私は青春を知らない
天高く、真夏の澄み渡った青空を突き破るように伸ばしたオーバースロー。体重を載せ、大きく振り上げた左足はマウンドの土を踏み締め、鞭のようにしなる右腕からボールが放たれる。時速160キロを超えた豪速球は瞬き一つ許さない。相手の4番バッターの渾身のスイングもすり抜け、キャッチャーミットに吸い込まれていった。
ゲームセットと共に割れんばかりの歓声が鳴り響き、甲子園の熱気は最高潮に達した。夏の覇者が決まった。偉業をやり終えた私の元へチームメイトがこぞって集まる。野球帽を脱いで丸刈り頭を晒し、土埃と汗で塗れたユニフォーム姿で抱き合う。実況席もまくし立てるような熱弁を振るい、歴史的な勝者を讃えた。
決勝戦を無失点で守り抜いた、勝利の立役者である私。眩いばかりのフラッシュとマイクを突きつけられ、はにかみながらインタビューに答えていた。
2m近い高身長で無駄のない分厚い筋肉に覆われた、野球のために作られた肉体。そんな雄臭い屈強さとは裏腹に、童顔な甘いマスクの私は自然と笑みをこぼす。
「ちっちゃい頃から野球一筋で、野球ばっかやってました。自分の青春全てを野球に賭けてきたんです。辛いことがあっても野球でてっぺん取りたいって気持ちでずっとやってきて、ついに甲子園優勝までたどり着けました。今めっちゃ感無量です」
カメラの無機質なシャッター音と共に、私は額を拭い眉間を寄せた。右手を握りしめて、ぐっと前に突き出す。これは大衆への宣戦布告。
「けど、甲子園はまだ道の途中です。僕はいつか世界一の舞台で戦って、世界最高の野球選手になって、てっぺん取って見せます!」
若者の夢見がちな大言壮語だと捨て去るには、私のプレイはあまりにも鮮烈だった。天性の豪速球に加えて切れ味の良い変化球でバッターを討ち取り、バッティングでもホームランを何度も披露してチームを支えた。有り余る野球の才を兼ね備えた私に、日本中の期待が注がれる。
10月のドラフトでも1位指名で球団がこぞって私を求めた。甲子園優勝投手という栄誉、プロの誰もが欲しがる選ばれた存在。マスコミもSNSも、野球を知らない人たちも、私の話題で盛り上がっていた。そう、誰もが羨む華々しい青春を歩んでいた。
はず、“だった”のだが。私は何も覚えていない。今、ここに述べたことは、私が何度も見させられた動画や記事、伝聞の感想だ。過去の出来事を飽きるほど説明されても、私が“失ったもの”の実感は湧かなかった。
人生のスタート地点をはっきり覚えてる人はいるのだろうか。一番最初の記憶は? 私の場合はリスポーン地点かもしれない。あれは2ヶ月前。元旦から少し過ぎた辺りだ。
消毒液の匂いがする、壁紙が暖色で覆われた病院の個室。空調の生暖かい空気が淀む。目が覚めた私は、筋肉痛でガッチガチに硬くなった体を起こして、あたり一面を見渡す。布団が捲れ、目を窄める。私は誰だろう。名前すら思い出せない。だがここが病院なのは辛うじて分かる。
私は自分の両手を見た。信じられないくらい細い、華奢な手。あれ、こんなに体が小さかったっけ。胸がやけに重たい気がする。手で鷲掴みにすると、膨らみのある乳房があった。感触がしっかりある。不思議だ。自分が誰かも分からないのに、背筋が凍る。
冬の灰色がかった青空。昼間の淡い日光がさす窓に、ぼんやりと映る自分の姿を見て気づく。肩の先まで伸び切った黒髪、大きな茶色い瞳にくるんとしたまつ毛。タヌキ顔の童顔。
あれ、私って女の子だったんだな、と。
病室のネームプレートには「立川球児」と書かれてる。あれ、どっちだ?
