第七話 夜闇にかがやく願い星たちの夢③
週明け、つい刺繍に夢中になって、寝不足ぎみの目をこすりながら家を出る。それでもいつも通り門のところに百瀬の姿を見つけて、とたんに足取りを軽くした。
「おはよう、百瀬!」
「おはよう」
朝から、夜半のような静けさで微笑む百瀬の目の奥には、やはり真紅の光がちらつく。その光を、今の朔夜はすなおに美しいと思う。
百瀬がごく自然な動きで朔夜の手を取り、ほどよい力加減で握る。人より冷たい朔夜の手は、そうして百瀬と同じぬるさになってゆく。
「今日は、鳩羽さまのところに寄って帰りましょう。解決したって報告に」
「うん。鳩羽さまは、もしかして全部ご存じだったんじゃないかな」
百瀬は怒るでもなく、いつもの、歌うような調子でもの静かに話した。
「人ならざるものの仕業だったら、自分で動いてそうだもの」
「鳩羽さまはきっと、私たちを試したのね」
「僕たちの選択に任せてくださったんだよ」
おっとりと言う百瀬に目を向けながら、朔夜は百瀬とは少し違うことを考えていた。
鳩羽が見守ったのは、村主新とどう決着をつけるかではなく、百瀬とのことだったように思う。
ぼんやり百瀬を見上げたままでいると、目が合って柔らかに微笑みかけられる。
「百瀬って、ずっと私を見てない?」
「どうかな」
やや悪戯っぽく笑う百瀬は、いつもより肩の力が抜けているように見えた。いつも、何を考えているかわからないようでいて、彼なりに気を張っていたのかもしれない。
「ずっと見ていたいとは思っているよ」
「前を見て」
「前なんて見なくてもわかるよ。朔夜も、そうでしょう」
わざとらしく朔夜を見て言いながら、百瀬の足は、足下を駆け抜ける小さなあやかしを器用に避けた。それでも、近所の人の姿が見えたときには、ちゃんと前を向いてそれらしく歩く。
おはようございます、と声を揃えると、近所のおかみさんは少しからかうように、明るく挨拶を返してくれた。彼女は、朔夜たちが『普通』でないとは、つゆほども思っていないだろう。
(仲が良すぎるとは思われているわよね)
今さらながら、なんだか恥ずかしくなってきて百瀬から距離を取ろうとした。すると、百瀬の手にぐっと力が入り、痛くはないけれど抗えない、絶妙な力で引き戻される。
「今さら?」
百瀬は、わざと朔夜の耳に唇を寄せ、朝に似つかわしくない、やや掠れたひそやかさでささやいた。
「どうしてわかるの」
一応、抗議を込めて問いかけたが、それこそ今さらである。
言葉がなくても、朔夜と百瀬のあいだには特別な絆があり、互いの感情を知る。夢を繋げて、眠っていても一緒に過ごすこともできる。
生まれる前から、ずっとそう。
人ならざる力を持ち、人のなかで生きている。それが自分たち。
「朔夜のことを、わかりたいと思うからかな」
けれど、百瀬からは意外な答えが返ってきた。朔夜が思わず目を丸くして百瀬を見上げると、朔夜を見下ろす百瀬は眩しげに、それでいて柔らかく目を細めた。
「いつでもそう。朔夜が僕に言ってくれたように、僕も朔夜のことは、誰よりわかっていたいよ。何もかもを知りたいと思う」
「隠しごとなんてないわ」
「そういうことじゃない」
百瀬は仕方がなさそうにふうと息をついて、空いているほうの手で指折り数えだす。
『庇護欲、独占欲、支配欲。そういうもの』
涼しい表情で、けれどとろりとした感情に乗せて朔夜に響かせてくる。そのくせ、朔夜が離れていくのを恐れるように、繋いだ手に力を込める。
朔夜の心境は触れているところから伝わったようで、彼はすぐに息をついた。
「僕のことを過保護だと言うけれど、朔夜だって過保護だよ」
「どうして」
「いま、僕に欲があることで、安心したでしょう。あるに決まってる」
「だって、好きな色も食べものも、いつも『朔夜が好きなら』って言うじゃない、百瀬」
朔夜が唇を尖らせると、百瀬は悪びれず言った。
「朔夜のこと以外、些事だから」
「百瀬のことは些事じゃないから」
すかさず言い返す。だが百瀬にはちっとも応えたようすがなく、美しいかんばせに、どこか妖しい微笑みをつくって朔夜を見下ろした。
「そうやって朔夜が僕を気にかけてくれるぶんで、ちょうどいいと思う」
「よくない」
