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第七話 夜闇にかがやく願い星たちの夢②

 蔵での百瀬とのことを思い起こしながら、朔夜はゆっくりと顔を上げた。


「どうして科学が信じられ、あやかしや霊力が迷信と言われる今の世でも、神頼みやおまじないが流行ると思う?」

「自分の力では叶えられないから、安易に頼るのだろう。それが何かも知らないで」


 侮蔑を顔に表した新を静かに見返し、朔夜は透徹したまなざしを向ける。


「人が切実に願うからよ。自分が弱いことを知っていても、どうしても叶ってほしい願いがあるから」


 誰もが自分の力のみで生きてゆけるわけではない。それでも、と願ってしまうのは、決して弱さではない。

 その願いこそが、人を未来へと進ませる。ときには世界をも動かす。それだけの力が、願いにはあるのだ。


「あなたは、人の想いの強さが力になることを知っている。世を巡る大きな力に働きかけることさえある強い力に。だってそれを奪うために、こんなことをしたのだから」

「だから何だ」

「あなたは人の想いを蔑ろにしたのよ。生まれた力が叶えるかもしれなかった願いを無碍にして、奪ったの」


 人ならざるものの存在や力を迷信とし、陰陽寮を解散させるような人の世の法では、新を裁くことはできない。

 だからといって、それが罪でないとは言えないはずだ。

 少なくとも、朔夜は自分の良心に懸けて、罪でないとは言わない。


「それがどうした?」


 新は馬鹿馬鹿しいと言いたげにそう切り捨てた。

 この先はもう無駄なのだろうと思いながら、朔夜は最後の警告のつもりで口をひらいた。


「力をみんなに返して。あなたに、その力を使う資格はない」

「人の世を守るための力だ」

「人が夜を恐れ、帝都の街を明るく照らそうとするのは、なぜだと思う?」


 唐突な朔夜の問いかけに、新は鼻白んだように顔を顰めた。


「夜闇に潜む化物どもが、人間の平穏を脅かすからだろう」

「そう、平穏を脅かされると、怒り、恐れ、抵抗しようとするの。――人であろうと、なかろうと」


 新は黙って朔夜を睨む。朔夜は岩から降り、姿勢を正して新を見据えた。


「わざわざ相手を『化物』と呼んで化物を作り出し、諍いを起こすあなたは正しいの?」

「人の世を守るために、今こそ必要なのだと、なぜわからない? あやかしも霊力も迷信だとみなされ、人々は警戒を怠っている。先手を打つしかない」

「小さな恥辱が憎しみになり、積み重なって禍を招く――と、鳩羽さまはおっしゃったよ。君もそうじゃない?」


 それまで黙っていた百瀬が、ふと思い出したように口を挟む。

 新の目に、憎々しげな荒いものがよぎる。だが彼はかたくなに百瀬に視線をやろうとはせず、平静を装って黙殺した。

 百瀬は追い打ちをかけるように続けた。


「僕の言霊に屈して、僕を憎く思っただろう。僕にとってはたったあれだけのことだけれど、君は忘れられないんじゃない?」


 新が体のわきでこぶしを握り締めたのが見えた。


「君がなぜそんなに人ならざるものを憎むのか、僕にはよくわからなかった。べつにみなが悪辣なものじゃないでしょう。でも……」


 無視を続けようとする新を嘲笑うように、百瀬はあまり見慣れぬ軽薄な笑みを薄くうかべて彼を煽った。


「弱い君の、小さな『負け』の経験が、君にあやかしたちへの憎しみを募らせた――違う?」


 新の手元から、鋭く白い札が飛んだ。百瀬めがけて放たれたそれを、百瀬は霊力そのものをぶつけて叩き落とした――かに見えたが、次の瞬間、放った霊力に引きずられたかのように、百瀬から霊力があふれ出した。


「百瀬!」


 朔夜でさえ、その力の強烈さに呑まれかけ、一瞬意識が霞んだ。

 地面が抉れてひび割れ、巻き上げられた土が容赦なく襲いかかってくるけれど、百瀬の意思が残っているのか、かろうじて朔夜を避けてゆく。


 百瀬の力が暴れようとしている。新が先ほど放った札の術だろう。

 新が人の想いや霊力に干渉することを得意とするなら、力の不安定な百瀬を罠にかけることも想定できてはいた。身構えていたはずだったのに、百瀬の力はあっさりと新に引きずりだされ、本人は立ち尽くしたまま動かない。