どうやら、私は自主トレの途中でトラックに轢かれたらしく、そのまま1ヶ月くらい意識不明。今どきなら、そのまま異世界に転生するのがトレンドでしょ。
入院中、男だった体は急激にやせ細り、じわじわと肉体が変化しながら女の子の体に変貌していった。原因は不明らしい。
医者からそう説明されたものの、私は自分が男だったということに驚きを隠せなかった。今の自認は女だから。
父親と母親、妹が面会に来てくれたんだけど、まるでおぞましい怪物を見るような目つきだったのを良く覚えている。私は家族の顔すら覚えてないので、他人行儀に接したのも悪かったのかもしれない。母親は私の小さい手を握るなり、ぽろぽろと泣いてしまい。私にちょっと似てる妹はうなだれる母親の背中を擦る。険しい表情の父親は、腕を組み眉をひそめて私に問いかけた。
「本当に、球児なのか……」
答えようがなくて、私は口を閉じた。
家族はまるで葬式でもしているかのように、粛々と私との面会を終えた。
私という存在が一度死んでしまったことについて理解出来たのは、世間とのギャップだ。
退院後、私は男子寮から女子寮に移されて、一人で生活することになる。もう、卒業も間近だったけど、学校側は女になった私を受け入れてくれた。部屋を移るに当たって自分の私物を見たけど、野球に関する道具や本、ポスターばっかりで面白みがない。面白い小説の1つくらいあれば良かったのに。
ブカブカな男子の制服しかなかったから、私は特別にジャージ姿で学校に登校した。身長は170センチくらいになって、男の時とだいぶ体格が違う。周りの視線も奇異なものを見るような感じで、客寄せパンダみたいな扱いだった。
元の私がどんなキャラだったかは知らない。無難にヘラヘラしながら、覚えのない同級生や友達だった人、野球部のチームメイトの質問攻めにあった。まともに答えられず、愛想笑いで表情筋がつりそうになる。喋るたびに空気がキンキンに冷えて、肩身が狭かった。
「入団の話は無しになった」
球団の職員さんが、心底申し訳無さそうに告げた。私は謝罪した。「女の子になってすみません」って。
事故で女体化して、野球選手としての人生が絶たれたことは、ワイドショーで取り上げられ大きな話題になった。天才高校球児の悲劇として、大衆に消費されていく。周囲の人間も、私を憐れんでいた。家族に至っては、何も言われなかった。球児って名前をつけるくらいだし、親は私が野球選手になって欲しかったんだろうな。重いよ。
野球に人生を賭けていた私は死んだ。部屋の隅っこに置いた、ダンボールから顔を出した金属バットがやけに存在感を放つ。
私はどれだけの歳月、野球に打ち込んできたんだろう。どれだけの努力と苦難を乗り越えてきたんだろう。
きっと、甲子園で優勝するのも、プロになったことも、類まれない才能と血の滲むような努力が成せた業だ。素人でも分かる。
そのすべてを失って、高校卒業間近で進路も決まってない私は、虚無だ――――
「なあ、きゅーちゃん。ここの喫茶店のパフェ、めっちゃ美味いな」
放課後、個人経営のモダンな喫茶店で、いちごパフェを男の子と一緒に食べている。いちごの甘酸っぱさと、アイスクリームの冷たさで頬が落ちそう。細長いスプーンで、紅白のグラデーションを割く。
眼の前にはツーブロックの髪型で、顎がしゅっとした、塩顔のかっこいい男の子が相好を崩していた。体格もしっかりしてて、シャツ越しからもわかる筋肉質。名門野球部の正捕手らしい、高校生離れした体つき。
腫れ物の私に対して唯一、対等に接してくれる大事な友達。リトルリーグからバッテリーを組んでた、いわゆる幼馴染だそうな。
「まこっちゃんは甘いもの好きなの?」
「人並みかな。でもさ、約束してたじゃん。野球部から解放されたら、ここのパフェ食うって」
「そうなんだ。なんか、素朴な約束だね」
ムーディーなジャズが流れ、革張りの茶色いソファーに背中を預ける。
東城真琴くんこと、まこっちゃんは一人ぼっちの私にとても親切に接してくれた。私に昔の自分の記録を見せてくれたり、昔の私がどれだけ野球バカだったかを語ってくれたりした。けど、彼の熱意に反して、全然ピンっと来なくて申し訳ないと思ってる。