「いいよ。僕を大事にしてね、朔夜」
耳をくすぐる百瀬の秘事めいた声音に、朔夜は頬に熱がのぼるのを感じ、きゅっと唇を引き結んだ。
主従関係をほのめかすくせに、百瀬は朔夜が彼の言うことを聞き入れると思っているし、譲る気も感じられない。そんな百瀬に、朔夜は勝てる気がしない。
「大事にしているでしょう」
「僕は欲張りだから、もっと」
「わかったから、ちょっと離れて!」
学校が近くなってきて、いつもよりさらに近い百瀬の体を押しのける。百瀬はくすくす笑いながら、おとなしくいつもの距離に戻ってくれたのだった。
***
学校は、なんとなくいつもより賑やかに感じられた。
生徒たちに活気がある、と感じるのは、新に奪われていた願いが還ってきたからだろうか。
休み時間に明るい気分で廊下を歩き、一年生の教室を覗くと、朔夜を慕って挨拶をしてくれるいもうとたちの中で、ひとりだけ怯えるようにうつむく子がいた。
「月子ちゃん、少し、いいかしら」
朔夜がその子を呼べば、びくりと肩を揺らしながら恐る恐る顔を上げる。興味深そうに朔夜と、呼ばれた生徒を見比べるいもうとたちにこっそりと軽いまじないをかけ、気を逸らさせて、朔夜は月子を空き教室へと連れ出した。
「高坂月子ちゃん」
「はい……」
小作りな顔立ちで、あまり気丈そうにも見えない月子を空き教室の椅子に掛けさせ、朔夜もその隣の椅子に座る。上体を傾げて彼女の顔を覗き込むと、月子は泣きそうな目もとにきゅっと力を入れていた。
「今回、あなたがお兄さまに命じられてやったことを、咎めるつもりはないの」
月子が顔を上げる。動いた拍子に、見開かれた目から涙が落ちた。
「仕方がなかったのだと、わかっているから」
「……ごめんなさい」
か細く謝る月子こそ、村主新の妹だった。妾の子で、村主を名乗ることを許されていない。
何より、朔夜が新との繋がりに気づけないほど、月子にはほとんど霊力がなかった。
こういうふうに力を失ってしまうさまを突き付けられたら、焦燥を抱くのも理解はできる。
「あなたのお兄さまとは、直接話をしています。もう、あなたを通じて何かをしようとは思わないとは思うけれど……」
兄が怖いのか、仕出かしたことを恐れているのか、月子は青ざめて震えている。握り締められて白くなってしまった手に、朔夜はそっと自分の手を重ねた。
朔夜の手は月子の手よりも冷たい。それでも包み込むように優しく握る。
「もしも今後、お兄さまに何かを命じられて悩むことがあれば、私に相談してみてほしいの」
「朔夜おねえさま……に……?」
朔夜は深くうなずいてみせた。
「私は私のやり方で、みんなを守りたいと思っているから」
村主の家の血を引き、しかし力を持たず、あの兄がいて、月子の境遇は嫌でも想像がつく。
そのせいで、月子は今回の出来事を引き起こしたのだ。
「お兄さまも、悪いひとじゃないんです……」
「そうかもしれないわね」
そうね、と優しく言ってやるべき場面だとわかってはいたが、朔夜はどうにか妥協しても、そうとしか言えなかった。
悪人でなかろうと、大嫌いな相手である。
(私って、未熟ね)
反省しつつ、しかしながら、無理なものは無理。
そう開き直りつつ、表情ばかりは取り繕ってやさしく月子を見つめる。
「でも、月子ちゃんも、お兄さまに従っていいのか、ひとりで悩んでいたでしょう。違う?」
朔夜は手紙にはっきりと、新は間違ったことをしている、その行いを止めねばならないと書いた。
もしも月子に何も悩むことがなく、兄を慕っていれば、朔夜が机に忍ばせた手紙を兄に渡さず、握りつぶしたはずだ。
「私のことを見ていたでしょう、いつかの朝、校舎の窓から」
「……っ」
「悩んで、どうしようもなくて、ほんとうは私にうち明けたかったんじゃない?」
月子はなおも怯えるように視線をさ迷わせたが、朔夜が安心させるように手を撫でてやると、ほろりと涙を落としながら浅くうなずいた。
「つらかったわね」
「でも、わたしの役目だから……」
「そうね。けれど、それを正しくないと思うことも、間違ってはいないのよ」
月子の生き方を、朔夜が否定することはできない。彼女が自分の役目を定めて、それに納得するのであれば、新と同じように、対立することもあるのかもしれない。