 朔夜が織姫の生地で作った強力なお守りが、どうにか爆発を押し留めている。


(何もできないほど動けないってこと……⁉)


 百瀬の霊力は周囲の力の流れを乱し、『狭間』が不穏に軋んだ。

 朔夜は焦りそうになる気持ちをどうにか制し、荒れ狂う風のあいまに手を伸ばして、やっと彼の手を取った。百瀬がゆっくりと振り返る。


「百瀬……」


 百瀬の目は真紅に染まっていたが、暴れようとする力とはうらはらに、ひどく静かで落ち着いていた。彼は朔夜を見つめ、のどかに柔らかく微笑んだ。


「…………」


 そのまなざしから、繋いだ手から、百瀬の気持ちが伝わってくる。


『朔夜が思うあやまちを、僕は真実とは呼ばない』


 優しい笑みさえ含んでいた百瀬の言葉を思い出す。

 百瀬がなぜ、意思までも奪うことができる契約に平気な顔で縛られていられるのか。


「百瀬、あなたの気持ちが、わかる気がする……」


 何を恐れる必要もない――信じているから。


「その力は帝都を襲うだろう。誰が化物か、思い知るといい」

「百瀬は。人よ。私たちが人として生きようとする限り、そうしていける」


 百瀬と目を合わせたまま、迷いなく応える。


「こうありたいという願いが、私が――私たちが何者かをさだめるの」


 百瀬が信じてくれるように、朔夜だって、百瀬を信じている。


「百瀬」


 朔夜は握っていた百瀬の手を強く引き、それを反動にして、思い切り彼に飛びついた。驚きに目を瞠った百瀬は、たたらを踏みながら朔夜を受け止める。

 平気な顔をしていても体は自由ではないのか、百瀬の動きはぎこちなかった。それでもゆっくりと腕を動かして、大切そうに抱き込んでくれた。

 じゅうぶんに息を吸って、確かな声で名を呼んだ。


「『百瀬』」

『朔夜……何を……危ないよ』


 触れたところから、百瀬の戸惑いが伝わってくる。朔夜は百瀬を強く抱きしめて、自分でも思いもよらず、笑みがこぼれた。


 このひとを、誰にも――彼を狂わせようとする力にだって、渡さない。


「百瀬の力……私を傷つけることだけは、できないの」


 荒れ狂う霊力でさえ朔夜の身に馴染み、同じように、朔夜の力が百瀬へ溶けてゆくのを感じる。

 先日、百瀬が舐めた朔夜の血もまだ彼のうちに留まって、百瀬の身を守っていた。


 もしかしたら、百瀬を人ならざるものに近づけてしまうのかもしれない。

 でもいま、百瀬の腕に抱かれていれば、怖くはなかった。


 百瀬が人ならざるものになるなら――そのぶんだけ、朔夜にも近づく。


「この『命令』は、私の願い。きっと百瀬も……」


 百瀬は口をひらかぬまま、朔夜を見つめてひとつ瞬いた。


「『あなたの力は、あなたのものよ。誰にも奪わせないで』」


 風がぴたりと止む。唐突な静止は朔夜を軽くふらつかせたけれど、百瀬の腕が、傾いだ体を危なげなく抱き留めた。

 その朔夜の重さに感じ入るように、百瀬はゆるやかに目を伏せた。


「僕は朔夜に従う。僕を化物にする力も、朔夜がいれば怖れなくていい。僕にとって、朔夜の示してくれる道が、いちばん正しくて、幸せなんだ」


 静謐な夜のような声音で、歌うように言う。耳に心地の良い声は、子守歌のようだ。