「やっぱ、思い出せないか……地道にやっていくしかないんかねぇ」
「まこっちゃんは、私に昔のこと思い出してほしいの?」
ホットラテを口元に近づけて、ちょっとだけ飲む。口に残った甘みが、苦みで少し中和される。
まこっちゃんは右手でこめかみを引っかきながら、切れ長な目を細めた。
「無理にとは言わない……けど、俺のこと思い出して欲しい」
「そっか。けど、時折思うんだ。男の時のことを思い出して、私って救われるのかな」
テーブルに両手を置いて、私はカサカサの唇を口に含み、湿らせてから言葉を紡いだ。
「だって、プロ野球選手の夢も無くなっちゃって、進路も定まってないのに卒業しなきゃいけないんだよ。絶望的じゃん」
「きゅーちゃんは進路どうするつもりなの?」
「分かんない」
肩肘を突いて眉をひそめたまこっちゃん。私は何気ない表情でアイスを口に含む。バニラの味が広がって、冷たさが喉を通る。
唇の端を小さく釣り上げて、人差し指を弾力のある頬に突きつけた。女の子らしい、愛嬌のある仕草を意識して。
「仕方ないじゃん! 記憶もないし、女の子になっちゃったし。けど、なんとかなるでしょ」
「なんとかって……あと1ヶ月も経たないうちに卒業だし。今更ジタバタしてもしょうがないか」
「そうそう。もう、どうしようもない! あはは!」
笑い事じゃないのは一番私が分かってる。だから、そんな苦々しい顔で頭抱えないで欲しい。
たとえ、記憶を取り戻したところで、すべてが解決するわけじゃない。だから、記憶がどうのこうのは、正直どうでもいい。
過去の私とまこっちゃんがどんな約束事をしてたかは知らないけど、今はただ一緒にパフェを食べてあげることだけが精一杯の誠意だった。
「私もまこっちゃんと同じ大学行きたい~~」
「偏差値結構高いぞ。それに私大だから学費もかかるし、どうすんだ?」
「夢のないこと言わないで、っよ!」
夕暮れの茜色、漏れる呼吸が白く霞む。放課後デートの最後は、公園でキャッチボールをするのが定番になってる。
と言っても、私がまこっちゃんが構えたグローブ目掛けて、全力投球を繰り返すだけなのだが。
けど、ここで唯一、私が忘れてなかったものが分かった。
「球走ってんじゃん。ナイスピー!」
「女の子連れて、やることがキャッチボールって。なんか変じゃない?」
投げ返されたボールを手ぐせで捕球する。体がしっかり覚えているのか、飛んでくる球への怖さはない。グローブ越しに感じる衝撃が心地いい。
モニター越しに映った私の投球フォーム。剛腕をフルに使い、体全身でボールを投げる姿は豪快さがあった。私は私をイメージする。
「もう一球! 今度はど真ん中ストレート!」
しゃがんだ姿勢のまこっちゃん。無邪気に笑いながら構えたグローブが投球を誘う。私は不自然なくらい落ち着いていた。
直立不動でぎゅっとグローブの中に収めたボールを、右手の指で握りしめる。縫い目の感触、球の硬さ。左膝をすっと持ち上げ、体幹を捻り上げ、思いっきりバネのように解放する。右足を軸に、左足を振り払う。緊張と脱力を意識しながら、天高く伸ばした右腕を弧を描くように振り抜いた。
160キロとはいかないけど。私が投げた球はグローブに突き刺さり、乾いた破裂音を奏でた。
「ほんとそっくりだよ。こうやってお前の球受けてると、昔を思い出しちゃう」
「私は何も思い出せない! けど、球を投げてると、なんかさ、体が馴染むんだよね」
「はは、いいじゃん! こうやって、野球のことから思い出したら、記憶戻るんじゃね?」
再度、返球をグローブに収める。私は顔をしかめながら、むっとする。そして、生唾を飲んで、私は恐る恐る口を開いた。
「ねえ、まこっちゃん。まこっちゃんはさ、今の私のことどう思ってる?」
「どうって……大事な幼馴染だと思ってるよ。女になったからって、そこは変わんない」
「もしもさ、私がまこっちゃんに……好意を抱いてるって言ったら、どうするの?」