ただ、悩むのならいくらか道しるべとなってやることもできる。
「悩みがあれば聞くし、相談にも乗るわ。私はあなたの『おねえさま』だもの。ここはそういう場所なの」
朔夜はひとりっ子だが、この学校で『おねえさま』たちにずっと面倒をみてもらっていた。今でも慕わしい彼女たちの面影を思い浮かべながら、月子を諭す。
上級生はいもうとたちの手本となって導いてやり、下級生は上級生をおねえさまと慕い、見習って成長してゆく。
そうして絆をはぐくむ場所だ。
「そうしてあなたもいつか、いもうとたちの良き『おねえさま』になってね」
月子はやや乱暴に、手のひらで涙を拭った。
「はい、朔夜おねえさま」
月子の顔には、朔夜への憧憬とともに、まだ弱々しくも、確かな決意が見て取れた。その表情を見て、自分たちが卒業しても、この学校は変わらず素敵な場所であり続けるだろう、と、安堵が胸に広がる。
どれほど時代が変わっても、想いが、変わらず受け継がれてゆくならば。
その日の帰り、校門のところで朔夜を待つ百瀬の横に、君枝の姿があった。
君枝はやや緊張しているようだったが、雰囲気は和やかで、朔夜が近づくと振り向いてはにかんだ。
「朔夜おねえさま」
「君枝ちゃん、どうしたの?」
「少し、神森さんにお伝えしたいことがあっただけです」
君枝のことは、あの空き教室での出来事からずっと気にかかっていた。ひとりで苦しんでいるのではないかと案じていたものの、今、朔夜を見上げる君枝は穏やかな顔をしている。
「朔夜おねえさま、ごめんなさい」
「何が?」
「わたしの心が弱かったから、いけないことを考えたんです。おねえさまたちが大切にしていらっしゃる場所で」
君枝は核心を避けた言い方をしたが、朔夜はそれが何のことだかわかった。
あの空き教室での告白の記憶を消したから、君枝は朔夜が知らないと思っているはずだ。あえて言わないのは、朔夜を傷つけないためなのだろう。
「わたしも、おねえさまみたいになりたい」
「……私もね、私の『おねえさま』たちに、そんなふうに思っていたわ」
朔夜がうち明けると、君枝は目を丸くしてまじまじと朔夜を見つめたあと、意味を呑み込んでぱっと嬉しげに頬を染めた。
「いい『おねえさま』になるわ、君枝ちゃん」
「がんばります!」
まだ子どもらしい両手を胸の前で握って目を輝かせる君枝がかわいい。
つい頬をほころばせて眺めていると、百瀬が朔夜の手を取った。
「帰ろう、朔夜」
言い方は穏やかで、微笑んでいるが、触れているところから拗ねたような心情が伝わってくる。
呆れて百瀬をちらりと見上げ、また君枝へ視線を戻すと、君枝はやたらきらきらした目でこちらを見ていた。
朔夜と目が合い、はっとしたように頭を下げる。
「わたしも帰ります。それではおねえさま、神森さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、君枝ちゃん」
百瀬が軽い会釈をして歩き出すのに引っ張られながら、朔夜は振り返って応える。君枝は小さく手を振って見送ってくれた。
「あの子に告白されたんだ」
道すがら、百瀬は前置きもなく言った。
「そうじゃないかとは思っていたけれど……」
「ただ言っておきたかっただけだって。朔夜のことを大事にしてって言われた。どちらかというと、朔夜を慕って、後ろめたさをなくそうとしたみたいだったよ」
君枝にどういう葛藤があったか、朔夜は知っている。けれど君枝からその記憶を消したせいで、君枝のなかでは、朔夜への後ろ暗い感情をうち明けられないままだったはずだ。
そういう気持ちも邪気にあてられたものだったとしたら、学校に撒き散らされていた怪異を祓い、願いを返した今、すなおな想いに戻ったのかもしれない。
「誠実な子なのよ」
「あの子は、朔夜のことが好きなんだよ。僕を慕う気持ちよりも」
「そうかしら」
朔夜は、否定とも同意ともつかない相づちを打った。
女学生たちの絆も、恋心も、百瀬には理解の及ばない感情だろう。とはいえ、朔夜も君枝の心境は推測することしかできない。
きっと、たくさん苦しんだはずだ。
「朔夜が背負い込むものではないからね」
黙り込んだ朔夜の思考を見透かすように、百瀬が釘を刺す。
「わかっているわ」