「僕たちは、きっと同じ未来を願ってる。――でも、君は違う」


 百瀬はまぶたを上げ、静かな瞳で新を振り返った。

 新は悔しげにこちらを睨みつけていたが、まだ戦意を失ってはいないようだった。


 何かが起こる。

 そう身構えたところに、新の背後から少女のような何かが進み出てきた。

 黒々とした靄でで、『少女のようだ』と感じはすれども、姿かたちははっきりしない。


「……あなたの罪と弱さ、そのものね」


 学校で幾度か対峙していたその怪異を、このとき、朔夜はそう評した。


「これは知恵だ。弱い力でも、人間はより強力な道具を作り出せる」

「人の想いは、あなたの道具じゃないのよ」


 新はもう応えなかった。代わりに彼の式が両腕を広げるようにして突進し、朔夜たちを呑み込まんと襲い掛かってくる。


「私の力を喰らうつもりね。いいわ、あげる」


 朔夜は霊力を練り上げて新の式に向けて放った。式は喜び勇んで食らいつき、次の瞬間、不気味な膨張と収縮を始める。


「何だ?」

「私の力、ソレには強すぎるみたいよ」


 朔夜の霊力を取り込めずに苦しむさまを冷静に眺めながら、朔夜は吸収されない霊力を操って、式を縛っている新の呪力を断ち切った。

 ごう、と空間が唸り、式が急激に巨大化した。空を覆い尽くさんばかりのそれからは、触手のような腕がいくつも伸び、時おり人の顔のようなものも浮かべ、無秩序に蠢く。


 月が隠れ、あたりが一気に暗くなった。


「制御できるなんて、嘘じゃない」


 暴走しはじめる式の動きを見ながら、朔夜は冷笑した。


「お前が余計なことをしたから!」


 式が新の手に負えないのは一目瞭然だった。不安定に収縮する式は、やがて安定を求めてより強い力を欲するようになる。

 それは少女の悲鳴かうめき声か、不気味な金切り声を上げながら、ふいにひたりと朔夜を見た。


「朔夜」


 百瀬が朔夜を庇って前に立とうとするのを、彼の腕を引いて止めた。焦れたように朔夜を振り返った百瀬が、次いで何かに気づいて式へと目をやる。


「『止まりなさい』」


 朔夜の放った言霊で、式はぴたりと動かなくなった。


「なぜお前に従う⁉」


 目を剥いてうろたえる新をよそに、百瀬が深々とため息をついた。


「……朔夜。どうしてアレは、朔夜の血を取り込んでいるの」

「ちょっとした事故」


 百瀬にじっとりと睨まれた朔夜は、しらじらしくも目を逸らしてつぶやいた。

 あの式が学校で朔夜に襲いかかってきたとき、君枝を庇うために朔夜の血を餌にした。それが今になって生きている。朔夜の弱い言霊でも操れるのだ。


「こうして役に立つのだから、よかったでしょう」

「朔夜のこと、ひと欠片でも、ほかの何かにあげるのが嫌だ」


 百瀬は顔を思い切りしかめ、真紅を帯びた目で式を睨んだ。今にも消し飛ばしてしまいそうな気配を感じて、急いで彼を止める。


「待って百瀬、あれは……あの子たちは」


 ちらりと式を振り返ると、その向こうで新がどうにか式の制御を取り戻そうと足掻いているのが見えた。何かの札を飛ばしたり、霊力を練り上げたりと試みてはいるようだが、式はびくともしない。


