第五話 よみがえる想いと二度目の約束①
鳩羽のもとを訪れた日から数日後、授業のあいまの中休みに、朔夜はひとり下級生の教室まで足を運んでいた。
「あっ、朔夜おねえさま!」
廊下に朔夜の姿を見つけたいもうとたちが、表情を輝かせて駆け寄ってくる。二年生の彼らは、後輩ができたことでお姉さんぶって振る舞おうとするけれど、朔夜から見ればまだまだあどけない。
「廊下を走ってはだめよ」
「ごめんなさぁい。おねえさまはどうなさったのですか?」
「お手伝いしましょうか?」
親を見つけたひよこのようにわらわらと集まってきて、朔夜の周りを囲む少女たちは愛らしいばかりだ。役に立ちたいと期待にみちた彼女たちを落胆させるのはいささか心苦しかったが、ゆるりと首を振ってみせた。
「いいえ、大丈夫。少し……」
言いながら、廊下の窓越しに下級生の教室を見回し、途中で目を細める。
(……いたわ)
朔夜の視線を気にした少女のひとりが振り返ったものの、不思議そうな顔をしてふたたび朔夜に向き直る。朔夜は誤魔化すように笑みを向けて、彼女の髪の乱れを指で梳いてなおしてやった。
生徒に紛れ込もうとするあの何かは、普通の少女たちの目には映らないようだ。朔夜にも、不明瞭な黒い影にしか見えない。ただ時おり、セーラー服の裾や、結った長いおさげの先などが、こちらを誘うようにちらちらと形を取る。
「おねえさま、今度、お裁縫を教えていただけませんか。このあいだ、先生に叱られてしまって……」
朔夜が黙っていると、教室から出てきたひとりの少女が、恥ずかしそうに朔夜のセーラー服の袖を掴んだ。そのおもてには、先生に叱られた気まずさよりも、憧れのおねえさまに話しかける緊張と興奮がうかび、頬をぽっと赤く染めている。
「おねえさま、わたしも!」
「わたしにもお願いします」
ほかのいもうとたちも次々乗っかって朔夜に迫り、教室のどこからか、「ずるぅい」と声があがった。級長の子が窓から顔を出し、「おねえさまにご迷惑をかけてはいけないわ」と級友たちを諭す。
「いいのよ。放課後に少し時間を作りましょうね」
きゃあ、と嬉しそうな歓声を浴びながら、朔夜は教室の中の、いてはならない生徒の気配を追った。相手も朔夜を見ているようで、穴が開きそうな視線を感じる。それは何をするでもなくじっとその場に留まっていたが、やがてふつりと消えた。
相手もなかなか尻尾を出さない。今はまだ何も起こっていないのが、かえって対処に困る。
あれに村主新がかかわっている可能性があるから、なおさらだ。
「放課後にまた来るわ。あまり遅くなってはいけないから、少しだけね」
まもなく予鈴が鳴る。はしゃぐ少女たちを教室の中に帰し、朔夜も自分の教室へと足を向けた。いもうとたちはすぐにお喋りを始めて、本人たちはひそめているつもりだろうが、耳のよい朔夜には聞こえてしまう。
「朔夜おねえさまが来年には卒業してしまうなんて、寂しすぎる」
「神森さんがうらやましい。あの朔夜おねえさまと結婚するのよ」
「幼馴染で、あんなふうに一途に大事にされて、それはすてきじゃない?」
「神森さんってば、実はお顔もきれいですものね」
「おねえさまはお顔で旦那さまを選ばないわよ」
なんとものどかないもうとたちのお喋りに、朔夜は少し切なくなって目を伏せた。
彼女たちは何も知らない。朔夜と百瀬が契約で縛られていることも、身近に迫る何ものかの脅威も。
切ないが、それは喜びでもあった。
(いつまでも、こうでありますように……)
真実という隔たりがあるせいで、みなと心から同じようには笑いあえなくて、少しさみしい。けれど、それでかまわない。
みながそうして何も知らないまま笑っていてくれることを、この無邪気なにぎやかさを、願っている。
***
「これは、何のおまじないなの?」
放課後になって、約束通りいもうとたちの教室を訪れた朔夜は、入れ替わりにそそくさと教室を出ていこうとしていた子がひらりと落とした紙を拾って、眉を顰めた。
「朔夜おねえさま……」
朔夜が険しい顔をしたせいか、その子は怯えたように半歩後ずさってうつむいてしまう。
細い髪が幼げな輪郭をふわふわと覆う、雛子という愛らしい名の少女。幼年部に入学してきたときから朔夜が面倒を見ていた子だった。心優しく、そのぶん気の小さいことをよく知っている朔夜は、意識して表情をゆるめながら、彼女の肩に優しく手を置いて顔を覗いた。
「怒ってはいないのよ。でも、これは……?」
雛子が怯えるのは、後ろめたい気持ちがあるからだろう。ということは、彼女はこれが何かよくないものだとわかっているのだ。
「あの……」
泣きそうになっている彼女の頭を撫でて落ち着かせ、朔夜は紙面に目を落とした。
四つ折りを開くと半紙ほどの大きさになった紙には、ひらがなの五十音表が記されている。異様なのは、紙の上部に朱墨で鳥居のような文様が描かれていること。