「どうかな。朔夜はすぐ、自分の心をわけ与えてしまうから」
繋いでいた手に、百瀬は少し力を込めた。
「僕のことだけ考えていてって、言いたいんだよ、ほんとうは」
「言ってる」
「聞かなかったことにしてもいいよ」
百瀬がにこりと綺麗に笑うとき、裏にあるのはいっさい譲る気のない想いだ。朔夜はわざとらしくため息をついてみせ、百瀬の手を引いて身を寄せた。
「そうするわ」
朔夜の反応が予想外だったのか、百瀬は数秒のあいだ、朔夜を見下ろして目を丸くしていた。少ししてぽそりとつぶやく。
「……そう」
いつもは歌うように流れる声が、低くくぐもっていた。本音を隠せていないというより、もう、今までのように隠す気がないようだ。
(どうせ、私が百瀬の望み通りにすると、後ろめたく思うくせに)
めんどうなひと。
でも胸の深くを掴まれた心地がして、今すぐに百瀬を抱きしめたいような、たまらない気持ちにさせられる。
「……僕のこと、いやにならない?」
今さら、そんなことを自信なげに言うから、朔夜は黙って空を仰いだ。
夏に向かういまの時期、帰り道でも空はまだ遠く明るい。
季節のうつろいを感じさせるぬくい風が吹き、浅い花の匂いが通り過ぎていった。
「帰ったら、ホットケーキを焼きましょうね」
「……はちみつの?」
戸惑うように何度か瞬きをし、百瀬はやや呆けて幼い声音で尋ねてくる。おずおずと正解を探す子どものようだった。
ふたたび百瀬へと視線を戻し、よどみなく、いつもと同じ調子で答える。
「はちみつとにんじん」
百瀬は一瞬だけ苦い顔をしてみせ、すぐにほろりと頬をほころばせた。
「あれ、でも鳩羽さまのところに寄るんじゃ……?」
「あしたでいいわ」
朔夜は亜麻色の髪を風に遊ばれるままはためかせ、その風に乗せるように、軽やかに言った。
鳩羽が聞いたら呆れるだろうか。もしかしたら、逆に喜ぶかもしれない。
あしたでいい、と言えること。
もう、明日が――未来が怖くないこと。
人か、人ならざるものかもあいまいな自分たちに、今の帝都はきっと優しくはない。
けれど、生きる場所を守ってゆくのも自分たちなのだ。そして朔夜も百瀬も、無力で、ただ怯えるしかない子どもとは違う。
何より、互いがそばにいる。だから、きっと。
「ねえ。百瀬は、結婚式で着るならドレスと白無垢、どっちがいい?」
「それはまだしばらく、迷わせて。次の春まで」
唐突な朔夜の問いにも、百瀬は言いよどむことがなかった。小さな揺らぎにも似た、かすかな不安も伝わっているのだろう。
そっと笑って、頬にかかる朔夜の髪を指先で除け、身を屈めて口づけてくる。
ほんの一瞬のことで、驚いた朔夜が百瀬の肩に手を押し当てるころには、もう離れていた。
「人に、見られたら……!」
「大丈夫」
恥ずかしくてつい唇を押さえる朔夜に、百瀬は蕩けた笑顔で周囲をさし示した。いつの間にか結界が張られていて、そのなかでふたりきりだ。
「お、お父さまとの約束は……」
百瀬が優美に微笑む。
人外めいた美貌のせいで、どこか危うい気配が滲んでしまっている。
「だから、秘密にして、朔夜。『約束』だよ」
百瀬はすいと顔を寄せてささやいた。
「そういう『約束』、安易に結んではいけないのよ」
「そうかな。これでよかったと思うよ、僕は」
安堵のため息にも似た、柔らかな声音だった。それから百瀬は体を引いて、代わりに手を差し出した。
「帰ろう、朔夜」
少し悔しいが、その手を取らないわけがない。しっかりと指を絡められると、胸まで熱がのぼってくる。
心が愛しさで満ちる。
歩きはじめて、結界が解かれるのを惜しく思った。
「ねえ、百瀬……」
並んで歩く百瀬を見上げると、百瀬は朔夜にみなまで言わせず、微笑みで受け止める。細めたまなざしにふたりだけに通じる秘密を滲ませて、歌うように言葉を放つ。
「今夜は、どんな夢を見ようか」
もの静かな声には、夜闇の安寧がひそんでいた。
朔夜も夜を想い、壊さぬよう声をひそめてささやいた。
「また星を見たいわ。一緒に」
「朔夜の望むままに」
望む未来は同じなのだと伝わってくる。
そのよろこびが、星のように胸に灯っている。
夜闇に輝き、ゆくさきを導いて、自分たちを照らしてくれるのだろう。
完