私からしてみれば、たった一ヶ月くらいしか付き合いがないのに、惚れただのなんだのというのはおかしなことかもしれない。
頬が熱い。冬の冷たい風が公園の土埃を巻き上げ、二人の間を通り過ぎていった。まこっちゃんは前髪をかき上げる。
「……俺はさ、ずっとガキの頃から、立川球児って天才に憧れてたんだ。小学生の頃からバッテリー組んで、お前の女房役として支えてこれたことを光栄に思ってる。俺みたいな凡才を選んでくれて本当に、嬉しかった」
すくっと立ち上がったまこっちゃんは、グローブを脇に抱き抱え、今まで見たことない真剣な面持ちで私と視線を合わせた。
「男のきゅーちゃんなら、一緒にパフェなんて食ってくれなかった。誰よりもストイックで、野球に人生賭けてたからな……」
私はチョロい女だと思う。確かにまこっちゃんはイケメンで、私にすごく優しかった。この世界でひとりぼっちだった私の、唯一の友達だった。
言葉の返球もできないまま、グローブに残った球だけがやけに重くなっていくのを感じる。
みーんな、昔の私しか見てない。今の私なんてどうでもいいんだ。
心まで暗くなるような夜。部屋の中で一人拗ねて泣いている。初めての失恋がこんなに胸を締め付けるものだとは思わなかった。
布団の中でモゾモゾと体を動かしながら、自分が女だということを自覚させられる。画面越しに見る昔の自分とは、信じられないくらい華奢な体だ。腰も細いし、肩も撫で肩だし。顔も小さい。声だって全然違う。あんなに野太い声を出してたとは思えない。体臭だって、もっと汗臭い男の匂いだったんだろう。
なんで、私は今こんなにも惨めなんだ。涙で湿った枕カバーに顔を埋める。ジタバタと足をばたつかせる。
悔しい。まるで、今の私には価値がないと、そう宣告されたからだ。男の私は圧倒的に選ばれた存在だ。世間に疎い私だって、昔の私がどれほど凄かったかは分かる。契約金だって1億超えのスーパールーキーだったわけだし。今の私にそれだけ稼げる力があるか? いや、ないね。
私が失ったもの。それは輝かしい未来じゃない。自分を築き上げた青春という名の過去だ。
私は青春を知らずに今を生きている。青春を送る事もできずに、卒業しなくちゃいけない。青春は若者のすべてだ。この先、人生を生きるための設計図なんだ。それを体験せずに、私は大人にならなきゃいけない。酷いよ。
生きてる価値がない。今の女の私は無価値だ。立川球児という戸籍が同じだけの、ただの別人なんだから。
仮に記憶を取り戻したところで、私は幸せになれるのか? いや、逆だね。男の時の記憶を思い出したら、私は絶望の底に突き落とされるだろう。
「これから、どう生きていけばいいの……」
髪が枝垂れて頬にかかる。私はほぞを噛みながら、不安の渦に溺れている。友達も家族もみんな頼れない。藁に縋ることすらできない、孤独。
卒業したらバイトでもして働くか? それとも、浪人して大学を目指す? 全然、想像できない。
私に残されたものってなんなんだろ。
「くそったれ!」
深夜のグラウンドに忍び込んで、私は無意識に球を投げていた。ライトもついてない暗い暗い夜の中、私は緑色のネットにストレートを投げ込む。
球を投げる度に、痛いほど野球が私の人生だったことが分かる。体が疼いて仕方がない。月夜に映された影の動きは、動画で見た自分そっくりで。
「まこっちゃんのバカー!」
全力で球を投げては、ネットが軋む音がする。コロコロと転がるボールを手に取ってはマウンドに戻り、私は繰り返し直球を投げ続ける。
もう球を受け止めてくれるキャッチャーもいない。あんな薄情者なんか、もうどうだっていい。昔の私の影をずっと追ってればいいんだ。
私は私だ。私は立川球児で、私は……
「誰なんだよ! 誰、だーっっ!!」
分からない。多分、私はこれから先、私の人生を新しく作り直さなきゃいけないんだ。
下半身を捻り上げ、腕を伸ばし、肘を折り曲げ、肩を回して。一球入魂、全身全霊を賭けて、ストレートを投げる。
ネットが受け止めた球は、小さく跳ねて闇夜の中へと消えていった。私はそれを探しに行った。




