔法をかけた種や苗が育てられている。
もちろん、最初から領民の方々が信じてくれたわけではない。
『こんな痩せた土で、本当に育つんですか?』
『今まで何度も試して、だめだったんですよ』
『奥様の魔法はすごいと聞きましたが……』
そう言われた時は、少しだけ緊張した。
でも、種を植えて、土に魔力を馴染ませて。
「『健やかなれ』」
そう唱えて、数日。
芽が出た。葉が伸びた。実がなった。
そして、それを食べた領民の方々が、目を丸くした。
『甘い……!』
『こんな野菜、初めて食べた』
『これ、本当にうちの畑で育ったのか?』
その日から、領都の畑は少しずつ賑やかになった。
空いていた庭先。家の裏手。城壁近くの小さな畑。
皆、競うように種を植え始めた。
私が思っていたより、ずっと早く広がっている。
正直、少し驚いている。
けれど誰かが嬉しそうに籠いっぱいの野菜を抱えているのを見ると、胸の奥が温かくなった。
「奥様、本当にありがとうございます」
「母が久しぶりに野菜を食べて、泣いて喜んでいました」
「子どもが、この豆ならもっと食べたいって言うんです」
そう言われるたび、私はどうしていいかわからなくなる。
実家の商会にいた頃、感謝されることはほとんどなかった。
だから今、真正面から笑顔を向けられると、まだ少し照れる。
慣れないけれど、とても嬉しい。
むしろ、もっと役に立ちたいと思ってしまう。
そのために、私は今日も屋敷の裏庭にいた。
食べ物は少しずつ広がってきた。
次は、怪我や疲れに効く薬草を安定して育てたい。
辺境伯領は魔物が多い。
兵士の方々も、領民の方々も、怪我をすることが多いと聞いた。
なら、食べ物の次は薬草だ。
「この子は葉の香りが少し強すぎるわね。もう少し穏やかに……こっちは根に魔力が溜まりすぎてるから、巡りをよくして……」
私は膝をつき、鉢植えを前にして魔力を流した。
「『健やかなれ』」
淡い緑の光が、葉先へゆっくり移っていく。
うん、悪くない。
でも、まだ少し強い。
薬効が強すぎる薬草は、扱いを間違えると逆に体に負担をかける。
優しく効いて、毎日使えて、子どもや老人にも飲ませられる。
そういうものにしたい。
「……難しいけど、楽しい」
思わず口元が緩む。
やっぱり植物は面白い。
土も、水も、日差しも、魔力も。
少しずつ変えるだけで、ちゃんと応えてくれる。
「また裏庭にいるのか」
不意に声がして、私は顔を上げた。
そこには、カイン様が立っていた。
今日もきちんとした服装なのに、どこか少し疲れて見える。
けれど、最初に会った頃より顔色はいい。
夜にしっかり眠れているのだろう。
「あっ、カイン様」
私は慌てて立ち上がった。
「すみません。何かご用でしたか?」
「いや。最近、ずっとここにいると聞いたから様子を見に来た」
「ずっと……」
否定しようとして、できなかった。
たしかに、朝食後はだいたい裏庭にいる。
昼も夕方もいる。
夜はさすがに部屋に戻るけれど、鉢植えを部屋に持ち込んでいる。
……うん、ずっといるかもしれない。
「あの、迷惑でしたか?」
私は少し不安になって尋ねた。
畑を使っていいとは言われたけれど、さすがに使いすぎているのかもしれない。
領都の畑にも手を出しているし、使用人の方々にも手伝ってもらっている。
調子に乗りすぎたのだろうか。
けれど、カイン様はすぐに首を振った。
「そうじゃない」
「では……?」
「無理はしないでくれ」
低い声だった。
でも、叱っている感じではない。
「君は薬草で体調を整えられるのかもしれない。だが、薬草があるからといって、身体を酷使し続けていいわけではない」
「……」
「倒れてからでは遅いからな」
その言葉に、私は少しだけ瞬きをした。
心配、されている。
私が畑にいることを咎めに来たのではなく、私の体を案じて来てくれたのだ。
そんなことを言われたのは、初めてかもしれない。
実家では、疲れていても温室に行くのが当たり前だった。
熱があっても、種の管理だけはしておけと言われた。
だから、無理をするなと言われると、どうしていいかわからない。