いつかの路地裏で元座敷童のあやかしが持っていたものと同じ、何かを召喚し、意思疎通をはかるための簡易な呪具だった。
だが、何か違和感がある。
「何か、悩みごとがあるの?」
呪具の精査を後回しにし、雛子にそっと尋ねると、彼女は「あっ」と小さな悲鳴をこぼして顔を上げた。
なぜわかったのかと、涙の滲む目で朔夜をうかがう雛子に、朔夜はことさらゆったりと、頼りがいのある姉として話しかける。
「あなたを見ていればわかるわ。その悩みを、これで相談しようとしていたのね?」
「……はい……」
「そう。これは誰が話を聞いてくれるの?」
咎めるふうではなく、興味があるのを装って紙を指し示す。雛子が、「おねえさまにも悩みが……?」と呟いた。仲間を見つけたかのように顔を明るくした彼女へ、朔夜は黙って曖昧な笑みだけを返した。
「これは、こっくりさんが来てくださるんです。それで、花びらを紙に載せておくと、花びらがひとりでに動いて……」
「子どもだましでしょう、それ。風で動くのよ」
周りにいた少女のうちのひとりが、呆れたように指摘する。級長だった。名を君枝と言い、彼女もまた、朔夜が幼い頃から知るひとりだ。
君枝は続けて、生真面目に言った。
「でたらめな遊びをしていたら、いもうとたちも真似をするでしょう。よくないわ」
雛子を諭してから、君枝は朔夜に向き直る。年のわりに落ち着いていて、朔夜を見上げる視線には理知的な光が見えた。
「最近、流行っているんです、この遊び。遊びだってわかっているけれど、結果を本当に怖がってしまう子もいて……」
「でも……」
級友たちの指摘を受けた雛子は、寄る辺なさげにうつむいた。体の前で手のひらを握り合わせて、何かに耐えようとする仕草を見せる。
「とても悩んでいるけれど、誰かに言いにくいことはあるものね」
朔夜は少女に優しく声をかけ、続いて君枝にも微笑みかけた。
「いもうとたちのよいお手本になろうとして、えらいわ」
「いいえ……当たり前のこと、です」
褒めたつもりなのに、君枝はさっとうつむいて沈んだ小さな声で応えた。一瞬見えた表情は暗く、何か苛立ちのようなものがうかんでいた気がする。
予想外で朔夜もとっさに反応ができず、その間に君枝は「わたし、今日は用事がありますので」と早口に言い、明らかに朔夜の前から逃げ出した。
「…………」
彼女の背中を見送り、言いようのない不安を感じる。少女にありがちな悩みや焦燥にしては、ほの暗く、よくない気配がした。
「何かあったのかしら」
「君枝ちゃん、最近暗い顔をしていることが多いんです。だからわたし、悩みがあるならこっくりさんに相談したらいいわって、言ったんですけど、くだらないって言われて」
雛子はしょんぼりと言った。
「……もしかして、そんなふうに色んな子に勧めているの? あなたも誰かに教わって?」
責めているとは思われないよう、注意深く雛子をうかがいながら尋ねる。彼女はおずおずとうなずいた。
「誰に教わったの?」
「それは……あれ?」
答えようとした雛子が途中で首をかしげる。朔夜が黙って待っていれば、彼女は不可解そうに眉を寄せ、少しの不安もうかべて朔夜を見上げた。
「あの……ごめんなさい、思い出せません……」
朔夜は顔を顰めそうになったのを、とっさに微笑みにすり替えた。
「そうなの」
「で、でも、これを知っているのはわたしだけじゃないから、ほかの子ならわかるかも……」
少しでも朔夜の役に立ちたいという健気な気持ちが伝わって、今度は心からの微笑みがこぼれる。だがその内容は、朔夜の抱く嫌な予感を増幅させるものだった。
おそらくは、ほかの子たちも同じようにしか答えられないだろう。
「ありがとう。あのね、これがくだらないとは言わないけれど、大事な悩みほど、どこの誰とも知れないものに相談するものじゃないと思うわ」
「…………」
「あなたをちゃんと大事に思ってくれるひとに、うち明けたほうがいいと思うの」
わかってはいるのだろう、雛子は黙って顔を伏せた。
誰にも言えない悩みごとを抱える気持ちや、それをうち明ける難しさは、朔夜も知っている。無理強いはできない。けれど、放ってもおけない。
「どうしても、誰にも言えないことかしら」
ゆるやかな口調で優しく尋ねると、雛子は泣きそうな目をしながらも、ゆっくりと首を横に振った。朔夜は頬をゆるめてうなずく。
「あなたが嫌でなければ、私も聞くわ。ね、ひとりで悩まないで」
「……ありがとうございます、おねえさま」
雛子の瞳が輝きを取り戻して、いっしんに朔夜を見つめていた。
この世に、大切に想ってくれる誰かがいると気づくだけで、どれほど暗い道にも明かりが灯る。その灯火は、進むべき道を示してくれる。
「おねえさま、お話を聞いてくださいますか?」
「もちろんよ」
まだ柔らかくて子どもらしい手を、両手で包んで握った。その肌の温かさは朔夜の指先から体中を巡り、この可愛い子たちを脅威から守らねばと、強い気持ちが朔夜を熱くするのだった。