「結局……力を持つものが勝つのではないか!」


 顔を赤黒くし、息を切らしながら叫ぶ新を、朔夜は醒めた目で一瞥した。


「そうね」


 冷たく答え、けれど憂い顔で、静止したままの式を見上げる。


「だから力をどう使うかが、どう生きるかを決めるのよ」


 今の世は、朔夜たちが普通に生きられる世界ではない。

 否、怪異を見て見ぬふりのできない朔夜は、けっきょく、普通に生きることなどできないのだ。

 でも、ひとが世界をつくってゆく。ひとを、そのひとの願いがつくる。

 そうであるなら、朔夜の願う世界もきっと、朔夜から導かれる。


「私や百瀬が生まれて、生きているのは、あなたの道具になるためじゃない」

「この世のために使うべき力だ……それがおれたちの存在意義だ!」

「それは、あなたがそう願っているだけでしょう。私は違う」


 朔夜は、じっと新の目を見据えた。

 新の怒りに燃えて見開かれた目は、彼の切実な思いを、どうにかして朔夜に見せつけようとするかのようでもあった。

 けれど朔夜が、彼と同じものを見ることはない。


「私は、百瀬や、家族や、友だちが幸せに生きられる世界がほしい」


 百瀬が朔夜の後ろから腕を回し、胸もとへ引き込むように抱き寄せる。


「朔夜を忘れないで」


 耳もとで優しくささやく百瀬を頭半分で振り返ると、百瀬はほんのり微笑んで、仕方がなさそうな目をしていた。


「でも、朔夜は忘れっぽいみたいだから、僕が幸せを願うよ。願って、叶えるよ」


 もう、未来を恐れて事実から目をそらし、素知らぬふりをすることもないのだろう。

 朔夜は息をついて百瀬へと微笑み返し、幼いころのように、すなおに安らいだ気分になった。


「化物ども……」


 新が憎々しげに睨みつけてくるが、朔夜の心は揺らがなかった。


「人でも化物でも、他人に何と呼ばれようとかまわないの、ほんとうは。百瀬がいて、家族がいて、友人たちがいてくれるなら」

「お前たちが化物であるなら、我らが祓わねばならんぞ」

「そうやって、あなたが、『化物』を生んでいるのよ」


 怒りに唇を震わせるが、言葉が出ないらしい新から、彼の式だったものへと目を移した。


「みんなの願いを、還してあげないと……」


 朔夜の力をもってすれば、消してしまうのはたやすい。けれども、それではだめなのだ。

 ためらって怪異を見つめたまま動けない朔夜に、百瀬がそっと、抱き寄せる力を強くした。


「『彷徨える魂の欠片たち、あるべき場所へ還れ』」


 百瀬は柔らかく闇に溶けるような声で詠う。


「あ……」


 朔夜が見つめていた先で、黒々と不気味だった怪異が淡くなり、ふわりとほころんで散ってゆく。

 振り返って百瀬を見上げると、彼は朔夜と目を合わせてまなざしを緩めた。


「こういうことでしょう、朔夜」

「ありがとう、百瀬」

「朔夜が望むことを叶えるよ、僕は。僕の力で」


 感情と呼応する百瀬の目の奥の真紅は、あたたかそうにぼんやりと滲んで見えた。

 百瀬と穏やかに笑み交わしたあと、ひとり荒野に放り出されている新を見やる。


「あなたの言う存在意義、私にはいらないの」

「……ただ己の欲望のために生きる、と言うのか」

「誰もがそうでしょう。こうしたい、こうなりたい、こうあってほしい。その願いが、そのひとを生かす。あなたも」

「世を守ろうと気はないのか、それだけの……それだけの力があるのに!」


 新は食いしばった歯の隙間からひねり出すように唸り、最後は悔しげに叫んだ。


「私は、私の守りたい世界を守るわ。大切なひとが化物と呼ばれることも、願いを利用されることもない、優しい世界を」

「ふざけるな! 世界が優しいものか!」


 朔夜が信じようとするものを砕いてやろうというように、新が全身で吠える。


「おれたちがどれほど……力が無いことでどれほど虚仮にされてきたと思う⁉ 国を守ってきたはずの陰陽寮は解散させられ、おれたちの力も迷信だと言われて!」


 式を失った新が、無謀にも何かの術を放とうとする。百瀬がとっさに朔夜を胸もとへ抱え込むが、朔夜は落ち着き払って、新が霊力を練り上げる前に、干渉して霧散させた。


「今の世で、人々を正しく守ることこそが我々の……迷信と蔑まれる旧陰陽寮の家が生き残る道なのだと、なぜわからない⁉」

「うちは、貴族籍を返上したもの」

「誇りを捨てやがって」

「貴族としての誇りより、大切なものを見つけたの。お父さまも、私も」


 朔夜が百瀬を見上げると、優しく朔夜を見下ろすまなざしがあった。

 百瀬と出会えたことが、朔夜をかたちづくっている。百瀬を見つめて、触れていると、愛おしさで優しくなれる。新には、そういうひとがいないのだろう。


 新がなお仕掛けようとする動きを見せるも、百瀬が朔夜を庇って前に立ち、紅に染まる双眸で射抜くように彼を見据えた。


「君を力づくで屈服させることもできる。そうされたい? それとも、ここで退く?」


 激高した新はなりふりかまわぬふうに数枚の札を投げつけてきた。二度目ともなれば、百瀬は霊力のみでそれらを難なく叩き落とし、なおも懐へ手を入れた新へ、『動くな』と言霊を放つ。