胸の奥が、少しくすぐったい。
「ありがとうございます、カイン様」
「礼を言われることではない」
「いえ、嬉しかったので」
素直にそう言うと、カイン様が一瞬、言葉に詰まった。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……そうか」
耳が少し赤いような気がした。
気のせいだろうか。
「そろそろ休憩を取ったほうがいい」
「休憩、ですか」
「ああ。菓子でもどうだ?」
「お菓子……」
その言葉に、思わず反応してしまった。
カイン様は少しだけ口元を緩めた。
「君のおかげで採れた野菜で、料理人がクッキーを作ったらしい」
「野菜でクッキーを?」
「ああ。根菜を練り込んだものと、香草を少し使ったものだと聞いた」
「ぜひ食べたいです」
即答だった。
これは仕方ない。
植物からできたお菓子なんて、気になるに決まっている。
「では行こう」
「はい。一緒に食べましょう」
そう言って、私はカイン様のほうへ一歩近づいた。
けれど、その瞬間、足が止まった。
私は今の今まで裏庭にいた。
土に触り、葉を撫で、薬草の鉢を抱えていた。
当然、草の匂いがついているだろう。
いや、裏庭にいなくても、私の体にはもう草の匂いが染みついているのかもしれない。
実家でも、モニカに何度も言われた。
『雑草の匂いがする』
『臭いから近寄らないで』
ダニエルにも言われた。
『隣にいると臭い』
私は無意識に一歩下がった。
カイン様が気づいたように、こちらを見る。
「どうした?」
「あ、いえ……」
「疲れたのか?」
「そうではなくて」
私は少し迷ってから、袖口を握った。
「私、今まで裏庭にいましたので……草の匂いがついていると思います。不快な思いをさせるといけないので」
言いながら、少し恥ずかしくなった。
わざわざこんなことを言う必要があっただろうか。
でも、近づいてから嫌な顔をされるよりはいい。
カイン様はしばらく黙っていた。
怒っているのかと思って、少しだけ不安になる。
けれど、次の瞬間。
「不快なことは何一つない」
はっきりとした声だった。
私は思わず顔を上げた。
「え?」
「草の匂いがするからといって、不快だと思ったことはない」
「でも……」
「それに」
カイン様が一歩近づく。
私は思わず固まった。
距離が近い。
いつもよりもずっと近い。
彼は少しだけ身を屈め、私の髪の近くに顔を寄せた。
え?
な、何を……。
考えるより先に、カイン様が静かに息を吸った。
匂いを、嗅がれた。
たぶん、いや、確実に。
私は一瞬で耳まで熱くなった。
カイン様は顔を離すと、真面目な顔で言った。
「俺は、君の匂いは落ち着くから好きだよ」
「……っ」
息が止まった。
好き、落ち着く。
それは、草の匂いのことだろう。
きっとそうだ。
私も草の匂いは好きだ。
落ち着く。
だから、一緒。
一緒なのだけれど……なぜだろう。
胸がものすごく騒がしい。
「あ、ありがとうございます……?」
お礼で合っているのかわからない。
でも他に言葉が出てこなかった。
カイン様は少し笑った。
「なぜ疑問形なんだ」
「い、いえ。こういうことを言われ慣れていなくて」
「ふふっ、そうか」
カイン様は悪戯っぽく笑った。
その笑みが可愛らしくて、また胸が跳ねた。
ずるい。
何がずるいのかはわからないけれど、少しずるい。
「それじゃあ行こうか」
カイン様が手を差し出す。
エスコートの手だ。
私は少し躊躇って、それからそっと手を乗せた。
大きな手、温かい。
繋がれた手は優しい。
お菓子を食べるだけ、ただの休憩。
そう思っているのに、なんだか少し落ち着かない。
自分の匂いを好きだと言われた。
草の匂いのことだとわかっている。
わかっているのに。
『俺は、君の匂いは落ち着くから好きだよ』
私は、しばらくその言葉を頭の中から追い出せそうになかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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