「ぐ……っ」

「君が僕への憎しみを募らせ、争おうとするなら、僕は何度でも君を打ち負かすよ」

「でも、争いたいわけじゃない。ほしいのは、そういう世界じゃないから」


 百瀬のあとを引き継いで、朔夜は言った。


 まだ口をひらこうとする新を制すように、すっと宙に手をかかげる。指で一文字の線を引くと、そこから『狭間』に裂け目が生まれ、広がって朔夜たちの眼前に迫った。

 裂け目の向こうから流れ込む風に亜麻色の髪や制服のスカートを翻しながら、一度、裂け目越しに新を見やる。

 新の力では、狭間を巡る霊力に干渉することなどできない。


 百瀬の言霊に縛られたまま圧倒的な力の差を見せつけられて、全身の憎しみを集めたような目でこちらを睨む彼に、静かに告げる。


「あなたの願いを叶えるのはあなたよ。私ではなく」


 穏やかに微笑んでみせると、新は見惚れるかのごとく、はっと瞠目したようだった。居丈高な男の姿が仮面であったと思わせるほど、幼い表情だ。

 だが彼のゆくすえを確かめる前に、裂け目は朔夜たちを飲み込んで閉じる。







「これで終わったかしら」


 帰ってきたうつし世の、百瀬の家の裏庭に降り立ち、つい後ろを振り返ってしまった。そこには、見慣れた朔夜の家しかない。


「朔夜は何も心配しないで」

「百瀬、逆に心配だわ」


 ひとりで何かを仕出かす気では、と半眼に睨みあげると、百瀬は無邪気なほど曇りのない笑みを返してきた。


「ほんとうに、僕は大丈夫だから」


 重ねて言う百瀬が朔夜を抱き寄せるのにあらがわず身を寄せて、彼の胸もとでため息をつく。


「無茶はしないよ。朔夜が悲しむとわかっているからね」

「私のためではなく、百瀬のために、その身を大事にしてほしいの」

「僕は朔夜のものだから、朔夜のものを大事にする、という意味では」

「私の話、聞いてた?」


 朔夜はもうひとつため息をこぼして、百瀬の肩に頭を軽くぶつけてやった。百瀬は嬉しそうに朔夜の髪を撫でるばかりだ。


「……きょう、百瀬の家に泊めて」


 狭間にいるあいだに、ずいぶん夜が更けていた。朔夜の家にもう明かりはなく、静まり返った夜のもと、世界に百瀬とふたりきりのようだった。

 まだ、ふたりきりの世界にいたくて、百瀬を見上げて強請る。百瀬は伏し目に朔夜を見下ろし、静かに微笑んで、「いいよ」と言った。


「昔みたいに、同じベッドでは眠れないけれど。……今は、まだ」

「夢をつなげて眠ればいいわ」

「ほんとうはいつも、朔夜を帰したくなかった」

「言ってくれたらよかったのに」

「朔夜を怖がらせて、逃げられるわけにはいかなかったもの」


 朔夜は三度目のため息をついて、いっそう抱きしめてくる百瀬に身を任せる。

 その百瀬の怖がりのせいで、朔夜に『契約』を唆したわけだから、諸悪の根源だ。

 でも今さら、咎めるつもりもない。


「もう隠しごとはない?」


 問うてみたら、百瀬は黙って、完璧に美しく笑う。どう見たって怪しい。


「今度は、何」

「たいしたことではないよ。ただ……今の朔夜は、困ってしまうだろうから」

「そうやってささやけば誤魔化せると思わないで」


 くすぐったい耳を押さえながら釘を刺すと、百瀬は軽やかな声を上げて笑った。

 何やら曰くがありそうだけれど、百瀬がそうやって笑っていられるなら、まあいいか、と思う。


 いちばんの願いは、同じなのだろうから。

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